第2幕-続
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[Act 2, Scene 23]
舞台の壁には壁画がかかり、それがとある部屋の一室であることを示している。その中央で、夫の退出を見送った妻が呆然と立ち竦んでいる。そばに控える侍女が、そっと声をかけた。
「奥様?」
「……すぐにお戻りになるから、先に眠って良いと言われました」
「少しばかり、態度が柔らかくなったようですけれど」
「……そうね」
ふと、奥方は目を伏せる。
「一体どうして、あのお方は私のことをああも手酷く言われたのかしら。売女だなんて……口にするだけでもおぞましい。私は神に誓って、夫以外の殿方を許したことなど一度もないのに」
「奥様はご主人様のことが本当にお好きなのですね」
侍女に言われ、その沈んでいた顔に赤みが差す。疲れ切った女が、瞬く間に恋にときめく乙女に変わる。
その変化に、誰もが息を呑む。まるで別人がそこに立ったかのような変貌ぶりは、見る者の心を奪う。
「私の心はあのお方のことで一杯よ、どんなに手酷く扱われても、身に覚えのない罪で罵られても、それでも私はあのお方の妻ですもの」
「奥様に言われた通り、寝床へ結婚の日に使った敷布を敷きました」
「ありがとう。……不思議なものね、人って追い詰められるとどうでも良いアイデアが浮かんでしまって。結婚式の日に使った敷布だなんて……あの頃はとても幸せだったから、その時の思いに浸りたくなったのかしら。……ねえ、もし私が死んだのなら、あの敷布で私を包んで頂戴」
胸の前で手を組み、彼女は観客へとその顔を向ける。祈りを捧げるようなその風貌は、天からの光を思わせる照明に照らされ、人々は魅入られる。
そこには、女性がいた。神を信じ、夫を愛し、いずれ来る最期を察している一人の女がいた。
「私の母に小間使いがいたのだけれど、その娘が好きだった歌があるの。『柳』という名の。それが男に捨てられたその娘の運命そっくりで……彼女は最後、それを歌いながら死んだわ。今夜はそれを歌ってみたくて仕方がないのよ」
どうしてかしらね、と微笑み、彼女は歌を紡ぐ。透き通る声は観客一人一人の耳を突き、その脳へと入り浸る。
歌が、頭を侵略する。
――Sing willow, willow, willow
(柳は歌う、声にならない声でひとりきり)
The fresh streams ran by her, and murmur'd her moans
(そばを流れる小川がその叫びを聞いている)
Sing willow, willow, willow
(柳は歌う、抱えきれない雫をこぼしながら)
Her salt tears fell from her, and soften'd the stones
(切ない涙に固い石すらしっとり濡れる)
Sing willow, willow, willow...
(柳は歌う、いつまでも、いつまでも…)
誰もがその声に、歌に聞き入る。そして目の前に広がる幻想に、遠い記憶に、胸を詰まらせる。
眼前で愛しい人が背を向けて行ってしまう。手を伸ばせどその名を叫べど、その人は決してこちらを振り向かない。どうしてなのだろう、自分はただ、あなたを愛しただけなのに。
どうして、と誰かが口の中で呟く。すすり泣く声が観客席を這う。泣いているのは舞台の上の彼女だけではなかった。
この感情は誰のものか。誰もが思う。
己の中に生じたのだから己のものなのだろう。胸の痛みに人々は涙を浮かべ、痛みに耐える。
そんな人々へ、彼女は歌う。男に捨てられた娘のように、己を罪深き女と罵った夫を想いながら。
――今夜愛する夫に扼殺されることを、彼女はわかっていたのかもしれない。
***
今日の舞台も終え、クリスは普段着に着替えて劇場の外へ出た。
約束の時間まではまだある。そんな時、クリスは劇場周りをそれとなく歩くのだった。そこには太陽座の劇を見た観客がまだいて、感想を言い合ったり涙を拭いたりしている。そこには様々な感情があった。そしてそのどれもが、必ず、喜びを潜ませている。
劇を見に来た人々が「素敵だった」「来て良かった」と言ってくれる。その声を知るだけで、クリスの、そして劇団員全員の力になる。その感覚が好きだった。喜びが連鎖する、その感覚が。
今日もまた、クリスは劇場の前の通りで人々の様子を見る。
「……良かった」
こんな自分でも、誰かを幸せにすることができる。それは見せかけかもしれない。それでも構わない。
「失礼、よろしいですか」
不意に声をかけられる。見れば、見知らぬ男が人の良い笑みを浮かべていた。血の気の薄い病的な白い肌と目の下の隈が、その異様さを表現している。
「はい?」
「こちらの劇団の方でしたね」
「ええ……まあ」
なぜわかったのだろう。今のクリスは普段通りの服装だ、リアの時の華やかさは全くない。劇場の外で劇場関係者として声をかけられたことすら一度としてなかった。
訝しむクリスに男はうっすらと笑む。悪寒に似た寒気に、腕を抱く。
「素晴らしい作品でした。噂に違わぬ見事な演技、まるで舞台の世界に誘われたかのようでしたよ」
観客だったのか。なら、クリスが劇場の裏口から出てきたところを見ていたのかもしれない。半ば強引にそう思いつつ、クリスは曖昧に微笑みを向ける。クリスとリアが同一人物だとわかる人間はいない、そう断言しても良い。だからか、今、酷く寒い。
「そう言っていただけて嬉しいです」
「ええ。まるで物語の登場人物のようでした」