第2幕
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***
視界がはっきりしてくる。見えてきたのはもはや見慣れた狭い部屋、こめかみをつけ寄りかかった白い壁。使われた形跡のないベッドの上に座り込んだまま、クリスはうたた寝から意識を浮上させた。その視界に入り込んだ一対の目。
見慣れた人が、ベッドに片膝を乗せ、中途半端にこちらに手を伸ばしている。
「……すまない」
突然謝り、国木田はその見開いた目に動揺を映す。
「いや、別に、何をしようとしたわけでは」
「……夜這いですか」
「よばッ……ち、違うぞ! そもそも今は昼で、俺はあなたに話があってだな!」
「冗談ですよ」
さらりと返し、壁から頭を離して伸びをする。朝方目を覚まし、運ばれてきた食事に手をつけた後、いつものように壁にもたれかかりながら窓の外を見上げていた。
それはクリスの夜の過ごし方だった。眠くなればそのまま目を閉じる。そして、長年の勘で特定の時間に目が覚める。それがクリスの日常だ。ベッドの中に潜る習慣はクリスにはない。襲われた時、布団が邪魔で反撃できないからだ。
しかし最近は仕事もなく一日を部屋で過ごしているので、日中もそうやってぼんやりと過ごし、惰眠を貪りつつある。今も何らかのきっかけで意識が浮上したのだろう。
そのきっかけというのは、おそらく。
じ、と視線を向ければ、国木田はベッドから勢いよく離れてわたわたと両手を頭上に掲げた。
「ち、違う! 誤解だ! 俺は断じて、疚しいことは何も!」
「新しい踊りですか? それ」
確かこの国の盆踊りというのがそれに近かったはずだ。なぜここでそれが出てくるのだろう。
クリスの疑問に国木田はポカンと口を半開きにした後、咳払いをして椅子に座り、眼鏡を押し上げた。
「……普段は、眠らないのか」
「眠くなったら寝ます。ベッドの中で、という話でしたら、いいえ、ですね。……幼少期は寝床がなかったし、世界を回るようになってからは危険すぎて」
なぜか国木田はそっと目を逸らしてしまう。気遣うようなそれに違和感を覚え、クリスは改めて国木田を見た。そして、彼の座る椅子の足元に目を移す。
茶封筒があった。
「……それは」
「あ、ああ、これのことで話があった」
茶封筒を手に取り、国木田がそれの中身を取り出す。紙が何枚か入っていた。見覚えはない。
「何です?」
「調書だ」
「調書?」
「あなたの過去が書かれている」
――何を考える暇もなかった。
銀色が素早く国木田の手元へ殺到する。切り刻まれた紙は花びらのようにひらひらと宙を往復しながら舞い降りていく。
瞬時に消えた紙束に、国木田は僅かに驚いたように瞠目しただけだった。
その反応に、悟る。
「……複製、か」
「ああ」
「では、中身は既に見ていると」
「……ああ」
「入手経路は?」
「昨日、乱歩さんがギルドから白鯨の設計図を入手された」
端的に問うクリスに、国木田は淀みなく簡潔に答えてくる。
「その資料と共に情報屋の隠れ蓑であるバーの名刺が入っていた。それを情報屋に見せたらあれを渡されたのだ」
ギルドから入手した資料に入っていた調書。
つまり、これは。
「……フィーか」
高慢な笑みが思い浮かぶ。自然と笑い声が溢れた。
「……ははッ」
彼はどこまでもクリスを追いかけてくる。どこかへ身を潜めても、その手を伸ばしてくる。捕らえ、引き戻そうとしてくる。手段は選ばない。
それが彼のやり方だからだ。
だから、調書を探偵社に寄越した。クリスの過去は誰にも知られてはいけないというのに、奴はそれを知っていて探偵社に垂れ流した。
クリスの生存を察し、探偵社から――この街から立ち去るように仕向けてきた。
「そうか……そうか、そうか! そうまでしてわたしを取り戻したいのか、フィー!」
過去が知られた。ならば、もう。
「……ここには、いられない」
「クリス」
「わかったでしょう? 国木田さん」
笑みを向ければ、国木田は戸惑ったように口を噤むだけだ。
「わたしがいかに危険な存在か! わたしはギルドに追われているだけじゃない、あの国に、祖国に追われているんです! この身に埋め込まれた秘密を隠滅するために! そのためならこの街を燃やすことも、兵を向けることも、何だってしてくる! これを知った人間全てを消し去りに来る! そうでなくても、わたしが……!」
ベッドから転がるように飛び出し、扉へと駆け寄る。国木田が腕を掴んでくる。それを振り外そうと強く引いた。
「落ち着け」
「落ち着けるわけがないでしょう! もう、あんな……」
――飛行機のエンジン音、空を滑空してくる機体、その運転席からこちらを見据えてくる視線。
「あんな、ことは……!」
また、あの日が、あの時が、再現される。
また、願ってしまう。
――全部……全部、壊して……!
破壊を、消滅を、拒絶を。
また。
あのひとのように、ころしてしまう。
赤が。
「嫌……嫌だ、もう……!」
「落ち着け!」
張りのある声が耳朶を打つ。両腕を掴み、国木田が強引に顔を向けさせる。どんなに体を捻ろうとも、この大きな手はクリスを掴んで離さない。
逃げられない。
心臓が警鐘のように音を立てる。全身がしびれ、震え出す。
これは、駄目だ。
駄目だ。
「俺は確かにあなたの資料を見た。だがそれだけだ」
――クリス。
あの、声が。
「あなたがここにいることはギルドやポートマフィアにも漏らしていない。だからまずは落ち着け。すぐに何かが押し寄せてくることはない」
「や、め……」
――クリス。
声が、聞こえてくる。
穏やかで優しい、あの声が。
「や、だ……!」
「俺の声が聞こえているか? クリス、おい!」
腕が強く掴まれている。それはクリスを逃がさない。いくつもの手がクリスへ伸ばされて、掴んでくる。
幻覚、現実、混沌とした感覚。どれが何なのかわからない。とにかく逃げなければ、逃げなければ。
「やだ……やだ、嫌だッ……!」
「クリス……?」
掴んでくる、捕らえてくる。逃がさないとばかりに、あのぬくもりが、全身を縛めて。
「嫌、嫌だ、嫌だ離して! 離してよウィリアム!」
穏やかな声が名を呼んでくる。懐かしいぬくもりがいくつもの腕と共にクリスを掴んでくる。
おびただしい数の腕、足。腹から溢れる臓器は床を引きずり、骨格を失った顔は平たく歪んで、剥き出しになった舌から唾液をこぼす。
あの化け物が、いる。
「離して……お願い離して、じゃないと、わたし、君を、また」
誰かが名を呼んでいる。絶え間なく、呼んでいる。誰かが腕を掴んでいる。拒もうとしているのにその強い力に抗えなくて。
掴んでくる腕が増えていく。身動きが取れなくなっていく。足を、胴を、手が掴んでくる。ぬくもりが肌に侵入してくる。血の臭いを帯びた濡れた縄のようなものが頰に張り付いてくる。べちゃり、と頭の上に何かが落ちてくる。それはクリスの顔を伝い、耳元を通り過ぎて顎から滴り落ちる。
肉片だ。
誰の。
「や、だ」
耳元で風が唸る。何のために。
「や、めて」
――クリス。
誰かが呼んでいる。
耳元で木霊する声。それは、誰のもの。
「違う」
違う。これは誰のものでもない。あの人のものではない。あの人の声ではない。だから、だから、お願い。
「来ないで……おねがい、もう、やだ……やだよ……」
風が銀色に光る。それは刃となって、化け物に襲いかかる。肉が裂かれる音。血が地面を叩く音。
違う、そうじゃない。そうじゃない。わたしはそんなことのぞんでない。
だから、もう来ないで。わたしに、近寄らないで。わたしをみないで。きづかないで。
「もう、あなたを殺したくないよ、ウィリアム……!」
「俺は国木田だ!」
耳朶を打つ怒声と共に、風が頰を叩いた。
目の端に金色がある。それと対になるように、視界を銀の風が走り回っている。
羽毛の舞うベッドがある。壊れガラスを散らした窓がある。破壊されたクローゼットが、中身をこぼしたポットがある。床も壁も天井も、大きく削られ塗装が剥離している。
ここは。
「……ッあ……」
ここは、どこだ。
視界が歪んでいるのはなぜだ。涙だ。
体が動かないのはなぜだ。
――誰かが、抱き締めてきているからだ。
体を覆うような他人の体温に悲鳴が漏れる。
「……ッや……!」
まだ、いる。
まだ、捕らえられている。
「やだ、やだはなして、はなして……!」
「俺は国木田だ」
耳元へ直に声が届く。
「ウィリアムではない」
「……うぃ、りあむ」
ウィリアム。
遠い昔に見た彼が、脳裏で微笑んでいる。
大切な、友達。最初の、友達。クリスに友達というものを教え、歌を教え、共に笑い合う楽しさを教えてくれた人。多くの物語を作り、その穏やかな笑顔で、夢を語ってくれた人。やがてその身を実験に利用され、化け物としてクリスの前に現れた人。異常に増えた数多の腕を伸ばし、記憶のものと同じぬくもりでクリスを包み込もうとした、それを、自分は。
この手で――切り裂いて殺した。
何度も。
その光景が、ぬくもりが、この体に蘇るたびに。何度も切り裂いて、殺してきた。
そして今もまた。
繰り返そうとしている。
繰り返したくなんかない。もう、君を殺したくない。
だから。だから、その手を離して。
「はなして、わたし、もう」
「あなたに何があったのかは知らない。だが、一つだけ言えることがある」
また、強く抱かれる。金の髪が頰をくすぐる。それすら不快で仕方がない。けれどもがけばもがくほど、クリスを捕らえる腕の力は増す。
逃げられない。殺される。
なら、先に殺さねば。
そうやって、また、わたしは。
――繰り返す。
「い、や、いや、もういや……!」
「あなたは常にそれから逃げてきた。人の体温がトリガーだな。だから人に触れられることを拒絶してきた」
落ち着いた声音は何だ。知らない。この腕は誰のものだ。知らない。
知らない。けれど、嫌だ。このままでは、また。
殺してしまう。
「おねがい、もう、いや、わたし、もう、ころしたくない」
ウィリアムを――あの化け物を、殺したくない。
「聞け」
離してくれないまま、この人は耳に囁いてくる。
「ウィリアムという男は死んだ。もうどこにもいない。いるとすれば、あなたの心の中だ」
ウィリアムは、死んだ。そうだ、だって。
――わたしが、この手で切り裂いたじゃないか。
「あなたの心の中にいるのなら、あなたはそれから逃げられない」
「……い、や」
「逃れられない幻影に、どう立ち向かえば良い」
また、強く抱き締められる。肌はすでに知らない体温に浸かっている。皮膚を剥ぎ取られ、その下に薬物を塗りたくられたかのような恐怖と怖気。
気持ち悪い。
「……もう、やめて」
両手で相手を突き放そうと、胴体を押す。全く動かないそれを引き剥がすために圧を乗せる。それでも、抱き込む力が増すだけで意味はなかった。
何をしても、逃れられない。
このままではこわれてしまう。
「受け入れることだ。その眼差しを、言葉を、受け入れることだ。耳を塞がず、目を見開いて、向き合うことだ。……あなたの知るその男は、あなたを傷付けるか? あなたを恐怖に陥れて楽しむような奴か?」
「ち、がう」
違う、あの人はそんな人ではない。
「なら恐れる必要はない」
声音が、優しい。
「彼らは俺達を見守っているだけだ。俺達の行く末を見ているだけだ」
気がつけば、拒むように相手を突き放そうとしていた手が相手の服を掴んでいた。頰が濡れている。なぜ。
誰かが頭を撫でてくる。その手の体温は――あの人のものではない。
ちがう――違う。
違う、これは。
この、声は。
「落ち着け、クリス」
遠い記憶の中のものとは違う声が耳に囁いてくる。
「俺は国木田だ。あなたの友人は、あなたを見守っているだけだ」
体から力が抜けていく。これほど強張っていたのかと思うほどの力を抜けば、抱き締めてきた腕からも力が失せていく。拘束が緩んでいく。ぬくもりが離れていく。冷気が肌を冷やし、心を落ち着かせる。
肩口から顔を上げると、国木田と目が合った。それが優しく弧を描く。
「落ち着いたか」
「……くにきださん」
そうだ、この人は、ウィリアムじゃない。
名を呼んだクリスに安堵の笑みを浮かべ、国木田はクリスの目尻を撫でた。
「酷い顔だな」
「……見ないで下さい」
顔を背ければ微かに声を上げて笑われた。言い返そうとするクリスに、国木田は寄りかかる。突然のことに、クリスの体がまた強張る。けれど国木田はクリスへ上体を預けたまま脱力した。
様子がおかしい。
「国木田さん……?」
体を支えきれず、床に座り込む。向き合うように座り込んだ国木田の体へ、手を伸ばす。
触れた先にあったのは、ぬめり。
「……え」
まだあたたかいそれを、指に掬い上げ、見る。
赤い。
――クリス。
「ッひ……!」
また、あの人の声が聞こえる。
同じだ。同じ色。あの人が最後に見せた色。
「く、国木田さん! 国木田さん!」
叫び、体を揺する。けれどその体は抵抗することなく床に倒れ込んだ。
その服を、体を見、絶句する。
「……ん、な」
なぜ、気付かなかったのだろう。視界を飛び交っていた銀色の風、あれはクリスを捕らえた化け物を引き剥がすために発動したクリスの異能力だ。
けれど化け物は幻影で。実際にこの身を抱きすくめていたのは。
「……やだ」
また、失う。
「やだよ」
この手で。
「なんで、どうして……どうして」
過去が幻影となって目の前に広がる。いくつもの腕が引き千切られ床に投げ捨てられ、血が床を叩き、肉片が床に散らばり、見知った顔が半分になって落ちる、あの光景がまた、目の前にある。
この手についた赤は何だ。
彼の身からあふれる赤は。
その体を切り裂いているその刃の痕跡は。
絶叫が聞こえてくる。
それが誰のものかは、わからなかった。