第2幕
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***
太宰は空を見上げていた。時は昼、星はなく、青い空と白い雲という見慣れた風景が頭上に広がっている。そこに黒煙が立ち上っていた。破壊に伴う、荒廃を予感させるもの。けれどその中に太宰は降下するパラシュート――一筋の光を見つけ出す。
敦だ。
白鯨から脱出し、落下してきたのだ。
街を歩きながら太宰はそちらへ向かった。たまに襲ってくる人々はひょひょいと避けていく。
どこまで予測できていたのか、と訊ねられると返答に困る。事態は僅かな時間で急変する。太宰はその可能性一つ一つを想定していただけだ、別にこの状況へ持ち込んだわけではない。未来を想定でき、望む状況に近付けることができたとしても、未来を思い通りの形にすることはできないのだ。
それは、人の身だからこそ。
もしこの世界の物語を脚本のように確実に予測する人がいたとしたら、それはきっと人ではない。
そして今、太宰の予測の一つが実現しようとしている。それは太宰を躓かせるように背中を押す――敵意だ。
――ドッ!
立ち止まった太宰の行く先を塞ぐように、足元のアスファルトが抉れた。やはり来たか。敦の救出、そしてこの事態の収束。二つの役割を担う太宰をギルドが放置しておくわけもない、刺客を向けてくるだろうことはわかっていた。
とはいえ、と太宰は足下を見下ろす。
見慣れた抉れ方だった。コンクリートを洋菓子のように容易く削り取った何か――それによって形成された溝は、四年前まで見てきた部下の異能によるものと酷似している。しかし彼ではない、彼は奇襲のように太宰を襲ってくることはない。いつだって姿を現して、目の前で訴えてくるのだ。
では誰か。
「厄介だね」
太宰は自らの右腕を見た。先日、異能特務課の元友人とドライブした際、車に突っ込まれて怪我をしたのだ。片手が不自由な中で見知らぬ襲撃者を相手にするのはいくら太宰でも気が滅入る。いち早く敦の元に向かわなければいけないのだが。
緩慢に振り向いた太宰は、背後にいた黒装束に目を細めた。小柄な人物だ。しかしその外套によって体型は隠されている。深く被ったフードで顔も見えない。
けれどその姿に、見覚えがあった。
敦に七十億もの金を賭けた相手を探るために忍び込んだ古巣で、彼女は太宰へ銃口を向けてきたのだ。今、彼女は白鯨内へ探偵社の諜報員として潜入していたはず。こうして再会できるとは思ってもみなかった。
想定の範囲内ではあったものの――思ってもみなかったのだ。
「……君か」
太宰の声に人影は一歩こちらへと近付いてきた。何かを差し向けるように右手を微かに上げる。ふ、と風が太宰の頰を撫でる――瞬間。
銀に煌めく刃が太宰へと飛んできた。いくつものそれは太宰が身動きする間もなく地面を抉り、太宰の髪をよそがせ、服の袖を膨らませる。異能そのものである銀色のそれが太宰を傷つけることはない。
それを、彼女はわかっているだろうに。
「……やはりか」
彼女と初めて会った日、太宰と国木田を意味もなく襲ってきた鎌鼬。それと同じものをわざと向けてきたのだ。
己が誰かを証言するかのように。己が何者かを示すように。
「……薄々わかってはいたよ。けれど直接の害はないと思っていた」
「それは残念でしたね、太宰さん」
フードを脱ぎ、彼女は無表情に太宰を見る。亜麻色の髪が風に揺れた。青の眼差しがポートマフィアで出会った時と同じ光を宿している。
敵意。
「ご容赦を」
「残念だよ、とても。君はやはりそちら側の人間だったのだね。クリスちゃん」
太宰は目を細める。
「……今ならまだ間に合う。手を引いてくれるかい?」
「ごめんなさい。元よりこの状況が、あなた方に味方した目的ですから」
彼女はすぐさまそう言って笑った。場に似合わない――少女らしい、可憐な笑顔だった。
***
太宰と対峙しながら、クリスはそっと息を吐き出した。
彼は探偵社の人間だ。その太宰にこうして攻撃を仕掛けることの意味をクリスはわかっている。わかっている、これが、この裏切りが、唯一の方法なのだ。
だから、どうか。
「……先にお尋ねしますが」
クリスは手を太宰に向けた。薄布のように風が手のひらへ集まってくる。
「走るのはお得意ですか?」
「いやあんまり。寝るのは大得意だよ」
太宰の答えは普段通り掴み所がない。これでいて嘘は言っていないのだから不思議なものだ。
「ではご要望通り、眠っていただきます」
風を呼ぶ。それは渦を巻き、巨大な竜巻となって太宰へと襲いかかった。太宰が顔を腕で庇う。いくつもの竜巻が太宰へと駆けていく。無論、太宰本人を傷付けることはない。
太宰の視界に粉塵が舞う。岩塊が削り出され、粉塵と共に宙を飛ぶ。
やがて風が収まった頃、太宰は腕から顔を上げ、自身の周囲へと目を移した。溝――否、もはやそれは穴だ。地下にあるはずの埋設物が何も見えないほどの深い穴が太宰を取り囲んでいた。その幅は数メートルに及び、幅広の車道はおろか歩道をも崩落している。足元に僅かに残ったアスファルトも心許ない。
「……これは」
身じろいだ太宰の足下で、パラ、と欠片が虚空へ落ちていく。
「確かに、寝るしかすることがなさそうだ」
他人事のように呟き、太宰がクリスを見遣ってくる。その目に隠れた策を読み取り、しかしクリスは黙って見返した。
「一つ尋ねても良いかい?」
「どうぞ」
「これは君の選択かい?」
その問いに答えるのは簡単だった。
「ええ」
一つ、頷く。
「わたしの意志です」
この一言で太宰が、探偵社がクリスを敵と判断したとしても問題はない。
「……本当に、これで良いのだね」
何かを知っているかのように太宰は訊ねてくる。クリスは頷き、微笑んだ。
「わたしがかつてギルドにいたことを知っているのでしょう? いるべき場所に戻った。ただそれだけですよ」
表情筋は普段通りに笑みを作り出した。
太宰をどこまで騙せるのかはわからない。けれど、彼を欺ければ探偵社全員を敵に回せるのと同義だ。
「だから、敦さんとあなたを会わせるわけにはいかない」
「できるのかい? 君に」
「してみせます」
「やってみたまえよ」
太宰が薄く笑う。その笑みに何かを感じ、クリスはちらと遠方を見遣った。何かが近付いてくる。かなりの勢いでそれはクリスへと飛んできていた。
巨大な瓦礫だ。賢治だろうか。
「この程度!」
クリスはそれを鎌鼬で粉砕した。しかしその後の光景に目を見張る。
「な……!」
岩塊に隠れるように飛来してきていたのは、銃弾。それも、たくさんの。
発砲音はしなかった。これは一体何だ。
急遽氷を展開、自身の前に壁を張る。霰のように降り注いだ銃弾は氷に食い込み――なおも加速した。
「これは……!」
氷の壁から離れるように横に転がった。クリスが移動した瞬間、防御壁は木っ端微塵に砕け散る。なおも勢いを止めない銃弾が宙を真っ直ぐに裂いていく。
異常なほどの飛距離と推進力、それと同じような速さの黒い何かが視界の端を通り過ぎていった。何を繰り出す暇もなく、ただ横目で追う。
巨大な溝の向こう側、そこに立つ黒い外套が風を孕む。帽子の下の赤毛が揺れる。その手に引っ掴むのは太宰の首根っこ。彼は遥か彼方から駆けつけ、クリスの視界と動きを封じつつ陸の孤島に置き去りにされていた太宰を乱雑に掴み、遠く離れた地面へ着地していたのだ。
彼の足元で太宰が体を丸めて呻く。
「首、首絞まった、苦し」
「おお良かったなあ首吊り自殺じゃねえか」
「嫌だよ美人でも女性でもない子供と心中なんて」
「俺はガキじゃねえ! つか誰が手前と心中するか!」
「私だって嫌だよ、死ぬならお一人でどうぞ」
「それはこっちのセリフだ不完全ミイラ」
「あーどこかに箪笥の角に足の小指をぶつけて死んでくれる、悪趣味な帽子に隠れそうなくらい小さな黒い誰かはいないかなあ」
「今すぐ全身圧縮して溝に放り捨ててやろうか、あァ?」
端から見れば楽しそうなそのやり取りは、今のクリスにとって不吉でしかない。
重力を無視して飛んできた瓦礫。宙を裂く、勢いの止まらない銃弾。数メートルの裂け目を飛び越える脚力。
「……中原さん」
「よお、久し振りだなネズミ野郎」
苦々しく名を呼んだクリスへ、彼は帽子に手を当てて口の端を釣り上げた。
――中原中也。
ポートマフィアの幹部である、重力遣い。
彼とは一度顔を合わせている。モンゴメリの襲撃を受けた後のことだ。あの時は敵わないと判断し、逃げた。
その相手が今、目の前にいる。まるでクリスの到来を知っていたかのように。そうでなくとも、太宰の予見に従うかのように。
「行けよ太宰」
こちらを睨みながら、中也が太宰に呟く。
「ここは俺が抑える。手前はさっさと人形を消せ。そのつもりでこんなところをほっつき歩いてたんだろ」
「中也がそんなに私を褒めるなんて……とうとう私の素晴らしさに気付いてしまったのかい?」
「ああ、とっくの昔から手前のろくでなし具合には飽き飽きしてたぜ。俺が来ることすら知った上でのうのうとしやがって」
「中也なら助けてくれるだろうからね」
「手前を、じゃねえ。この街を、だ。勘違いすんな」
「わかっているとも。むしろそうじゃないと吐き気でどうにかなりそう」
悪口を叩き合いながらも、彼らは少しも互いを貶めるような目つきをしない。信頼、というものだろう。それへの感情を全て押し殺して、クリスは手を掲げる。風が発生、時折鋭利なきらめきが走る。
「行かせない」
振り下ろした手から鎌鼬が飛ぶ。二人を襲ったそれは地面を抉り、道を裂いた。
「行け!」
中也が叫ぶ。それに答え太宰が走り出した。クリスは太宰へと風の腕を伸ばす。クリスの意志を読みその手から発された鎌鼬が、太宰の足元を襲い、周辺の建物を崩し、中也の上に瓦礫を降り注ぐ。
しかしそのことごとくを中也は弾き返す。重力操作相手に投擲攻撃は無意味だ。
駆けていく太宰を背後に、中也が立ち塞がっている。中也を看破しなければ太宰を追うことが出来ない。しかし、ものの数秒で重力使いを伸せるような技を、クリスは持ち合わせていない。けれど、だからといって諦めるわけにはいかない。半端に終えるわけにはいかないのだ。
「行かせない!」
クリスは上空に薄氷を生成した。太宰を宙から追うための飛び石だ。たとえ重力使いとはいえ、足場なしに空中戦はできない。彼の手の届かない高さから太宰を追えば逃げ切れる。
薄氷を連続して宙に打ち出す。それらを足がかりに、クリスは中也を顧みずに駆け出した。跳躍、宙を踏む。中也が驚愕に目を見開く、それを横目にクリスは太宰が去った方へと駆けようとした。薄氷は目に見えないほどに透明度が高く、薄い。傍目には空中を走っているように見えるはずだ。いくら重力遣いとはいえ、目に見えないものを狙うことはできない。
そう、思っていた。
――パリン!
軽快な、破壊音。それは宙を踏んだクリスの足元から。
足場にしていた薄氷が、割れた。
「――え……?」
足場を失ったクリスへ、重力という名の蛇が絡みついてくる気配。抗えないままゆるやかに下降していく体、視界。
転落。
薄氷の位置は高く、普通の銃弾では撃ち抜けない。ましてやその目に映りもしない。けれど的確に砕かれた。
そうか、と気付く。答えは簡単だ。着氷した僅かな瞬間を狙われ瓦礫か何かを投げつけられたのだ。距離もある、薄氷は小さい上視認できない、なのに、彼は。
――攻撃を的中させてみせた。
天地が逆転する視界の中で、口端をつり上げる笑みを視認する。
「ッ――【テンペスト】!」
頭からの落下。しかしクリスは落ち着いて風を呼ぶ。強風が彼女を包み、宙返りしたクリスを地面へと緩やかに運んだ。着地、そして追跡を妨げた男へ視線を向ける。
目の前には中也。背後には駆けていく太宰。どちらを優先すべきかなど、わかりきっている。
けれど。
「よそ見すんじゃねぇよ――手前の相手は俺だ!」
中也が拳を握り締めてクリスへ駆け寄ってくる。彼の足がついた地面は大きくへこんだ。
「気ィ逸らせるんならやってみやがれッ!」
振り落とされる拳を紙一重で避ける。衝撃波が頬に裂傷を作った。
「くッ」
「おらおらおらぁッ!」
続けて連打。彼に触れられたが最後、クリスは地へと張り付けられる。重心を下げて拳の動きを見定めつつ、クリスは息を詰める。この激しい攻撃をすべて、避けなければいけない。
視認し、紙一重で避ければ皮膚が裂けた。間に合わず風で力の方向を逸らすも、勢いは殺しきれず次なる一撃の余裕を与えてしまう。氷の壁など生成も間に合わず、簡単に砕かれた。
蹴りに対してしゃがみこみ、クリスは後方へ宙返り、距離を取る。がしかし体勢を立て直した直後には既に拳が眼前に迫っている。その程度の距離などすぐに詰め寄られてしまう。
踵で地を蹴り後退を試みる。中也が突撃してくる、それを見つめる。右手の拳が顔面へと向かってくる――首を振って回避、腰を極限まで下げ右手を地につき、それを支点に胴を跳ね上げ腰を回転、足を振り上げ中也のみぞおちを狙った。上体を乗り出していた中也はしかし寸前で身をずらし、クリスの蹴りはその脇を通り過ぎる。中也の手がクリスの足首を掴もうとしてくるが、それは手首を蹴り返すことで防いだ。蹴撃によって捻っていた腰をさらに捻って旋回、左手の付け根で体を支えつつ体を折り曲げ今度は中也の首を狙う。けれどこの攻撃もまた、余裕の笑みと共に回避された。
「その程度かよォ?」
攻撃が読まれている。
「くッ……!」
中也の首元を狙った体は完全に屈しきり、膝が顔の前にある状況だ。そこからクリスはさらに足を振り上げ、同時に手で地を押して後転、宙返りの後鎌鼬を中也へと向ける。眼前へと向けたそれはやはり呆気なく腕で振り払われた。裂傷、服が千切れ血が飛ぶ、それをも纏うように中也は獰猛な笑みを保ち続けている。クリスの異能攻撃は中也からすれば目くらましにしかならない。
圧倒的に劣勢だった。クリスは遠距離攻撃に特化した異能者だ。そこそこの体術を心得てはいるものの、中也のような一流の体術使いには手も足も出ない。
どうする。
どうする。
「どうした、もう終わりか?」
「……いいや」
さらに後方へと距離を取り、体勢を立て直すより先にクリスは右手を宙へ広げた。突如クリスを守るように突風が吹き荒れ、中也の接近を阻む。今までも数度行った異能攻撃――しかしそれは直接中也へと向けるためのものではない。風は周囲にあった瓦礫や砂を巻き込み、竜巻による嵐の一帯を作り上げる。
視界が砂色に汚れていく、互いの姿が掻き消されていく。
まだ、方法はある。賭けだ。上手くいけば相手の四肢を封じられる。それしかない。それしか、今は思いつかない。
重力に人は敵わない。けれど――人ではない力なら。
「チッ」
中也が腕を掲げて目を守る。それが、クリスに与えられた隙だった。
風を足に纏い高く跳躍、嵐よりも高い位置へと到達。同時に上空へ薄氷を生成、くるりと体を半回転させ上体を下に向ける。薄氷へ地上側から足をつき、そして再び跳躍。
嵐に囲まれた男へと向かって、少女の体は直上から勢いよく落下する。
「何ッ……!」
殺気に顔を上げ、彼は驚愕に息を呑む。クリスは手を伸ばした。瞬間、手のひらに風が集まる。熱が発生し湯気が立つ。嵐の中心がそこへと移り変わる。
圧力の中心が、手の中にある。それを真っ直ぐに――渦の中に閉じ込められた男に打ち付ける。
「ッあああああ!」
重力対気圧。二つの力が衝突した。