第2幕
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[Act 2, Scene 20]
それは小さな村の出来事だった。そこには多くの人がいて、まるで一つの共同体のように、人々は誰もが父で誰もが母で、子供達は全ての大人を父母と呼んでいた。それをおかしいと思ったことはない。誰も「間違っている」とは教えてくれなかったから、「おかしい」と思うこともなかった。
小さな箱庭。偽りの桃源郷。
そんな大きな嘘の中の毎日は幸せだった。皆が同じ生活をしているから教育や環境の差はなかったし、小さい時からずっと一緒だから隠し事もイジメも奪い合いも何もなかった。わたし達は確かに幸せだった。
その幸せは神様からの贈り物なのだと、毎日先生は言っていた。そしてその幸せを妬むもの――〈赤き獣〉と呼ばれる化け物がこの世界には存在し、神様から力を与えられた人がそれを排除するのだと教わった。
神様から与えられた力は〈恵み〉と呼ばれていて、〈恵み〉の内容は人によって違う。火や水を操る人もいたし、宙から刃物を作り出す人もいたし、触れたものを変形させる人もいた。その力で檻の中の〈赤き獣〉を倒す様子は、何度見ても心が浮き立った。
わたしは、わたし達は、〈恵み〉で〈赤き獣〉を倒す彼らに憧れた。格好良いと思っていた。
だから「おかしい」とも「間違っている」とも当然思わなかったし、ましてや〈赤き獣〉が何なのかだとか、どうして〈恵み〉を得るための儀式で毎日機械に体を繋がれるのだろうだとか、なぜ村の外は森に囲まれていて出ることも入ることもできないのだろうだとか、そんなことを考えることもなかった。
〈恵み〉を得て、〈赤き獣〉を倒し、皆を守る。
長年の憧れを経てようやくそれができた時、わたしは歓喜するのだと思っていた。
――なのに。
「……どうして」
わたしは床に座り込んでいた。
ぐしゃぐしゃに掴んだ髪が雫と血に濡れていて、遠くからは雨音が聞こえてきていて、いくつもの水滴が頰を、背を、滑り落ちていく。
〈赤き獣〉を倒すための箱型の特設会場は、四方の壁のどれもが吹き飛んでいた。ガラス張りの天井の上で〈赤き獣〉が倒された瞬間歓喜に沸き立った村人達も、遠くからマイク越しに「異能指数上昇! 正常値を超えています!」だとか「検体ナンバー八八三、脳波検出不可、制御不能!」だとか言っていた「先生」達も、瓦礫の下で関節の壊れた人形みたいに転がっている。雨水に血が混じって、水に溶いた絵の具のように綺麗だった。
その赤は〈赤き獣〉の一部だった。
わたしの腕を、体を掴み、内臓を垂れ下げた胴体へわたしを埋めるように引き寄せた、化け物の欠片達。
この肉塊の山を作り出したのはわたしだ。わたしの〈恵み〉だ。風が目の前に吹き荒れたことは覚えている。刃物のような銀色のそれが、この身を掴んできたいくつもの腕を、中身を溢れさせる胴体を、歪んだ顔面を、一瞬で切り裂いた様子も――覚えている。
〈赤き獣〉を、初めて倒した。初めて殺した。手に、肩に、その肉片と血が降りかかってくる。それは喜ぶべきことであるはずなのに。
――全部……全部、壊して……!
歓喜ではない感情は叫びと共に暴風と破壊を呼んだ。目の前の光景を壊すように、建物を、村を、人々を、吹き飛ばした。
それでも、目の前に散らばった赤色は、消えてくれない。
全部壊してと願ったのに、現実だけが、事実だけが、消えてくれなかった。
「クリス!」
誰かが駆け寄ってくる。土砂降りの中瓦礫を押し避けて走ってきたその人に、顔を向ける。
「……ベン?」
ライトブラウンの髪は濡れそぼり、同じ色の目は大きく見開かれていた。あの人の友達、そしてわたしの友達、ベン。けれどその隣にいつもいた、あの人の姿は――ない。
「……ウィリアムは?」
その問いに彼は黙り込んだ。それが答えであるわけがなくて、わたしはまた同じ質問をする。
「ウィリアムは、来てくれた?」
「……クリス」
「わたしの初めての〈儀式〉、ウィリアムは見に来てくれた?」
どうして答えてくれないのだろう。どうしてつらそうにわたしの名前を呼んでくるのだろう。
「ねえ、ベン。わたし、頑張ったんだよ。怖くて仕方がなかったけど、わたしの〈恵み〉が、あれを切り裂いてくれたの。〈赤き獣〉を、わたし、倒したんだよ。ウィリアムは見てくれたかな、喜んでくれたかな」
「……クリス、よく聞け」
「わたしの〈恵み〉はいろんなものを呼べるんだね。風も、雨も……なんとなくわかるの。これが〈恵み〉なんだね。神様からの贈り物なんだね。……ねえ、ウィリアムはどこ? わたしね、早くウィリアムにわたしの〈恵み〉を見せたいんだ。これで皆を守れるような強くて立派な子になれたよって、伝えたいんだ」
「よく聞け」
肩を掴んで、ベンはわたしと目を合わせた。いつも笑っているライトブラウンが、泣きそうになっていた。
「それは〈恵み〉じゃない、異能だ。神様からの贈り物でもない。俺達がお前に発現させた。そういう実験だったんだ。ここは英国の実験施設、大戦中からずっとある異能研究施設で、お前はあいつの研究成果だ」
「ねえベン、ウィリアムはどこ? どこにもいないの」
「聞いてくれ。お前には生まれつきその力があった。強大な力だ。誰もがそれを使いたがる。誰もがお前を欲しがり、お前は世界のあらゆる奴らに害される。それから逃げろ。逃げ続けるんだ。お前の中にはあいつの言葉がある。あいつの心がある。わかるな?」
「ねえ答えてよ、ベン。ウィリアムはどこ? どこにいるの?」
「クリス、聞いてくれ、頼むから」
「答えてよ! ウィリアムはどこ!」
「――あいつは死んだ!」
ライトブラウンが歪んだ。
「たった今、死んだ……!」
たった今。
その言葉に、わたしはそばの床を見た。瓦礫の下で、〈赤き獣〉だったものは肉片になって散らばっている。
あれは化け物だった。人々を悪へと導く存在だと言われていた。胴体に縫い付けられたいくつもの腕が伸びてきて、引きずるように抱き込んできて、開いた腹から溢れる内臓が頰を撫でて、あたたかな血液が肌を伝い落ちて。
その温度に、覚えがあった。
忘れるはずもなかった。
ずっと、隣にいてくれたぬくもり。頭を撫で、優しく抱きしめてくれたぬくもり。
――クリス。
優しく呼んでくれた声は、いつでも鮮明に聞こえてくる。
「……嘘」
散り散りになった肉片の、飛び散る血のあたたかさと同じぬくもりに、何度も寄り添って、笑い合って。
――クリス。
あの声に、何度も名前を呼ばれて。
「嘘、だ」
「嘘じゃない」
「嘘だ」
「嘘じゃない! あいつはお前の異能で死んだ!」
「嘘だあああッ!」
叫んだ。
ベンの服を掴んで、その体を殴って、叫んだ。
「嘘だ、だって、ウィリアムは〈赤き獣〉なんかじゃない! 人を悪に堕とす悪い化け物なんかじゃない!」
そうだ、違う。あれはウィリアムじゃなかった。わたしが殺したのは化け物だった。何本もの腕と足を持つ、腹に風穴を開けた化け物だった。
優しくていつも笑っていた、あの人とは違う。
違う。
「……あれは平和の象徴だ」
ベンの声が聞こえない。
「共通の敵がいて共通の目標があれば、人はあらゆる障害を超えて団結する。敵は何だって良い。災害でも、理不尽でも、弱者でも何でも良いんだ。だからこの村は平和だった。俺達は幸せだった。……〈赤き獣〉は、そのために『作られる』」
「……何言ってるか、わかんない……わかんないよ……!」
「わからなくて良い、けど、忘れるな」
殴り続けていた手が掴まれて、強引に引き剥がされる。何かを言い聞かせるように目が合わされる。
ウィリアムのとは違う茶色が、そこにある。
「覚えていてくれ、全部を。あいつが生きた事実を。――お前はあいつの研究成果だ、お前の体にはその痕跡が埋め込まれてる。それを誰にも知られるな。あいつの実験は異能を人工的に発現させる方法を確立させるものだった。これは世界を戦争に巻き込む技術だ。その技術を自分だけのものにしようとする奴らがお前の周りをたくさん殺すだろう。お前は貴重なサンプルなんだよ」
「……ベン、何言ってるの……?」
「だから、死ぬな。捕まるのも、死ぬのも、知られるのも駄目だ。お前は死骸すら利用価値がある。生きて、生き続けて、お前が実験体だったことも、実験成果であることも、全部隠し通して逃げ続けるんだ」
「……にげる、って……何から……?」
「全てだ。この国から、この場所から、あらゆる権力から……お前を害してお前を利用しようとする全てから。いつか、お前の舞台が終わるまで」
――わたしの物語が終わるまで。
「……どうして?」
あの人がいない時点で、わたしの全ては終わっているのに。
「それがお前の幸せだからだ」
胸の奥が痛い。塩水がせり上がってくるかのようなツンとした痛さが、喉の奥に刺々しく溜まっている。
それが溢れてくる。目から、とめどなくあふれてくる。
涙。
苦しい。痛い。つらい。何もかもが一気に押し寄せてきていて、泣きじゃくるので精一杯だった。
「幸せって、何……?」
神様に愛されていることが幸せなのだと先生は言っていた。この村は幸せに満ちているのだとお母様は笑っていた。君達と一緒にいられることが僕の幸せだよ、と――ウィリアムは、言っていた。
その幸せは、もう叶わない。
あの笑顔は、どこにもない。
「幸せって……何なの……?」
「……必要な人に出会い、自分に与えられた真実を知り、それに立ち向かうことだ」
「わかんないよ……全然、わかんない……!」
「それでも、覚えていてくれ」
ベンが頭に手を置いた。ウィリアムのとは違うその手のひらから、見たことのある光の粒が溢れ出てくる。蛍に似たその小さなたくさんの光は、雨水と共にわたしを包み込んだ。
この光を、わたしは知っている。あの優しい手から溢れる、優しい光と同じもの。
手を広げてそれを手のひらに受ける。空から降ってくる雫と共に手のひらに乗ったそれは、ぼんやりと光ってわたしの輪郭を朧にしていく。
「……ウィリアムの、〈恵み〉……」
「あいつの心は、言葉は、ずっとお前の中にある。……あいつから伝言だ」
ようやくベンが笑った。
「お前の異能、【テンペスト】って呼んでやってくれ。あいつの最後の作品、嵐から始まる物語だ。お前のそれはな、舞台の始まりを告げる異能なんだよ」
嵐。
そうだ、あの〈赤き獣〉を倒した後、わたしは。
嵐を起こして、教会を、村を、壊したんだ。
「お前の舞台はもう始まってる」
掴まれていた手が、上へと引っ張られる。強引に立ち上がらされ、背中を強く押された。
「行け、クリス!」
瓦礫に転びかける。突然のことに振り向けば、ベンは顔を歪ませて「行け!」と叫んだ。
「逃げろ! 逃げて――生き続けろ!」
剣幕に押されるように前を向く。教会や家の欠片が散らばっていて、人の手足を潰していて、雨がそれらを濡らしている。芝生の上でしか走ったことがないのに、この中をどうやって走れば良いのだろう。
どこに向かって走れば良いのだろう。
――答えは必ず君の中にある。
優しい声が、聞こえてくる。
――人の中にあるのは答えだ。全てへの答えだ。けど、いつも見えるわけじゃない。誰かから教えてもらったり何かを知ったりして、そうして光を得て、ようやく君の心の中で見えるようになる。
「……光」
ほう、と小さな光が目の端に舞う。
ウィリアムの、光。
――赤色を、思い出しそうになる。
「……ッ」
走り出す。中庭でウィリアムと遊ぶ時くらいしか走らなかったわたしの全身はすぐに悲鳴を上げた。息がすぐに切れて、胸が骨を押し上げて痛みを訴えてくる。何度もつまづいた。何度も肉片を踏み、雨水と血のぬめりに足を取られた。その近くに落ちていた顔が仲良くしていた村人のと同じだと気付かないように顔を逸らして、ただ前を見て走った。
ぼんやりとした光は絶えずそばで灯っている。その優しい光からも目を逸らす。光が歪んで見えるのは、雨のせいか、涙のせいか。わからない。何もかも、わからない。
ただ、走り続けなければいけないことはわかっていた。
だから、走り続けた。
何度も何度も目元をぐしょ濡れの袖で拭って、返事の返ってこないあの人の名前を呼んで、呼吸ができない苦しさすらわからなくなるほどに、走り続けた。
あの日の雨のにおいを、わたしは未だに覚えている。