第2幕
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***
外は暗い。窓に探偵社の部屋の中が映り込み、鏡のように国木田の表情を見せつけてくる。
それから目を逸らし、国木田は窓から部屋の中へと向き直った。先程から見つめていた景色と左右対称の光景が広がっている。ただ唯一違うのは、国木田の背後になって窓に映らなかったソファに男が寝そべっていることだ。
「かなり貴重な資料だよ」
歩み寄った国木田に、太宰は腹の上にぶちまけた紙束の一つを差し出す。
「これでクリスちゃんを警察に突き出すことができなくなった。彼女との約束通り、ね。――非公認の異能実験、その被験者への非人道的な人体実験。クリスちゃんの故郷にとって、これは大いなる汚点、そして大いなる研究成果だ。海外への漏出を防ぐために何をしてでも掻き消しに来るだろうね」
「だからクリスは祖国に追われている、ということか」
紙束を受け取り、その表紙に目を通す。細かな英字が綴られたそれの上部には表題と見られる太字が横一文字に並んでいる。
異能力の科学的詳細はまだわかっていない。それを研究する機関が世界のあちらこちらにはある。が、何をどのようにして研究を進めているかなどは知る由もなかった。
けれど、と応接室で一人ソファに座っている少女へと思いを馳せる。
「――実験体、か」
太宰に付き添われながら探偵社に顔を出したクリスは、その後、その身に背負った過去を語った。太宰に「詳しく教えてくれたら君を軍警に引き渡すのをやめる」と言われたクリスの表情の変化は忘れられない。
驚愕、怯え、そして――諦め。
彼女が何を諦め過去を話すに至ったか、今ならわかる。
彼女は何を犠牲にしてでも、軍警に、国に、世界に、ここに生きる誰にも、その存在を知られてはいけなかったのだ。
「人が異能力に目覚める理由はわかっていない。心の限界を超えた衝撃をトリガーとする傾向があるとも聞くけれど――親しい人の死とかね――真偽は不明だ。でも、彼女の異能力【テンペスト】は他者によって意図的に発現させられた……無抵抗をも実現して」
「資料の中に書かれていたな。だが無抵抗とは何だ」
「おそらく、異能を駆使する上で制限がないことを指しているのだよ。例えば国木田君で言えば手帳、私で言えば触れること、与謝野先生で言えば瀕死。彼女にはそれがない。いつまでもどこまでもどれほどにも、彼女はその力を発揮できる」
太宰ののんびりとした声は明瞭に現実を告げてくる。
「それはとても魅力的なことだ。異能力の抵抗なしに発動される力――彼らはどうやら異能力を生き物か何かのように捉えているらしいけれど――それが意図的に成せるのならば、これ以上ない兵器になる」
だから彼女は異能者であることを隠し続けた。その力が利用されてはならないものであったから。その力が人為的に施されたものであることを知られてはいけないから。
「加えて第二の異能力【マクベス】だ。人間一人に二つの異能……可能とは思えない。複数の異能が隣り合わせになるんだ、通常なら特異的な現象が発生して所有者の体に収まりきらなくなるだろう。それが起こっていない……いずれかの異能がもう片方の異能を制圧しているか、もしくは何らかの特異的作用が既に起こっているのか。わからないことだらけだ、研究対象としては垂涎ものだねえ」
大きく仰け反る太宰にソファが潰れる。その無駄に長い手足を支えているソファはあまり新しくはない、丁重に扱って欲しいものだが。文句を視線に込めて睨み付けた後、国木田は同僚の言葉を改めて思い返す。
彼女には負うものが多すぎる。特異的な異能所持者にして、世界を覆す異能技術の実験体。その異能は強力で、それでなくとも彼女の演技力は他者の心をも支配する。
力を求める者ならば彼女を得ようと思うのは至極当然だ。
そして、彼女の心に深く根付いているはずの、友の死。
「……その異能は亡き友のものだったと言っていたが……」
――あの場所を出る直前に、わたしはウィリアムを殺しました。【マクベス】はその時からわたしの中にあります。……奪ったんです、あの人から、命と異能を、わたしは。
その事実を告げた彼女は人のぬくもりに狂乱する危うさを全く見せなかった。まるで新聞に記された死亡事故の記事を読み上げるように、クリスは友の死を告白した。友を殺した理由も、状況も、方法も、何も続けなかったその表情には、悲しみも苦しみも恐怖もなかった。
彼女は隠しているのだろうか。それとも、本当に友の死は彼女にとってその程度のものなのだろうか。
後者であれば良いと、国木田は思う。前者であったのなら、彼女はその背に負った重みにいつか潰れてしまう気がした。
「異能が他の人に渡されるなどあり得るのか? 聞いたこともないぞ」
「その点は謎だね。彼女に施された実験の一環に異能譲渡関係があったのか、彼女の知らないところで他の異能が使われてそういう状態になったのか、それとも」
そこで言葉を区切り、太宰は突然黙り込んだ。不自然な沈黙に国木田は眉間のしわを深める。
「どうした」
「……いいや、何も」
また、それだ。こういう時ばかり、こいつは重要なことを話さない。
国木田の視線に気付いているだろうに、太宰は国木田に見向きもせず、勢いをつけて上体を起こした。資料が床に散る。貴重な資料なのではなかったのか。
慌てて拾う国木田に対して、太宰はやはり気にもせずに顎に手を当て呟く。
「さて、どうするかな」
「何をするつもりだ」
「彼女の言う通り、彼女の存在は秘匿されるべきものだ。けれどいつまでもそうはできない」
彼女にはギルドにいた頃に作られた偽の国籍があり、偽のパスポートがあるという。けれどだからといってその存在そのものを世界から隠し続けることは容易ではない。一般人や貧民街の子供なら可能だろうが、クリスは今や祖国に、そして彼女を知り彼女を求めるあらゆる権力に追われている。異能特務課を通して様々な法外行動を認められている武装探偵社だが、さすがに一国を相手取ることはできない。
つまり。
探偵社に、国木田に、クリスは守りきれない。
その事実に国木田は唇を噛む。目の輝きを失った青を、恐怖に狂乱する亜麻色を思い出す。
ふと、応接室の方を見遣る。彼女は今、また夜空を見上げているのだろうか。月明かりに横顔を晒して。
――国木田さんは、どう思いますか。
かつて、喫茶店で彼女が言っていた。
――飛べない鳥が大空を求めて鳥籠から飛び出すことを。泥の中で生きてきたネズミが人に必要とされたいがために排水溝から這い出ることを。
彼女は大空を求めたのだろうか。人に必要とされることを夢見たのだろうか。一羽の鳥として、一匹のネズミとして。誰も自分を助けず、誰も自分を守らないと知りながら。
誰も自分を守れないと知りながら。
わかっている。国木田の理想は万能だが国木田自身は未熟だ。救えぬ命など数知れない。そういう世界で、そういう仕事だ。
「……国木田君」
太宰が静かに呼んでくる。
「……覚悟、しておきなよ」
覚悟。
それは何のことだろうか。
けれど問うこともなく、国木田は手の中の資料を握り込む。グシャ、と紙が歪む音が静かな部屋でいやに大きく聞こえた。