第2幕
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***
それは、遠い日の記憶。
暖かな日差しの下で、緑の芝生に乗った露はきらきらと輝いていた。誰も足を踏み入れていないであろう人の気配の薄い庭はしかし、鮮やかな緑を宿し小さな花々を満開に咲かせている。住む者がいない期間中も、この洋館と庭の手入れはしっかりと行われていたのだろう。
「今日は良い天気」
伸びをし、クリスは空を見上げる。昨日の雨が嘘のように晴れていた。まだ雲が残っているものの、雨雲らしきものはない。
「早起きだな、クリス」
中庭に降りてきたフィッツジェラルドがクリスへ片手を上げる。この白い大きな洋館が、彼には憎らしいほど似合う。様になるなと思いながらクリスは「おはよう、フィー」と返した。
「目が覚めたから。ここは良いところだね」
「俺の別荘の一つだからな、当然だ。手に入れるのにも苦労した」
「なるほど、じゃあ燃やしてみようかな」
「冗談に留めておけ、クリス。火事は対処が面倒だ、資金が嵩む。まあその程度痛くもないが、一時的に」
「株価が落ちる」
「その通りだ」
パチンと指を鳴らし、得意げに片目を瞑ってくるフィッツジェラルドにクリスは呆れを隠さない。
「金に物言わせて回復させるくせに。……他の皆は?」
「さあな、興味がないのでさっぱりわからん。朝食の時間になったら来るだろう、散歩でもしてきたらどうだ」
それとも、とフィッツジェラルドは答えの見え透いた問いを続ける。
「朝食前の運動として手合わせするか?」
「良いね。それが良い」
言い切る前にクリスは風をフィッツジェラルドの方へと飛ばす。指先を弾くようにして生じたそれは、彼の頰を掠めて消えた。笑みを絶やさず微動だにせず、フィッツジェラルドはそれが擦過していく様に目を細める。
「だいぶ手際が良くなったな。発動までの時間が短くなった」
「溜める時間を短くしてみただけ。そよ風でしかない。【緋文字】の真似もできてないよ」
「ならもう少し訓練が必要だな? 後で君の監督官に伝えておこう。……大技は言わずもがな必要だが、瞬発的に放てる技も必要だ。その二つを上手く使い分けろ」
「今日のメニュー?」
「今後のメニューだ」
フィッツジェラルドが大袈裟に肩を竦めながら続ける。
「一万ドルで行こう」
「桁が増えた」
「そろそろ千ドルでは足りなくなってきただろうからな」
「……誰もそんなこと言ってないんだけど」
ぼやきつつ、クリスは己の両手を見た。傷の入り乱れるその手のひらに意識を向ける。今、主に練習しているのは、風の操り方だった。クリスが破壊を望めば従順にそれを成し遂げるこの異能力は、微調整を苦手とする。必要最低限の出力をできるようになることが一番の課題だった。
手のひらに大きな空気の塊を想像する。両腕で抱え込む程の大きさのそれを、頭の中で車輪のようにくるくると回してみる。すると手のひらに微かな風を感じるようになる。その風に刃の鋭さを想像すれば、クリスの手の中には銀色の流れ星を時折宿す鎌鼬の塊ができている。
クリスの異能力は想像によって具象化する。しっかりと想像しなければ、異能力が暴走して大破壊をもたらす。クリスの訓練は想像の訓練だった。いかに曖昧でない想像をするか。それはクリスの異能力がどんなもので、どのように見え、どのような働きをするのかを把握しなければ出来得ない作業だった。
フィッツジェラルドはクリスに異能力へ向かい合うことを教えてくれた。異能力を知り、異能力を理解することがその行使へと繋がるのだと。
「三秒〇八」
腕時計を眺めていたフィッツジェラルドは眉をひそめて秒数を告げる。
「異能力の完全発動までの秒数は短ければ短い程良いが……まだ三秒を切らんな」
「むう……」
「まあいい、その訓練は監督官とやりたまえ。細かいことは専門外だ」
「監督官って言うけど、ホーソーンはわたしの監督でも何でもないよ」
「君に異能力の使い方を教えているのはあれだ。風や氷と血液とで異なりはするものの、基本的な攻撃と防御の仕方は彼に教わるのが一番効率が良い。俺が教えるのは身体補助、そして実践だ」
言い、開始の合図もなくフィッツジェラルドは一歩クリスへと歩み寄った。同時にクリスは作り出した風をフィッツジェラルドに投げつける。しかし彼は腕をしならせて空を薙ぐ。風が打ち消された。
「ただぶつけるだけでは俺には勝てんぞ」
呟き、しかしフィッツジェラルドは風の向こうにクリスの姿がないことに驚愕する。
「ただそれだけなら、ね」
クリスの声はフィッツジェラルドの背後から聞こえた。彼へ正面からぶつけた強大な風を囮に、背後を取ったのだ。その両足には風が渦巻いている。脚力を補うための、風だ。
【テンペスト】による、身体運動の補助――フィッツジェラルドが教えてきた、クリスだけの身体強化方法だった。
急いで振り返るフィッツジェラルドに対し、クリスは溜めていた風を放出、いくつもの鎌鼬と氷の粒が彼を襲う。氷の粒は殺傷能力は低いが視界を大きく遮る。つまり錯乱用だ。
「くッ!」
フィッツジェラルドはなすすべなく立ちすくむ。
彼の攻撃は接近戦に特化している。遠距離攻撃に徹してこちらに近寄らせなければ良いのだ。
しかし理屈と現実は大きく異なる。
「悪くないが……隙だらけだ」
フィッツジェラルドは笑い、そしてこちらへと歩み始める。一歩、一歩、と鎌鼬をも意に介さず、彼はクリスへと着実に近付いてきた。
「そんな馬鹿な」
眉を潜め、口の中で呟く。
彼は異能力で身体強化を施している。対してクリスの鎌鼬の生成は未だにホーソーンの【緋文字】の威力に著しく劣る。集中すれば丸太を切ることはできるが、瞬発的に発しなければならないこのような状況では、彼の皮膚を裂く程度にしかならない。
「普通の人間なら十分倒せたはずのにな、これ」
「俺をそこらの人間と一緒にすると痛い目を見るぞ?」
「知ってる」
淡々と答えつつ、考える。
こうなったら目を潰すしかない。その後に足を潰して動きを止める、いや奴の異能力を考えると腕が先か。とにかく第二の風を生成すべく手を掲げる。
先程より威力のあるものを作り出さなければいけない。それはどの程度だろうか。少し気を緩めれば風は暴風に変わる。その調整がうまくできない。
ふと。
突然、フィッツジェラルドが歩くのをやめた。止まったのではない――ふ、とクリスの前に、彼は身を躍らせた。
その強化された跳躍力で、地面を踏み切ったのだ。
「しまッ……!」
クリスの目の前に奴がいる。そう、つまり、奴の手がクリスに届く。
フィッツジェラルドの姿を視認した時には、既に距離を置くことなどできなくなっていた。逃げようとするクリスの腕をフィッツジェラルドが掴む。
「く……!」
「俺の勝ちだな」
フィッツジェラルドはクリスを地面へと叩きつけた。クリスの小さな体が地面を抉り、大きな窪みが形成される。
勝負は決まった。
「……痛……」
呻きつつ、クリスは腰に手を当てながら上体を起こした。何度もフィッツジェラルドに挑んで負けているだけあって、地面に叩き付けられる直前に生成した風をクッションのように広げ、衝撃を抑えることには成功している。しかし痛みは完全に抑えられるわけではない。
差し伸べられた手を掴み、立ち上がる。クリスの髪についた塵を払い落とし、フィッツジェラルドは呆れたようにクリスに言った。
「視界を潰しにきたのは悪くなかったが、それだけだな」
「フィーの異能力は氷の壁も意味をなさないから、攻撃し続けるしかないのかなと思ったんだ。接近戦に持ち込ませないってのが一番にあるわけだから」
「足か腕を先に狙うべきだな。確かに俺は遠距離型のお前に対して接近するという手段を始めに取る必要がある。が、距離を自分の間合いにするなど近距離型の異能力者なら誰でもできる。それを防ごうとするよりも接近に注力している相手に対してその間に腕の一本でも狙えば、接近戦になったとしても袋叩きにはならん」
「うーん……」
「まずは発動時間を減らすことだな」
難しい。考え込んだクリスをさて置き、フィッツジェラルドは洋館へと戻ろうとした。と、その視線の先にいた人影に驚愕の声を上げる。
「ああ、いたのか、オルコット君」
「ぅあ、はいぃ!」
突然声をかけられた彼女は大きく肩をビクつかせた。丸眼鏡が印象的な彼女はわたわたと視線を彷徨わせる。
「す、すみません、あの、お声をかけようとしたんですが、そのっ」
「君には難しかったか。やはりその性格は難ありだな」
「フィーに一番言われたくないセリフだ、それ」
服についた塵を払い終わり、クリスはオルコットへと片手を振った。
「オルコット、おはよう」
「お、おはようございますッ……!」
どうにか挨拶を返す程度はできるようだ。
「どうかした?」
「え、あ、えっと、そのっ、朝食の、その」
「おお、準備ができたのか」
「は、はい、それでお知らせに」
察しの良いフィッツジェラルドへ安堵の面持ちを向けつつ、オルコットが頷いた。彼女は内気で、他者を苦手とする。しかしどうしてかフィッツジェラルドを相手にすると、その緊張の表情は幾分和らぐのだった。
「よし行くぞクリス。昨日は夕飯を食べなかっただろう」
「要らなかったから……」
「栄養失調で倒れられても困る。来い」
「わかったから触るな」
腕を掴んで引っ張ろうとするフィッツジェラルドの手を振り払う。ついでに氷の塊を頭部に落としてやった。ゴン、と痛そうな音と共にフィッツジェラルドはくらりとよろめく。
「フィッツジェラルド様……!」
オルコットがあたふたと彼の名を呼ぶ。しかし、当人はくるりとクリスへと振り返って顔を輝かせた。
「今のは良かったな! 発動時間が短かった上、殺気がしなかったぞ!」
「殺気ならずーっとダダ漏れだよ」
「あ、あわわわわ」
目をすがめるクリスを無視し、フィッツジェラルドは上機嫌で建物の中に入って行ってしまう。頭部にたんこぶのあるボスというのは滑稽だが、ああも完全に無視をされるとつまらない。
「……今度はもう少し先を尖らせた氷を落とすか」
「そ、それはさすがに……!」
「冗談だよオルコット。嘘だけど」
「どっちですか……!」
さて、どちらだろうか。
答えないままフィッツジェラルドの後を追うと、後ろをオルコットがパタパタと追いかけてきた。眼前には楽しげに廊下を行く己の長。
その背に恐怖を抱き続けてきた。その背から放たれる圧に従ってきた。けれど同時に、その背が自分を守ってくれるのを目にしてきた。
彼には感謝すべきなのだろう。例えその傲慢な眼差しの向こうにある世界が、そのための手段が、混沌と戦争を導くものだったとしても。
けれど。それでも、自分は。
軽く頭を振って思考を止める。何回も脳裏を巡っている思考に、今は囚われていたくない。
改めて先を行くその背を見つめる。その高い背を、その足が歩む道を、隣に誰もいないその姿を。
「……困った友達だな、君は」
クリスはそっと呟いた。