この終焉なき舞台に拍手を -落陽異伝-
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落陽異伝(らくよういでん)本作品の夢主は「終焉なき」本編と異なる”可能性”を辿った同一人物であり、英国出身です。
カタカナでの名前を推奨しております。
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[序]
そこにいたのは、夜の闇と血臭に紛れて死を待つ黒き少年であった。そばには男と思われる死人が数体。貧民街からほど近いその未開拓地には木々の隙間から月明かりが差し込み、血肉の散らかる林道を照らしている。凄惨たる殺人現場、人が人としての姿と意思を失い肉塊と化したおぞましい光景。それをただ一人で成し遂げた少年もまた、肉塊達と同じように地面に伏している。
死がひしめいている。数多の死が、闇夜の中に留まっている。
「が……」
死体同然の少年が血の混じった吐瀉物を吐き出す。それは彼の口元から林道へと蛇行した線を描いていた。ぬらりと月光がそれを照らし出す。さながら蜘蛛の糸のようであった。誰かがその銀の糸をもって死に食われかけている少年を地獄から極楽へと釣り上げようとしている。しかし少年へと繋がるその銀色の片端に立っていたのは、仏でも神でもない。
「君では私を殺せない。その程度の強さではね」
黒衣を肩に羽織った黒い蓬髪の男は少年へと告げた。その姿は月下だというのに闇に溶け込み輪郭を朧にしている。片目を隠すように巻いた包帯ばかりが白く月光を反射していた。血と肉と死体、そして死に行く子供。それらを目の前にしても尚、その包帯の下の表情に変化はない。
無。目の前の他愛もない光景をただ眺めているだけの静かな闇そのものが、男には宿っていた。
「やはり部下にはもう一人の彼を選ぼう」
男は歩き出した。少年の傍らへと近付き、手を差し伸べるでもなく蹴飛ばすでもなく、ただ通り過ぎる。
「自分の弱さの本質が何なのかわかったら、また私に挑みに来ると良い。それまで君の妹は預かっておこう」
そこで初めて少年が動いた。何かを言おうと呻き、男の歩みを止めようと足掻き、しかしその全てができないまま地面に伏し続ける。その体はもはや死体であった。抉れた腹から血がこぼれ、手や口元には血肉と吐瀉物が絡み付いている。だというのに少年は息をしていた。呼吸をし、その合間に声を上げた。
「待、ッ……」
静止を望む声。けれど男は足を止めず、少年を置いて林道の先へと向かう。死に瀕した者の声すら聞き届けないその姿は闇そのもののよう。訴えを聞くこともなく応えることもない、そこにあるだけの空間そのもの。その目に映るものは全て現象の一つであり、その耳に届くものも全て現象の一つであり、全て己と関与しないものなのだと言わんばかりの。
林道を抜けた先、街頭の一つもないアスファルトの路面と接したそこに車が一台停まっていた。黒服の男が硬い動きで後部座席の戸を開け、黒衣の男を待つ。
黒衣の男は躊躇いなくそこへと乗り込んだ。誰も何も言わないまま、戸が閉められ、車が発進する。二つのライトが道路を照らしながら去っていく。やがてそこは再び何事もなかったかのように暗闇と化した。風もなく、光は空からの一筋のみ。木々は作り物のように硬く凍りついている。
ただ、遠くなっていくエンジン音だけが月夜に音という変化を与えていた。
***
そこにいたのは夜の闇と枝葉に紛れて死を待つ白き少年であった。林間から覗く月のみが彼を見ている。整えられていない斜面には広く大きな木の葉が茫々と積もり、それらの合間から伸びた背の高い草が生物のいない地表に辛うじて変化を与えていた。風も届かず動きのない山肌で、少年は膝をさらに抱えて木の幹に身を委ねる。白色の髪は雑多に切り揃えられ、その下に潜む眼は月の光をも拒絶していた。己の他には誰もいないその山間で、少年は敵に怯えていた。
「……死、に」
少年は掠れた喉から震えた言葉を発する。
「死にたく、ない」
それは彼の本心であった。彼の本心だけが唯一、彼に寄り添い彼のものとなって彼と共に在った。
「死が怖いかい、敦君」
唐突に上がった声に少年は短い悲鳴を上げて頭を抱えた。ガサ、と何かが積み重ねられた葉を踏む。近付いてくるかさついた足音に少年は全身の肉をも潰すかのように身を縮める。
「こんばんは、良い夜だね」
それは紛れもなく人の声であった。そしてそれは、怯えた少年一人しかいない山野の中において何よりも、月明かりよりも木々よりも何よりも、優しくあたたかいものだった。
少年は顔を上げた。そこには丈の長い草よりも背のある、人の姿をしたものがいた。
——否。
月を頭頂に従えた闇が、人の姿をしていた。
「君にはその恐怖を乗り越えてもらわなければいけないね。でなくては彼と戦えない」
闇は一人言葉を発し続けていた。形を取った木陰の闇が自立して少年の前に現れたかのようだ。けれど唯一の白である片目を覆った包帯だけが、それが闇ではなく黒衣を纏った黒髪の男であることを明らかにしている。
少年は何度か声のようなものを発した。掠れたそれはしかし、少年の喉のどこにも引っかからないままに喘鳴として発され、言葉という形を持つことはなかった。何度もそれを試し、少年はようやく声を問いにして発することに成功した。
「……あなたは、誰ですか」
「君に会いに来た者だ」
闇のような黒衣の男は簡潔に答えた。それは何よりも鮮明で何よりも不鮮明な答えだった。少年には会いに来てくれるような知り合いは一人もいない。顔も知らぬ他人ならば尚更。
「……僕、に、なんて、なぜ」
「君を勧誘しに来た」
「勧誘……?」
「自己紹介をしよう。私は太宰。ポートマフィアの太宰治だ」
その名乗りに少年は呆気に取られたようであった。全身から力が抜け、震えさえもなくなり、そこにはただぽかんと目と口を開いた幼い少年がいるだけになる。白い少年のその表情に黒衣の男は目を細めた。
「実はそこそこの階級の人間でね、幹部という肩書きを持っているのだよ。という話をしても孤児院育ちの君には何のことかはわからないと思うけど。まあともかく、そういうことだ。肩書きなんて責任と面倒が増えるばかりの代物だけれど、一つ良い点がある」
男は白い月光を浴びて黒く佇んでいた。
「幹部には自分直轄の部下を、自由に一人雇い入れる権限が与えられるのだよ」
「部下……」
「君をポートマフィアに勧誘したい」
どこまでも闇を手放さない男は、唐突に、簡潔に、告げた。それは孤児院から追い出された少年には相応しくない言葉であった。
「マフィアに、僕が……? どうして……?」
「君が虎だからだ」
男の言葉に少年は黙り込んだ。沈黙は闇の中に戸惑いと共に広がり、否定も言い直しもしない男の姿は少年に混乱をもたらした。
「……ど、うして、それを」
「先程麓で暴れていただろう。そして君は己自身が人食い虎であることに気付いた。そしてこの山間でのたれ死んでしまおうとしている」
少年は震えていなかった。震えを忘れるほど、怯えていた。正気のない人形のように、呆然と闇色から目を離せないでいる。
「けれどもね、死ぬというのは難しいものだ。君に死への恐れが残っていればなおさら。……君に欲しいものを与えよう。君にそれを受け入れる覚悟があるのなら」
「ほしい、もの」
「求めるものはあるかい?」
男の問いかけに少年は黙っていた。その目と口をそのままに、思いもよらなかったものを目の前にぶら下げられた魚のように、黙っていた。けれど香ばしいそれへと食らいつくことなく、空腹で唾液を失いつつある口はかさついた言葉を発する。
「知らなかったとはいえ、孤児院の畑を荒らして、人を傷付けてきたんです……人を守らぬ者に生きる価値などない……今更、欲しいものなんて」
少年はわかっていなかった。目の前に現れた香りの良いそれが一体何なのか。ずっと望んできたものであるような気はしていた。けれどそれがどのようなものであるかという説明は少年にはできなかった。
それは、口にしてはいけないものだったからだ。それは、望んではいけないものだったからだ。考えることさえ許されない、恐怖の先にあるもの。
「今更……」
もしも、と何度も思い続けてきた感情。湧き上がる前に恐怖によって封じ込められてきた衝動。その片鱗を、少年は今初めて見た。男からの問いによって初めて——己の中に潜んだまま徐々に育っていた凶悪な獣の正体を知った。
人をも殴り殺し蹴り殺す、白き獣。檻の中で抑圧されながら膨張し、いつか檻を檻の主ごと吹き飛ばす機会を窺う爪と牙。この弱き心にいるはずのない狂気。自身が恐れてきた虎と同じ姿をしたもの。
「……僕、は」
少年の逡巡を黒衣の男は黙って見守る。口出しする必要もなくそれが少年の中から現れることを知っていたようであった。
「返答は?」
男はただ、そう問う。
少年は膝を抱えていた腕を解いた。その手で地をつき、握り、そして膝をつき、足に力を入れて立ち上がる。土が爪の間に食い込んでくる。膝に冷たい土が張り付いてくる。湿気た土の香りが引き留めるように少年の周囲に立ち昇る。それらを無視し、ただ目の前の闇を見据える。
目の前の見慣れぬ敵を見定めようとする肉食獣のような少年へ、黒衣の男は目を細めて微笑んだ。
「……良い返事だ」
無音、無風、月明かりだけがそれを認識している夜。少年の中の白獣は産声を上げることなく、生まれ落ちた。
***
港街ヨコハマ。
闇が蠢くこの港湾都市に一人の少女が降り立ったのは、二人の獣が世界に生じた半年後のことである。