第2幕
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[Act 2, Scene 17]
周囲に蠢く人々の呻き声が突如止んだ時、クリスは地面に倒れ伏していた。周囲は彼女を中心にクレーター状を呈し、岩塊の突起がその皮膚を破り裂いている。
「……う、くッ……」
痛みを堪え、上体を起こす。
詛いの異能が止んだのか。本当に、その方法はあったのだ。
太宰だ、と薄らぐ意識の中で茶色いコートを思い出す。しかし太宰は発動源である精神操作の異能者に触れていないはず、どうやって止めたのだろう。
そう考えながら、何とか体を持ち上げる。肺が呼吸を拒んでいる。そこへ無理矢理に吸気を押し込めれば、悲鳴が痛みとなって胸を突いた。
「いッ……」
「まだ生きてやがったのか」
カチリ、と何かが頭部に当たる。それが何なのか、突き付けているのは誰なのか、顔を上げずともわかった。
けれど、クリスは彼を見上げた。クリスの高圧力攻撃を受け、その右肩は不自然にだらりと垂れ下がっている。しかしそれだけだった。彼の利き腕を使えなくするだけで、クリスには精一杯だった。無論、それだけで場を有利に持って行けるわけもなく。
引きずるように体勢を変え、瓦礫に座り込む。向き直ったクリスに、中也は痛みを感じているとも思わせない笑みを口元に浮かべた。
「なかなか楽しかったぜ、ネズミ野郎」
「……それは、光栄だ」
「せっかくの最期だ、名前くらい聞いといてやる」
「……クリス」
フルネームを答える気にもならなかった。
「覚えといてやる」
引き金に乗せられた指に力がこもる。クリスはそっと目を閉じた。そして、呟く。
「――【テンペスト】」
瞬間、鎌鼬が中也の銃を輪切りにする。
「何ッ……!」
まさかまだ力を残しているのは思わなかったのだろう、中也が警戒心を露わに胸ぐらを掴んでくる。微かに体が重くなった。
「手前、まだやれんのかよ……化け物か」
「似たようなものだよ」
罵倒に似たその言葉に、クリスは素っ気なく答える。もはや全てがどうでも良かった。まだやらなくてはいけないことがある、けれど、もう、疲れてしまった。
できるなら、このまま逃げ延びてしまいたかった。
「この身もこの身に埋め込まれたものも、この世界にあってはならないものだ」
「……何言ってやがる」
その激昂に染まった眼差しが驚愕に揺れたのは気のせいか。
「手前、まさか――手前もなのか」
「何が」
中也が何かを言おうとする。しかし、その言葉を聞き取ることはできなかった。
――銃声。
一発のそれは中也へと真っ直ぐに飛来し、そして彼に触れると同時に地面へコトリと落ちる。
中也の鋭い視線がそちらへ向く。しかしクリスは目を伏せた。見ずともわかっていた。
詛いの異能は解除された。ならばその後に来るのは、崩壊した街を助け出すための人員だ。
「誰かと思ったらポートマフィアのお遣いじゃあないか」
高らかな女性の声。
「何だい、ここであの続きでもするかい?」
「チッ」
中也の舌打ちが耳に届く。
「探偵社か」
――そっと目を開き、そちらを見た。
瓦礫を手にした賢治が中也に目を輝かせている。腰に手を当てた与謝野が獲物を見定めた猛獣を思わせる笑みを浮かべている。谷崎が怖じけつつもしっかりと目の前の敵を見つめていて。
その中央に、煙を吐く銃口をこちらに向けた人がいる。
久しぶりに見た、見知った人々だった。
「彼女を離せ」
国木田が低く警告する。
「この状況だ、こちらも貴様に手を煩わせる余裕はない。見逃してやる」
「そりゃこっちのセリフだぜ、探偵社」
中也が鼻で笑う。
「ギルドの人間を庇うたあ、随分と余裕じゃねえか」
瞬間。
空気が凍り付く。探偵社の様子に、中也は「あァ?」と声を漏らした。
「まさか手前ら、こいつが何なのかも知らねえのか」
「いいよ、中原さん」
そっと体を押しのける。異能を少しだけ発動、僅かに圧を乗せたそれに中也の体が反った。首元を掴んできていた中也の手へ剝がすように手を添え、視線を合わせる。
「わたしが片をつける。君は仲間のところに戻った方が良い」
「手前何言って」
「仲間を放りだして太宰さんを助けに来たんでしょう?」
言えば中也は言葉に詰まったように絶句した。痛いところを突いてしまったか。微かに笑ってしまった頬をそのままに、続ける。
「行って。向こうで君の仲間が後片付けに苦戦してる」
「……手前のせいで片腕もパアだしな。今回はそういうことにしといてやる」
何を納得したのか中也が離れる。あっさりと探偵社員に背を向けて去って行ったのは、その実力と自信故か。
息を詰めて立ち上がる。痛みが全身を駆け巡る。本当は一歩だって歩けはしない。けれどクリスは背筋を伸ばし、呆然と立ちすくむ見知った人達を見据える。
「……クリスちゃん」
谷崎が歪に笑みを作る。
「嘘、だよね」
「嘘に決まっている」
それに答えたのはクリスではなかった。
「あれは俺達の仲間割れを誘導するための罠だ。そうだろう――クリス」
その問いかけは、是という答え以外を求めていない。
けれど。
「いいえ」
クリスは否と返した。
「わたしはあなた方の敵ですよ」
願った通りに、風はクリスの周囲に生じ始める。
【テンペスト】の発動はクリスの意志による。クリスの頭がその異能力の行動を指示することができたのなら、クリスの体がどんなに粉々になっていようと発動する。
これが、クリスの身に潜められた「この世界にあってはならないもの」だ。
「言ったでしょう、国木田さん。『さよなら』と。――わたしは、ギルドの構成員ですから」
クリスは悠然と微笑んでみせた。そうして、目の前に立つ人々を見つめる。その表情に困惑と衝撃が滲む様子を、黙って見守る。それが憤怒か悲哀に変わるのは時間の問題だろう。
胸元を押さえる。正直、立っているだけでも辛い。先程の中也との交戦がただでさえ脆い内臓に負担をかけている。本来ならばもう戦ってはいけない。これ以上の負担は命に関わる。
それでも。
「……わたしは自ら望んで探偵社の間諜としてギルドに敵対しました」
朗々と語るその声に、どうか張りがありますように。
「そして、わたしはかつての仲間を苦しめた。……耐えられなかったんです。わたしは結局、誰の味方にもなれないのに誰のことも見捨てられない」
これほど中途半端な立場があるだろうか。心の中で自嘲する。そうなるとわかっていてこちら側についたのに、敵に同情し、あまつさえ呆気なく手のひらを返して敵方に戻った、などと普通は許されない。
そうだ、許されない。許されるはずがない。
だから、許さないで。
「……だから、ギルドに戻りました。耐えられなかったということは、つまりはわたしの心はまだギルドにあるということだから」
「……異能も、あるんだね」
与謝野が尋ねてくる。その真意を理解し、クリスは息を詰めつつも頷いた。
「ええ」
「アンタの体は外傷じゃない何かでボロボロになってた。もしかしたら、と考えてはいたけどね……」
「誤魔化せていたようで何よりです」
「……クリス、アンタの異能はアンタを害する。このままじゃいつか、アンタは消えるよ」
「はい」
躊躇いも戸惑いもない返答に与謝野は顔を歪める。
「……わかっていて、か」
「そんな顔をしないでください」
微笑んでしまったのはなぜだろう。
「優しさは万能じゃない。……あなた方がそれを向けるのはこの街の市民。わたしじゃないんです」
手を掲げずとも風は吹き荒ぶ。この力は脅威だ。己の自分勝手な心で引き起こされる、標的を死へ突き落とす人為的な自然現象。これが、これを使役できる存在が、生存を認められて良いわけがない。優しく気遣われて良いわけがないのだ。
「優しさの使い方を間違わないで」
そよ風は強風となり、暴風となり、耳元に唸り声を叩きつける。与謝野がよろめいた。賢治が目を丸くしながら踏ん張り、谷崎は腕で目を庇っている。そして国木田は――己を吹き飛ばさんとする風を額に受けつつも、ただひたすらにクリスを見つめている。
金糸に似た髪が風に引きちぎられんとばかりに宙になびく。それでも、その眼差しは強さを変えず。
その眼差しに、表情に、どうして、と忘れかけていた問いが蘇ってくる。
どうして、この人はいつもこうなのだ。
――その目に宿された感情が憎しみや怒りだったのなら、どんなに気が楽だっただろうか。
瓦礫が跳ね上がる。窓ガラスが割れ、看板が吹き飛び、トタン屋根がガタガタと路上を這いずる。空には暗雲が立ち込め、太陽を隠す。一段階暗くなった視界に塵とガラス片が舞い、見通しを悪くする。
その中で、クリスは立っていた。
髪は少しも揺るがない。この肌に触れる風はなく、目の前には塵を運んだ暴風に身動きを封じ込められている者達がいる。窓ガラス一枚隔てて外の光景を見ているかのような異様さの中で、クリスは唇を引き結ぶ。痛みが重みとなって腹の中に溜まっていく感覚。
掴むように胴を押さえながら、目の前の人を真っ直ぐに見つめ返す。
「……さよなら」
呟けば嵐は突風と共に社員を襲った。皆一様に地面に這いつくばるように姿勢を低くする。誰もが顔を上げられない中、静かな耳元に自分の声が聞こえてくる。
「……まずは一人」
ヒュッ!
風を切るように飛んで行ったいくつもの拳大の塊は真っ直ぐに与謝野へ向かった。驚愕に染まる目が飛来する氷に気がついたと同時に、透明度の高いそれは冷気を伴ってその額を殴打する。
――与謝野先生!
誰かの叫びは暴風に掻き消える。後方に仰け反った与謝野の体に隙が生まれる。そこへ、突風。コンクリート片が与謝野の腹部へ直撃し、その細い体をくの字に曲げる。
「ッは……!」
与謝野の足が地面を離れる。そのまま後方へ難なく吹き飛び、瓦礫の中へ叩きつけられる。土埃が舞うも、強風ですぐに掻き消された。
ろくに声を上げる暇もなく行われた、瞬間的な排除。
「……あと、三人」
クリスの呟きは誰にも届かない。