第2幕
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***
奇妙な夢を見ていた。
遠くで誰かが泣いている。子供か、女性か。歩き出した世界は真っ暗で、目を閉じているのか開いているのかもわからなかった。
これは夢だ。けれど困っている誰かがいるのならば助けなければならない。
それが己の「理想」だからだ。
声の聞こえてくる方向に向かって進む。不思議なことに、見えない壁でもあるのか、声は一方向から明確に聞こえてきた。まるで誘導するようなそれに従い、進む。
やがて見えてきた姿に、国木田は立ち止まった。
「……なぜ」
白い着物を着た女性が立っている。長い黒髪は美しく、その細い背を覆っていて。
「国木田様」
その声は麗しく、脳に染みていく。
心臓が高鳴る。
「……なぜ、ここにいる」
「あなたの理想は叶うのですか」
国木田に答えず女性は唱える。
「国木田様。あなたの理想は誰を幸せにするのですか」
「黙れ」
これは幻だ。例えその目が国木田を捉えていようとも。例えその唇に穏やかな笑みが描かれようとも。
これは、幻なのだ。
死者は生者の前には二度と、姿を現さない。
「国木田様」
「やめろ」
その呼び方をするな。
「私を、拒みますか」
それは今の国木田に対する問いかけだった。絶句する国木田に、彼女は笑みを深める。
「私を拒まれますか、国木田様」
「……ああ。なぜなら貴様は彼女本人ではないからだ」
「そうですか」
ふと、彼女は背を向け遠くを見つめた。
「国木田様がそうおっしゃるのならば、そうなのでしょうね」
混乱が頭を支配する。
なんだ、この夢は。周囲が闇に覆われていなければ、現実と間違ったかもしれない。
――もしや、現実ではないのか。
「……俺は、死んだのか」
「国木田様はどこかあの方に似ています」
いつしか聞いた言葉が、また、繰り返されている。
「あの方は高潔な方でした。理想に燃える人でした。けれど、先に逝ってしまった。死んだ人は卑怯ですね。何をしても喜ばず、微笑まず、声をかけてももらえません」
白の着物が目に痛い。
「国木田様」
振り向いた彼女は、微笑んでいる。
「私は、卑怯ですか?」
「……え」
――死んだ人は卑怯ですね。
そうだ。
彼女もまた、死者だ。国木田が救えなかった命の一つだ。
けれど。
「……いや」
言葉を探すように視線を泳がせる。佐々城は黙って答えを待っている。
これは夢だ。けれど、いやに現実感がある。まるで本人を改めて目の前にしているかのような。
「……あなたは卑怯ではない。卑怯なのは俺だ。俺は、未だに己の理想が正しいのかわからなくなる。理想を周囲に求めれば《蒼王》の二の舞になると太宰は言った。けれど理想の世界を求めることが間違っているとは未だ思えない。あなたを見ていたというのに、あなたが苦しんだのを知っていたのに、俺は俺の理想を貫くことをやめられず、かといってそれに自信を持ち続けることもない」
いっそ《蒼王》のように周囲を排しながら世界を作り上げようとしたのなら、事は簡単だ。けれどそれは周囲を、佐々城女史のような人を傷つけることをあの事件で見た。
ならば、もはや小さな積み重ねを続けていくしかない。それは長く険しい道だった。幾度も挫け、幾度も絶叫した。全てを救えない自分を呪うこともあった。
それでも、そうするしかなかった。それが、国木田のやり方だった。
国木田は理想を求めるにしては不器用な人間だ、そのくらい誰よりも自分がわかっている。
「俺は、正しい理想の求め方をしているか」
「あの方は理想に燃える方でした。私はただ、あの方が苦しむ顔を見たくなかった、それだけだったのです」
答えず、佐々城はかつて国木田に放った言葉を繰り返している。
彼女は死者だ。だから、生者の問いには答えない。死者は生者に対して微笑まず、喜ばず、声をかけることもない。だから、目の前のこの女性に答えを求めるのは誤りなのだ。ならば、誰に問えば良い。
誰に。
「国木田様」
佐々城がその静かで透き通った声で名を呼んでくる。
「――あなたの理想は、誰を幸せにするのですか」
全てを、と答えられたのならどんなに素晴らしいだろうか。
「……わからん」
けれど、全てと答えるほどの実感が、根拠が、達成感が、国木田には未だない。
「だが、必ず答えはある」
どこかにあるはずだ。己の理想を実現する、小さくも確かな一歩が。それを積み重ねることで人は歩むことができる。
その先に、必ずある。
理想の世界が。
佐々城が微笑む。その静かで知性のある声が国木田を呼ぶ。美しい黒髪が揺れ、背を向けた彼女を闇に溶け込ませる。
闇と黒髪の境が消え、輪郭が侵食されていく。闇に食われていくその背中に手を伸ばし、名を叫ぶ。
けれど視界は黒に染まり切り、静寂とともに国木田を包み込んだ。