第2幕
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[Act 2, Scene 21]
敦は白鯨へと降り立っていた。宙へ雪とともに消えていく飛行機の操縦席から、谷崎が親指を立てて激励してくれたのを見届ける。
白鯨へ足を踏み入れるのは二度目だ。一度目は強引に誘拐され、その後太宰に呪いの人形を届けるためモンゴメリの協力を得て脱出した。まさかまた、自らの足で戻ってくることになろうとは。
――生きて、いつかここから救い出して。待ってるから。
赤毛がきらめく様を思い出す。
モンゴメリは敦のためにギルドを裏切った。それに報いるためにも、彼女を助け出すためにも、この作戦を成功させなければいけない。
「潜入しました」
通信機を耳にかけて報告する。
『中の様子は?』
太宰の声が聞こえてくる。敦の単独潜入のサポートは専ら太宰が担当してくれることとなっていた。これ以上に頼もしいことはない。
注意深く周囲を探る。しかし人の姿は見当たらない。奇妙だ。以前この空中要塞に詰め込まれた時は、逃げる隙もないほどに船員があちこちにいたというのに。
「静かです……おかしい、前はもっといたのに、一体どこへ」
『油断は禁物だよ。慎重に進むんだ』
「はい」
白鯨の最深部へと歩みを進める。白鯨の内部は粗方は把握してある。加えて、乱歩達が入手した資料から、そしてクリスの証言から、目指すべき場所もわかっている。
白鯨のコントロールを奪う。
そんな大逸れたことが、このちっぽけな人間にできるものなのか。
「……できる」
自分に言い聞かせる。
「やるんだ」
この作戦を決行するにあたって、太宰は敦を選んだ。あの太宰が選んだのだ、きっと敦でなければならない理由があり、そして敦がそれを成し遂げられると踏んでいる。その期待を裏切るわけにはいかない。何より。
――断れ。貴様には無理だ。
あの、呪いのような存在から放たれた言葉を片っ端から否定していかなければ、気が済まない。
気を引き締め直し、歩みを進める。やがて見えてきたのは扉だった。資料とクリスの証言からするに、この部屋に白鯨のコントロールを制御するための端末があるのは明白だった。
しかし人のいる気配はしない。無人だろうか。ガチャ、とドアノブを回し――その中に一人いた人影に息を呑む。
「やあ、久しいな小僧」
見覚えのある白ひげの老人が椅子に座っている。白鯨を呼び出した異能力者であることはすぐにわかった。確か、その名はハーマン・メルヴィル。
唾を呑む。気配に気付かずのうのうと扉を開けてしまった。気が緩んでいた。もしこの老人がフィッツジェラルドだったなら何をする間もなく倒されていた。
「……あなたは」
動揺を押し隠して声を出す。対して老人は悠然と椅子に座っているだけだ。
「この白鯨のコントロールでも奪いに来たか」
見透かされている。
「じゃが、残念ながらそれは不可能じゃ」
「どういう意味だ」
「不自然と思わなんだか?」
パイプから口を離し、煙を吐き出すその動作には余裕がある。簡単に潜入された側の様子ではない。
「このタイミングでギルド主力が白鯨を離れる。主力だけでなく船員も輸送船で離れておる。もはやもぬけの殻に近いこの白鯨の状況……その理由がわかるか? 小僧」
「……罠、だったのか」
「半分正しい。惜しいな」
トントンと、キセルの中の灰を均す。鼻の奥を突くような奇妙な煙の臭いが敦に届いた。
煙。
「終わりだからだ。この戦争のな。この白鯨と共に、ギルドの敵は全て灰になる」
「灰、って……」
脳裏に浮かんだのは先日の街。煙が立ち上り、人々が赤い涙を流しながら彷徨っている、地獄の光景。
また、あれが繰り返されるのか。しかしあの事態を引き起こした呪いの異能者は太宰によってギルドから救出されたはず。
では、灰とはなんだ。何が、街を燃やすというのか。
答えにたどり着くのは簡単だった。
――この白鯨から大量の人が消えている、その理由を考えれば良い。
「……まさか」
「ヨコハマ焼却作戦はまだ終わっておらぬぞ」
穏やかな表情とは真逆に、その目は鋭い。
「――第二段階『白鯨落とし』。先日の呪いの異能によって傷付いたこの街は、この一撃によって完全に破壊される」
「そんな……!」
ギルドは地上での総攻撃を計画中だと、太宰は言っていた。
それは、嘘だった――否、地上への総攻撃を、ギルドは計画していたのだ。
「驚くのは早い、探偵社の小僧」
なぜなら、とふとその目を細めてメルヴィルは言う。その寂しげな眼差しの意味を探る前に、彼の口から伝えられた言葉に敦は絶句した。
「落下地点には、探偵社とマフィアの拠点も含まれておる」
「何だって……!」
「落下はすでに開始しておる。あと一時間足らずで、この白鯨は地上に激突する」
そんなことは聞いていない。止めなければ、と敦の頭の中に警鐘が鳴る。落下を止めなければ、街が、呪いから逃れたばかりの街が、壊滅する。方法は――そう考え初めて、敦は一つの疑問にたどり着いた。
「……この白鯨は、あなたの異能力によるものなんでしょう?」
クリスはギルドの戦力全ての異能力を把握していた。無論、メルヴィルの異能に関してもそうだ。この老人は白鯨を操ると彼女は言っていた。彼ならば、その落下も止めることができるのではないか。
なのになぜ、そんなに寂しそうな顔で事態を受け入れているのか。
「確かにこの白鯨は儂の異能……じゃが今や内部の七割を兵器置換され、儂の操作能力が及ばなくなっておる」
ああ、そうか。だから、この人は、こんなにも。
『聞こえるかい、敦君』
通信機から太宰の声が飛び込んでくる。
『そちらの話は聞いた。……というか、知っていたよ』
「え?」
『クリスちゃんが生きていることは彼らに勘づかれてはいけない。だからギルドから渡された機密書類の誘導の通りに、君にも騙されてもらった。悪かったね。ちなみにその部屋に制御端末がないことも掌握済みだ。その部屋に行ってもらったのは彼女の希望でもあったわけだけど』
「は、はあ……ってそれよりも太宰さん、このままじゃ街が壊滅します! 作戦を中止して避難を」
『言っただろう敦君。知っていた、と』
その一言に、悟る。
そうか、この人は知っていた。知っていて、敦一人を白鯨に向かわせた。知っていたなら、その時点で避難を開始していたはずだ。
なのに。
つまり。
「……作戦は続行、ですか」
『白鯨のコントロールを奪う。それが当初の目的であり、最終目的だ。それができるのは君だけだよ、敦君』
やれるかい?
穏やかな声は諭すような響きをも孕んでいて。
――この小さくてくだらない孤児院の子供に、「君ならできる」と言外に告げていて。
断れるのなら、断ってしまいたい。これほどの重圧、背負いきれるほど僕は大きくない。そう思う心も確かにあった。けれど。
「……はい」
僕しかいない。ならば、逃げることなどできない。逃げるなど許されない。
この街を、あの場所を、探偵社の皆を救えるのは、自分だけなのだから。
逃げなど、しない。
『任せたよ』
この穏やかで短い一言が、こんなにも重い。
通信機から目の前の老人へ意識を向ける。彼は敦を見つめたまま、こちらが言おうとしている言葉を待っていた。
「……落下を止める方法を、教えて下さい」
「制御端末を使うしかない」
あらかじめ用意していたのであろう答えが告げられる。
「左に進んで吹き抜けの先の部屋に、それはある。――無論、警備は厳しいがな」
「警備? 船員すらも離れているのに?」
「この白鯨に乗り込んでいる人間は船員と主力構成員だけではないぞ」
機械か何かの仕掛けでも施されているのだろうか。けれどそれにしてはこの老人の表情は明るい。敦の疑問を面白がっているようでもある。誰かが、まだこの要塞に残っているのか。思考を巡らす敦に老人はふと窓の外を眺めた。
「小僧、クリスを知っているか」
「え……」
「あの子は……どうなった」
突然のことに喉が締まる。クリスが探偵社にいることはギルド側に伏せるよう、事前に言われていた。
――聞かれたのなら、死んだと言えば良い。それが彼女をギルドから守る唯一にして最大の手だよ。
太宰の言葉を思い出す。けれど。
「……クリスさんは」
本当に、それが正しいのか。だって目の前の老人の目は、口調は。以前呪いの異能が発動された時にやり取りをしていた彼女とフィッツジェラルドの様子は。
「……あなた方にとって、何だったんだ」
敵対している人間に向けるようなものじゃない。
「彼女はかつての仲間じゃよ」
「知っている。じゃあ何で彼女を追い詰めようとするんだ」
「……クリスは居場所のない子供じゃった」
孫を見る祖父のような目に、敦は息を呑む。
ああ、やはり、違った。
彼女にとってのギルドは、孤児院ではなく――探偵社だったのだ。
彼女はギルドに敵対していたのではない。何か理由があって離れざるを得なかったのだ。
「彼女が感情を取り戻したのはここじゃ。しかし笑顔までは見ることが叶わなかったが……久し振りに会ったあの子は変わっていた。良い意味でも、悪い意味でも。――あの子は死んだか」
「……ああ」
目を逸らす。嘘というのはこれほどまでにきついものだったか。
「そうか」
老人の微笑みから逃げるように、敦は背中を向けて部屋の外へ向かう。
耐えきれなかった。
扉へ手をかけ、しかしふと背後を見遣る。
「教えてくれてありがとう。……あなたは脱出しないのか」
「気遣いをされるとはな」
老人は笑った。その笑顔は、いずれ来る死を待ち望む男のものでもあり、愛しい相棒と共に時を過ごせることを喜ぶ戦士のものでもあった。
「白鯨は儂の異能、例えその制御がこの手を離れていようともな。……この白鯨が異国の地で数多の人々を殺めるというのなら、せめて儂も共に落ちようと思う」
目を細めた先に見ているものは過去か、それとも。
かける言葉もなく、敦は身を翻して部屋を出る。それでも、あの寂しげな笑顔が忘れられない。この空中要塞を奪い彼の最期を奪うことは、彼にとってどんな結末なのだろうか。
全てを救うほどの力は自分にはない。ならばせめて、確実に大切な人達を救える選択肢を選びたい。
「……行こう」
制御端末のある部屋の位置は、わかっている。