第2幕
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***
思い出すのは、彼との最後の会話だった。
ギルドに拐かされるように入ってからどれだけの月日が経っていたのか、覚えていない。けれどあの時はこうなる未来など全く予想もできていなかった。
ずっと、彼の隣にい続けるのだと思っていた。
「フィー」
言い慣れた名を呼ぶ。自室で悠然と椅子に座る上司に、クリスはナイフの刃を向けた。
「わかってはいるんだ。ここにいた方が身の安全は保障される。フィーの権力でわたしは他国から捕縛されることはないし、フィーの実力でわたしは他人から略奪されることはない。けど、行かなきゃいけない」
「確かに君に秘められた力は魅力的だ。だがそれだけではないぞ、クリス」
刃先を気にする素振りもなく、フィッツジェラルドは両手を広げる。
「君の演技も歌も、天性のものだ。だからこそ手放すつもりはない。それは俺だけではなく、世界各地の人間が君を知れば自ずと抱く感情だ。それらから俺は君を守ることができる。しかしそれは手元にある時だけの話だ」
足を組み、両腕を組んだフィッツジェラルドの眼差しは鋭い。
「……どこへ行くつもりだ? クリス」
脳の奥に突き刺さるかのような視線を睨み返す。そうでもしないと心が負けてしまいそうだった。
「どこへでも。夢の叶う場所ならば」
「なら俺達も同じだ。どこへでも、君を取り戻しに行く。……クリス、君は俺の庇護下でないと生きていけない子だ。夢なら俺が叶えてやる。だから考え直せ」
「無理だよ、フィー。君のやり方に、わたしはもうついていけないんだ。それにわたしの夢は、君のそばでは叶えられない」
フィッツジェラルドの、金と武力で〈本〉の略奪を目指すやり方は間違っている。その願いがどんなに崇高な愛だとしても、それでも――強大な力を得ようとすれば、戦いが起こる。その中心に自分がいることは明白だ、彼は、そういう人だから。
この男は全てを利用する。並外れた力も、亡き友との思い出も、胸に秘めた夢も。
目の前の男を睨む。
この意志が伝わるように、この心が彼との決別に耐えられるように。
「……わたしの異能も夢も、利用させない」
――この傲慢な男に、大切な亡き友の夢までをも食い潰されるわけにはいかない。
あの人は言っていた。劇作家になりたかったのだと。そして望んでいた。クリスが己の脚本で舞台を演じることを。
それは思い出だった。もう戻ってこない日常の一部だった。それがクリスにとってどんなに大切なものであろうと、この男は金と力のために利用してくるに違いなかった。
現に彼は、クリスの力を戦力として数えている。これは本来使われるべきではないものだというのに。
フィッツジェラルドからウィリアムを守るためには、これしかなかった。これしか、なかったのだ。
「それが恩人に対する言葉か」
「感謝はしてる」
素っ気ないクリスの返答にフィッツジェラルドはただ笑っている。それが穏和なものではないことくらい、見ずともわかっていた。その表情が怒りでも呆れでもないことも、わかっていた。
知っていた。
これが、ただの決別ではないことを。
ギルドは檻だった。外部と遮断し手の内に飼うための、檻。けれどギルドは砦でもあった。唯一無二の、クリスを外部から守りきる砦。そこを出ようとしている意味をクリスはわかっている。外には敵意がある。この力を手に入れようとする銃口がこちらを狙い、この身に沈められた財産を奪い取ろうとする刃先が全身に突きつけられる。銃弾を弾こうと思えば周囲が荒れ地と化し、刃を防ごうとすれば世界が戦火に包まれる。
わかっている。
知っている。
それでも、これしかなかった。
唯一この心に残り続けていた優しい思い出を守るためには、こうするしかなかった。この思い出すらも奪われたら、わたしはわたしでいられなくなりそうだったから。
「君の異能力、声、そして君自身。どれを取っても捨て難い。だから仮に君が自由を得たとしても、俺は君の前にまた現れるだろう。俺だけでなく、俺と同様に君に囚われた数多の略奪者もまた」
フィッツジェラルドはその支配者たる眼差しでクリスを見つめる。獣の目だ。獲物を前に、牙を隠し続けている。いつそれを首元に食い込ませようかと機会を狙っている。
奴はずっと狙っていた。この力を、存在を、全てを。
けれどその険を秘めた眼光の奥に潜む感情は、研ぎ澄まされた刃とは正反対のもの。
それは、夕日に染まる海のような――常に青を映し続けていた、凪いだ水面。
「それでも行くか、クリス。脅威が迫る恐怖は脅威の中に留まるよりも過酷だぞ」
「……ああ、行くよ」
迷いなく答えた。それが全てを捨てる言葉であることもわかっていた。それでも、行かなくてはいけなかった。
「そうか」
フィッツジェラルドは短く言い、目を閉じた。顔を背けてクリスは部屋を出て行く。振り返りはしなかった。
彼の表情に浮かんだ何かを、知りたくなかった。