第2幕
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[Act 2, Scene 22]
白鯨が海に沈んでから数日後――夕方、見慣れた劇場を前にクリスは一つ呼吸を挟む。
しばらく長い間、離れていた気がする。座長には米国の父母の元へ帰郷するための休暇と伝えてあったが、ここ数日のヨコハマがいかに怒涛の日々だったかをクリスは目の当たりにしていた。
立ち止まるクリスの周囲を人々が通り過ぎて行く。詛いの異能によって荒れた街は、何事もなかったかのように平穏を取り戻していた。本当にこの街を離れて休暇を過ごしていたのなら、この数日で何があったか全くわからなかっただろう。
この街には平和の皮を被った不穏が闊歩している。
「……さて」
入り口を通り、エントランスホールを抜ける。作品のポスターが貼られた柱の間を行けば、客席に繋がる分厚い扉へと辿り着いた。押し開け、照明に照らされた舞台の上へと目を向ける。
木の板が敷き詰められたそこで、普段着の劇団員達が台本を片手に何か言い合っている。それはセリフだった。今まさに、物語のクライマックスなのだ。
「僕がそこに立っている? まさかそんなはずはない、だって僕はここにいるんだもの。では君は? 僕とうり二つの兄弟かい? まさかそんなはずもない、だって僕には男の兄弟はいないんだもの。妹はいたさ、同じ日、同じ母の胎から生まれ出た可愛い妹が。けれど僕が海に攫われたあの日、あの子は海に飲まれて溺れてしまったんだ」
驚愕と歓喜が入れ替わろうとしている、その表情を鮮やかに浮かべ、彼は目の前にいる男装した女性に一歩歩み寄る。
「どうか教えて下さい、あなたと僕の繋がりを、関係を。出身は? 両親は? ……名前は?」
「出身はメッサリーン」
女性もまた、一歩歩み出る。その表情にはすでに歓喜があふれている。
「父の名はセバスチャン。そして双子の兄の名もセバスチャンと言いました。あなたと同じ背丈の、あなたと同じ顔の、あなたと同じ声の、あなたと同じ服の兄が。けれど私が海に攫われたあの日、その人は海に飲まれて溺れてしまいました」
二人は同じ船で荒波に攫われ、別れ別れとなった。互いの死を悼みながら、妹は兄の似姿で第二の人生を歩み始め、兄は前へ進むためにこの街を訪れる。死したと思っていた親しい人の姿を見、彼らの胸に生まれる感情はどれほどに輝かしいものだろう。
「あなたは兄の霊魂なのですか? それとも兄の姿を真似た別のもの?」
「僕は確かに霊魂だが、母の胎から持ち出してきた重い肉体という鎧は今も肌身離さず身につけている。もし君が女なら、それで全てのつじつまが合うのだけれど、そうしたら僕は涙を浮かべて君に言うよ――良く生きていてくれた、愛しのヴァイオラ!」
叫ぶように観客席へ向き、片手を広げて一息に言い放つ。
が、その言葉は呆然とした表情と共にふつりと途切れた。視線が合う。その目に驚愕と歓喜が同時に湧き上がる様を、クリスは見ていた。肩をすくめてみせる。
「邪魔をするつもりはなかったんですが」
「……リア、ですよね?」
その問いに答える必要はなかった。ヘカテが舞台から転げ落ちるように降り、クリスへと駆け寄ってくる。
「リア!」
「練習は進んでいますか? ヘカテ」
「ええ、そりゃもう! だってリアと肩を並べられる初めての機会ですから!」
きらきらという擬音語が似合いそうな表情で彼は興奮気味に両拳を握り締める。先程までの、生き別れの妹に再会した兄の困惑はどこへ行ったのか。
「よお、リア」
舞台袖から様子を見ていたヨリックが片手を上げてくる。
「待ちくたびれてたぞ?」
「すみません、長引いてしまって」
次から次へと「お帰りなさい」「楽しんできた?」と温かい言葉がクリスへとかけられる。帰郷など嘘だったのに、自分はこの街を壊そうとした組織の一員であったのに、この人達はそれを知ったらその表情を何に変えるのだろう。
わたしはこれからも、この優しい人達を騙し続ける。
「明日から復帰ですか?」
ヘカテが訊ねてくる。頷けば、彼は「やった」と小さく拳を掲げた。
「またリアと一緒に舞台に立てるんですね!」
「ヘカテの坊主は相変わらずリアのことが大好きだなあ」
なっはっは、と豪快に笑うヨリックに、ヘカテはその輝かしい顔に一瞬驚きを挟んでから、満面の笑みへと変えた。
「勿論! 僕はリアの大ファンですから。リアを見ているだけで他の人生を歩めるんです、他の誰かになれるんです。あんな経験したら魅了されない方がおかしいですよ。それに」
ふと、ヘカテがクリスへと向き直る。物言いたげなその表情に、クリスは首を傾げた。
「ヘカテ?」
「……ええっと、その、そうだ、この後皆でご飯でも行きませんか? せっかくリアが来たんだし」
何かを誤魔化すように言い直したヘカテが周囲へと同意を求めるかのように視線を向ける。それへつられて、クリスもまた他の劇団員へと目を走らせた。誰もがクリスの帰還を喜び、その顔に歓喜を浮かべている。それが偽りではないことは容易にわかった。
彼らは、本心からクリスを信じているのだ。最近の街の異変の原因の一つがクリスであるなど誰も思ってはいまい。無邪気な平穏、平和に入り浸った信頼、裏切りを知らない綺麗な心。
――君の演技は魔性だな、クリス。誰もが無自覚に、君が被った皮を君と見間違い、君の本性に気付かない。
ああ、そうだ。君の言う通りだ、フィー。誰も、わたしが誰かだなんて気付きはしない。
脳裏に浮かんだ高慢な笑みは、やがて眉をひそめた不満げな顔に変わる。
――君の本性はこれほどにも子供同然でふてぶてしいのだがな。
懐かしい声を欠けることなく思い出せる。胸に手を当て、息をついた。
彼はもういない。先日、ギルドとの戦いが終わったからだ。白鯨は街の手前で墜落し、ヨコハマの街は守られ、敦は生還した。
フィッツジェラルドは白鯨の落下と同時に行方が知れなくなった。敦から聞いた話では、彼の生存の可能性は著しく低い。死んだのだと、思うしかなかった。
あの男が、死んだ。
その非現実な事実は、安堵や喪失感と共に心の中に浮いている。
「……わたしを正しく見ることができたのは君だけだったな」
「リア?」
クリスの様子にヘカテが反応する。しかし首を振り、クリスは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい、ヘカテ。わたし、これから予定があって」
「そうなんですか」
心底残念そうにするヘカテに、クリスは今度は人の良い笑みを向ける。
「ええ。だから今度、また誘ってください」
「はい! 勿論!」
パッと顔を輝かせた同僚に、クリスもまた笑みを深める。この笑みも、心も、何もかも――全て嘘だということを、わたしだけが知っている。