第2幕
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目を開け、クリスは再度深呼吸をした。そうして前を向いて再び歩き出そうとし――前方の川辺の様子に気付く。
土手の麓、川の岸辺に人だかりがある。地元の子供が数人、といったところだろう。彼らは何かを取り囲んでいた。そのうちの何人かは木の枝でそれをつついている。
微かに見えたものに、クリスは思わず身を固くした。
靴。それを履いた、足。
人だ。
――微動だにしない、横たわった、一人の。
何かを思い出しかけた。それは記憶の一つだった。けれどそれが何だったのかを知るより先に、光景は形を変え風景を変え、あらゆる記憶を一度に見せてくる。
人。男の、女の、子供の。それはよく見知った人であり、全く知らぬ他人でもあり、常に笑顔の人でもあり殺意を露わにしてきた人でもあった。服を赤に染めている場合もあれば、汚れ一つないまま苦悶の表情で動かなくなっている場合もある。やがてそれらの幻はただ一つの姿へと収束した。
若い男だ。白銀の髪が特徴的な、白衣の青年だ。それがクリスの足元に横たわっている。呼吸に伴って上下している胸元はやがて赤く染まり、そして傷を露わにしていく。深く、深く、服を裂き、皮膚を破き、肉を切り開き、その中のものが生き物のように這い出てくる。白銀は赤に濡れて剥げ落ち、皮という皮がめくれ上がる。溶けるように裂けたそれはやがて人型を失い、けれどそのままもそりと立ち上がり、二本の足で己の内臓を踏みながらこちらを見据えてくるのだ。
赤い、獣。
幻覚。錯覚。――記憶。
「……ッ」
逃げるように走り出していた。土手を滑るように駆け下りる。突然現れたクリスへと子供達は驚いたように一斉に顔を向けてきた。その視線を気にすることなく、クリスは彼らの足下に横たわるそれを見下ろす。
子供達が囲んでいたのは人間だった。俯せているが、若い男のようだ。赤色はない。人の形を綺麗に保ったまま、それは川辺に横たわっていた。
癖のある黒髪に、茶色のコート。手首まで包帯に覆われ、首にも包帯を巻いている。あまりに特徴的すぎる格好だ。鑑識を呼ばずとも身元がわかるに違いない。むしろ特徴を箇条書きにしてポスターを作れば一日もかからずに情報が入ってきそうだ。しかしそれほどのわかりやすさにも関わらず、子供達の反応は顔見知りに向けるものとは違う。知り合いというわけではないようだった。とすると、地元の人間ではないのか。上流から流されてきた――にしては損傷が少ない。それに、かろうじて露出した手を見る限り、水死したにしては時間が経っていないようだ。近場で溺れたのだろう。
知らず息を吐き出す。そして、ここに駆けつけてしまったことを後悔した。
治安のそこそこ整えられた街で死体放置が許されているとは思えない。この死体を無視するのは適切ではないだろう。できれば警察にも関与したくなかったのだが、この状況から何もせずに立ち去るのはあまりにも目立ちすぎる。
仕方なしに後ろ腰に回したウエストポーチから携帯端末を取り出す。取り出して指を動かそうとして――手が止まる。
「……この国の警察って何番だっけ」
九一一、ではない。九九九、違う。一一〇、でもない。いや、この国も一一〇だったか。様々な場所を渡り歩いているとその手のことがわからなくなってしまう。調べるのも面倒だ。
「……適当に片っ端からかけてみるか」
などと雑多に考えていた時だった。
――ブーッ、ブーッ。
突然バイブ音が鳴り響く。クリスの端末ではない。
明らかに何かを通知しているその音に、その場にいた全員がびくりと反応した。
「電話……」
子供の誰かが呟く。
そうだ、電話だ。鳴り止まないその音は明らかに通話を望む音だった。しかもそれが鳴っているのは――倒れている男のコート、そのポケットの中だ。
視線に気付いて、クリスはふと周囲を見回した。彼らの目は総じてクリスへと向いている。電話に出ろと言いたいらしい。む、とクリスは口をへの字にした。死んでいるのか生きているのかわからない身元不明の男にかかってきた電話など、誰だって出たくはない。
クリスもまた、子供達をじっと見つめる。沈黙の中、バイブ音だけが鳴り続けている。
「……わかったよ」
無言の圧力に負け、クリスはこめかみに手を当てた。子供が他人の電話に出るのは酷なのだろう、子供達の目に不安がよぎり始めたからだ。この程度で屈してしまったのは相手がただの子供だったからか。敵だったのなら強気で居続けられたのに。
一呼吸の後、男のそばへとしゃがみ込む。濡れそぼったコートを摘むようにめくった。手を差し入れ、音源である折りたたみ式の携帯端末を取り出す。鳴り出してから時間が経っているが、音が絶える様子はなかった。壊れているというよりは「早く出ろ」と言わんばかりの威圧を感じる。
というか、とクリスは倒れている男へと目を移した。
彼はこの川で溺れたのだろうか。大の大人が溺れるほどの深さではない。溺れさせられたのなら話は別だが、この通話用端末は防水性だ、まるでこの事態を想定していたかのようなのだが。
何はともあれ、と画面に映し出された人の名を読む。
「……国木田、独歩」
バイブ音は未だに続いている。ため息を一つつき、クリスは受話器マークを押下して耳に当てた。
「お待たせしてすみませ」
『や――っと出たかこの歩く包帯置き場ァ!』
「いッ……!」
突然の怒声に思わず耳を離す。
『何度電話したと思っている! これでまた俺の予定が狂ったではないかッ!』
「あ、あの」
『出社の時間はとうに過ぎている! とにかく早く探偵社に来い!』
「ハロー、聞こえてます?」
『貴様には常識というものが足りん! 良いか常識というのはまず第一に色のおかしい雑草を口に入れないこと第二に良い縄を見つけても拾ってこないこと第三に』
駄目だ、聞こえていない。
『だいたい貴様はなぜいつもそうやって』
「お話の途中すみません、少々声の大きさを下げていただけますか国木田独歩さん!」
少し声を張り上げる。すると相手の説教がフッと止み、やがて静かな声が聞こえてきた。
『……太宰ではないな? 誰だ』
「通りすがりの者です。この電話の持ち主は川辺で倒れています」
『……あの自殺好きめ……』
自殺好き、と聞こえたのは聞き間違いだろうか。聞き間違いということにして、クリスは話を続ける。
「生死は確認していませんが、今から警察を呼ぼうと思っていて」
『いや、その必要はない。そいつは死んでおらん』
「……え」
死んでいたら今まで苦労していない、と謎の根拠で断言され、クリスは返す言葉をなくした。連絡が取れなかったというのに川辺で倒れていても心配されない、ということは、前科があるのだろうか。妙なことに首を突っ込んでしまったかもしれない。
『そちらまで迎えに行く。場所は』
「ああ、えっと、わたしもこの街に来たばかりなので詳しくはなくて……そうだ」
電話から耳を離し、クリスは足元を見遣った。クリスが電話し始めたのを見た子供達が、再び枝で男をつつき始めている。中にはコートをめくって中を覗き込んでいる子供もいた。そんなに面白いのだろうか、身元不明の男で遊ぶのは。
子供達から大体の住所を聞き出し、川辺であること、近くの土手を車が通れることなどを伝える。これでおおよその位置が特定できたらしい、大きなため息が聞こえてきた後、わかった、と責任感のありそうなしっかりした声が言う。
『これから向かう。迷惑をかけて申し訳ない』
「はあ……じゃあよろしくお願いします……?」
話の流れでこの男を頼む形になってしまったが、無論知り合いではない。ぶつり、と通話が切れた音を聞くと同時に電話から耳を離し、足元のそれをぼんやりと眺めた。どうしてこうなったのかと思案する。
確か、川辺で倒れている男を見つけた。そこに駆けつけたら男の携帯電話が鳴った。しかたなく出たら、男の同僚に男を頼むことになった。
なるほど、わけがわからない。
――出社の時間はとうに過ぎている! とにかく早く探偵社に来い!
ふと、電話口で聞いた怒声を思い出した。
「探偵社……」
ということは、この男は探偵なのだろうか。
「……探偵、ね」
すでに暗くなった端末の画面を見ながら考え込む。そしてクリスは、それを自らのポケットへ突っ込んだ。
***
生死不明の男の横に腰を下ろすこと数分、クリスは一人で男の横に座っていた。生死不明なら確かめれば良いのだが、国木田というあの男性が「死んでいない」と断言していたのでわざわざ確かめる必要もないだろう。生きていようが死んでいようが、これを引き取ってもらえるのならクリスにとってはどうでも良い。ちなみに子供達は動かない男に飽きてどこかへ行ってしまった。
遠くからエンジン音が聞こえてくる。立ち上がってそちらを見れば、土手を走るにしては些か――否、かなり速い速度を思わせる車体がエンジン音と共にあっという間に近付いて来た。急ブレーキの後、それは土手の上に停車する。
バタン、と荒々しくドアを締めて運転席から降りてきたのは眼鏡の男だった。
眉間のしわが似合うと言うと不躾だろうか、神経質さを窺わせる顔つきをしている。スーツではないにしろきちんとした服装をしており、その几帳面な第一印象を後押ししている。同僚であろうコートの男の服装とは傾向がだいぶ違うが、私服可の職場なのだろうか。
「あなたが通りすがりの方か。うちの馬鹿が迷惑をかけて申し訳ない」
「いえ、お気になさらず」
人の良い笑みを返すクリスに彼は一礼し、そして川辺に倒れている男へとその眼差しを向けた。ぐ、と眉間のしわを深める。
「――起きろ太宰!」
突然の大声。もはや暴力に等しいそれに、身をすくめる。鼓膜が破れそうだ。
その怒声に、ずっと転がっていた男が「うう」と呻き声を上げた。どうやら国木田という男の言う通り、生きていたらしい。
「酷いなあ、国木田君」
もそり、と眠たげに体を動かし、彼は不満げに、しかしのんびりと国木田に文句を言った。
「もう少し優しい起こし方はなかったのかい? 私は心地良い眠りの中で素晴らしい夢を見ていたのだよ? 世界中の美女という美女が私のところに駆け寄ってきて『心中して!』の大合唱。もう少しで皆と一緒に心中できたところだったのに」
「貴様の事情など知るか。大方、偶然見かけた川に入ったところ予想以上に浅かった上眠気が勝って川辺で昼寝をしていたところだろう」
「わーお、すっごいねえ国木田君! 大当たりだよピンポンピンポーン! 君もとうとう乱歩さんの弟子入りかい?」
「貴様の行動など簡単に予想がつく。それよりも仕事だ! 貴様が川辺で昼寝をしている間、社員は皆右往左往のてんてこ舞いだ!」
パラパラと深刻そうに手帳をめくる国木田の表情は危機迫っている。対して太宰はへらりと笑って「違うよ国木田君、実はこれ、昼寝ではなく最近流行りの水流マッサージなのだよ。肩こりに効くよ」などと言っていた。しかも国木田はというと「本当か」と言って手帳にメモしようとしている。
探偵、という雰囲気はまるでない。
「あの、あなた方は探偵さんなんですか?」
純粋な質問を装って声をかける。その先では太宰の嘘に怒りを露わにした国木田が、ああだこうだと文句を言い募りながら太宰の首を絞め上げていた。が、当の太宰はというと平然とクリスを見つけてからりと笑い、挨拶のように片手を上げてくる。
「あらら、可愛いお嬢さん! こんな川辺でお会いするなんて運命ですねえ、是非私と心中を」
「させるか!」
太宰の頭に拳が落とされる。今度こそ太宰は昏倒し地面に崩れ落ちた。傍目から見れば一方的な暴力行為なのだが、国木田は平然と眼鏡を押し上げながらクリスへと向き直ってくる。
「ああそうだ。とはいえ、武装探偵社の社員だが。……なぜ俺達が探偵だと?」
「電話口で『探偵社に来い』って言われていたからそう思ったんですけど……えっと、武装探偵社というのは……?」
聞いたことがないわけではない。しかし相手にするには情報が足りない。
「あれ、国木田君、この子と電話なんていつしたの? ハッ、もしかして国木田君……とうとう私の日頃の行いに感化されて自殺の道へ歩み始めようとしているのかい? しかも心中から始めるなんてわかってるじゃないか!」
「誰が貴様に感化などされるものか! 状況を見ろ、状況を!」
「まさかよりにもよって国木田君の方が先に心中相手を見つけるだなんて……ま、私くらいになればその程度、悠々と余裕を見せつけられるのだけれどもね。というわけでお先にどうぞ」
「お先にするわけがないだろうが! それに初対面の相手を貴様の妄想に巻き込むな!」
「おすすめは手軽な入水、次点で夢のある服毒、その次くらいがどこでもできる首つりだよ。参考までに」
「話が進まん! 黙れ包帯!」
「それはさすがに酷い! 私包帯じゃないよ!」
なんとも賑やかな方々だ。
太宰の茶々をかわしつつ聞き出したところ、武装探偵社というのは異能力者の組織で、警察が追えない物騒な件を担うらしい。そういう組織があるからヨコハマは秩序が保たれているのか。
「異能力……」
「君はここの人間じゃないのかい?」
唐突に太宰が口を挟んでくる。頷き、つい先程海外から来たのだと伝えた。
「なるほど道理で武装探偵社を知らなかったわけだ。納得納得」
「そんなに有名なんですか? この街で武装探偵社というのは」
「そこそこ知名度はあるねえ」
にこやかに答えてくれたこの太宰という青年も異能力者ということか。
異能力の種類は数多くあり、それはその人の外見からでは判断できない。異能力者であるという情報だけでは不足していた。しかしこれ以上聞き出すのは不自然だ。今日はここまでにしておくか。
「とっとと行くぞ太宰! 仕事が山ほど残っている!」
「えー、私も行くの? だるーい」
「文句を言うな!」
これ以上世間話をするつもりはないとばかりに国木田が太宰を引きずっていく。片手のみでそれを行う国木田の腕力に驚きつつ、クリスはそれを呆然と見送った。両者とも細めの体格ではあるが、治安維持組織という職業柄見た目通りではないということか。
嫌がる太宰を車に詰め込み、再度クリスに礼をしてから、国木田は車を発進させた。エンジン音があっという間に遠くなっていく。土手の向こうへと姿を消した車体を見送りつつ、クリスは低く呟いた。
「……武装探偵社、か」
ポケットから太宰の携帯電話を取り出す。起動して中を見てみれば、やはりというべきか多くの電話番号が登録されていた。名前と電話番号がわかれば調べ方次第では住所から何からを知ることができる。今のクリスが頼れるのはあの情報屋だけだ。彼に売るとしたら一般人の情報では大した額にならないが、それが武装探偵社の社員に関する情報となればそれなりの金額になるだろう。金はあればあるほど良い。次の一歩へと繋がる。
相手が誰であろうと利用できるのならば利用する。クリスは常に利用する側、虐げる側――強者でい続けなければいけないのだから。
「悪くない」
ふふ、と笑みを浮かべ、クリスは目を細めた。