第2幕
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***
しばらく、ぼんやりと空を見上げていた。
あの部屋を抜け出し、海辺に近いビルの屋上へ【テンペスト】で降り立った。眼前には港が、それを取り囲むように築かれた倉庫街がある。
海の色よりも薄く広がりのある青が、上空にある。これのどこかに白鯨が――フィッツジェラルドがいる。
今頃敦が谷崎によって白鯨へ潜入している頃だ。太宰がクリスに関する情報をどれほど敦に与えたのかはわからない。だが、せいぜい「英国と因縁がある」程度であるはずだ。
それは賢治や谷崎にしても同じ。彼らはまだ若い。この世界に潜む汚泥に関して、知らなくて良いことがある。乱歩は全てを知っているだろうし、福沢はそれを伝え聞いているはずだ。与謝野には最初から手術痕について気付かれているので、その点に関してだけ教えてある。
となるとクリスの過去を知るのは五人。多すぎるな、と苦笑する。
本来ならば一人だって生かしてはおけない。生かしておけば、彼らもろともこの街が壊される。
空を見上げても、白鯨の姿は見当たらない。未だ雲の上か、それともステルス機能が未だオンのままか。
白鯨が墜落してくることは彼らには伝えてある。が、敦には言わないようにしてもらった。ギルドの計画を知るのはギルド構成員のみ。それが探偵社へ伝わっていると知られれば、クリスの生存が知られてしまう。フィッツジェラルドには何としてでもクリスの死を信じてもらう必要があった。これはまたとない機会だ。うまくいけば、もうフィッツジェラルドから追われることはない。
もう、あの男に会うこともない。
あの飛行艇に残っているであろう優しい老人にも。
最後までわがままを聞いてくれた白髭の人を思い出し、目を伏せる。きっと敦はクリスの死を彼に伝えてくれる。
――できるなら、直接、さよならを言いたかった。
「……ここからなら、海が見えますね」
振り返らずに声をかける。背後で気配を忍ばせていたその人は、諦めたように息を吐き出しこちらへ歩み寄ってきた。
「突然姿を消すな。肝が冷えたぞ」
「発信機をつけていたのに?」
ポケットから小さな機器を取り出し、クリスは隣に立ったその人へそれを投げた。片手で掴み取り、国木田は再びため息をつく。
「そういう問題ではない」
「まだ逃げ出しませんよ、フィーがまだこの街にいる。それに」
彼が勝てば、この街と共に跡形もなく焼け落ちることができる。
その言葉は口にはしなかった。代わりに、大きく伸びをしてみせる。
「次の国について全く予定を立てていませんし」
「……この街を去って、また繰り返すのか」
「そうなりますね。慣れたものですよ、ギルドを抜けてからずっとそうしてきましたから」
そうだ、慣れている。ようやく親しんだ街を離れる寂しさには、慣れている。そんなちっぽけな感情よりも、街一つが呆気なく滅ぼされる方が問題だった。
「……クリス」
「はい?」
いたって明るく、クリスは国木田へ顔を向ける。けれど遠くを見つめるその眼差しに、その仮初めの笑みは打ち砕かれる。
「国木田さん……?」
「俺には忘れ得ぬ人がいる」
その目は過去を見つめている。クリスの知らない横顔が、そこにある。
――予感があった。
「……どうしたんです? やけに真剣そうな顔をして」
わざと明るい声で笑う。けれど、国木田の表情も口調も変わらなかった。
「二年前、太宰が入社してきた年だ」
「思い出話なんて珍しいじゃないですか。太宰さんを呼んできましょうか?」
「彼女は事件の被害者として俺の前に現れた。しかし彼女は事件の加害者で……いや、加害者でもないな、巧みに人を操り事件を起こしていた首謀者だった。亡き恋人のために……どこにも向けられない復讐心に囚われたまま、望みもしない殺戮を誘導していた」
「……今その話を聞く気分じゃありません。一人にしてもらえませんか」
「聞け」
「国木田さん」
「聞け、クリス」
短い声が、静かに、重く、命じてくる。それに抗い切れるはずもなく、口を噤んだ。空を見上げ、額に風を受けながら国木田は淡々と続ける。
「何が間違っていたのか、誰が間違っていたのか、未だにわからん。しかし事件は起き、彼女は死んだ。目の前で誰も死なせんと誓ったのはあれが初めてではない。……彼女の他にも、俺の力不足で死した者達が俺の背後に佇んでいる。俺が理想を求め足掻いている様を、ただ見つめている」
その姿はクリスには見えない。けれど、きっと、そこにいる。クリスのそばに、常に化け物が、あの人がいるように。
死者は、生者のそばにずっといる。
「俺には理想がある。しかしそれは叶うことが非常に難しい。何度も、あらゆる人から諦めろと言われてきた」
もはや止めることもできない独白に耳を傾ける。
「しかし俺は理想を諦めるつもりはない。それが俺の目指すべきものだと思っているからだ。しかしどんなに努めても、目の前で人は苦しみ、悩み、死んでいく」
淡白だった声は次第に意志を宿し、彼特有の覇気を取り戻していく。
「たまに心が折れそうになる。手を伸ばしてもそれは呆気なくこぼれ落ち、抱え込もうにもそれは大きすぎる。だからといって強引に引き寄せようとすれば、それは俺の自己満足に終わってしまう」
「……その話、後では駄目ですか」
「今でなければ、今度いつ話ができるかもわからんだろう」
「……そう、ですね」
「クリス」
名を呼び、国木田はこちらを見下ろした。その先にある言葉を聞きたくないと訴えているのに、この人はそれをわかっていながら話を続けてくる。どうしてこれほど強引になってしまったのか。初めの頃は、何か言いたげにしつつも押し黙ってばかりだったというのに。それだから扱いやすかったというのに。
どうして、こんなにも強い眼差しを向けてくるようになったのか。
「確かな標が欲しい。俺のこのやり方が合っているのだと、俺は己のためではなく他者のために理想を追い求めているのだという標が。俺の横で、俺によって救われ、俺によって理想的な人生を手に入れる……この手からこぼれ落ちることのない誰かが」
笑ってしまいそうになる。
この人は標を必要とするほど自分のやり方に不安を抱くことはない。信念とはそういうものだ。周囲が何だろうが、人はそれがあれば突き進める。彼は今までもそうしてきた。そしてこれからもそうするのだろう。他人のために命を投げ出し、全身で庇い、裏切られようと信じ続ける、その強い心で。
彼はそういう人だ。クリスには理解し難い、正義そのものの人だ。屈強でまっすぐな、一人でも生きていける人が、こうして他人に助力を求めるわけもない。
ならばその言葉は、この眼差しは、何のためにこちらへ向けられたのか。
――自明だ。
「俺に頼れ、クリス。俺はあなたを救うことで、俺の理想が正しいのだと知ることができる」
彼は、クリスへ手を差し伸べているのだ。これに縋れと。俺のためにと。
「……国木田さんらしいですね」
けれどそれは、救い出してくれと叫ぶことすらできないクリスを救うための虚言だ。
そうだ、これは国木田の優しさが作り出した嘘なのだ。
彼はクリスを救えない。それはもう、わかりきっている。
だから。
だから、わたしは。
「そんな言い方をされては、簡単に断れないじゃないですか」
嘘ならば嘘を返せば良い。どうせ自分は、あと数日でこの街から、この人の隣から、去るのだから。
そんなことを思った胸に小さな痛みが走る。その痛みに手を添えて、泣きそうになる心を閉ざして喜びの笑みに置き換える。
偽物の表情、言葉、感情。
「わかりました」
今、本心を言えたのならどんなに良いか。
「……わたしで良ければ、是非」
――さよなら、と言えたのなら、わたしはこの心を捨て切ることができたのだろうか。