第2幕
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***
テーブルクロスを取り替え終わったモンゴメリは使用済みのそれを運んでいた。それを洗濯するのはモンゴメリの役目だ。自ら進んで名乗り出た仕事だけれど、どことなく孤児院時代を思い出してしまう。
そして孤児院といえば、思い出す少年の顔がある。
「……良い気味だわ」
そう、良い気味なのだ。自分より恵まれているあの少年が、今、自分の街を、仲間を、居場所を燃やされている。それが良いことでないわけがなかった。
良い気味だ。落ち込んで、絶望して、泣き叫んで、それでもどうにもならなくて呆然としていれば良い。
良い気味だ、とても、とても。
とても。
「ため息とは。お疲れかな」
「――ッ!」
突然の声にバッと背後を振り返る。動揺しすぎてテーブルクロスが数枚、床に落ちた。
女がいた。クリス・マーロウ、元ギルド構成員。探偵社の人間と親しくしていたくせに、手のひらを返してギルドに戻ってきた。
睨み付ける先で女はゆったりと笑む。この人にも表情筋があったのね、と場違いなことを思った。
「ごめん、驚かせちゃったかな」
「……何よ、笑いにでも来たの?」
「違う違う、わざわざそんなことをするくらいなら君の様子を黙って眺め続けていたよ」
なぜこの女はこんなにも楽しげなのだ、とモンゴメリは唇を噛む。ボスに望まれ、図々しくもそれを拒み、探偵社に居場所を置く女。
その存在は人から求められているのだろう。強力な異能力、神と呼ばれる操心術。世界に愛された女が目の前にいる。
どうしようもなく憎かった。
「じゃあ何よ、みすぼらしいあたしにお声をかけるほどお暇なのかしら、特殊戦闘員様は? 今にボスが走ってくるわよ?」
「フィーがここに来たらぶん殴る」
「ぶんッ……?」
さらりととんでもないことを言う。ボスに拳で敵うと思っているのか。驚愕するモンゴメリに、女は手にしていたものを差し出してくる。
人形だ。可愛らしいとは言い難い、あり合わせの布で雑に縫い合わせたような。
「これ、捨てて欲しいんだけど、頼めるかな」
「これって……こんな大事なものを?」
「君に頼みたいから」
「……何を企んでいるのかは知らないけれど、あのお方を怒らせない方が良いわ」
ふいっと顔を背ける。足元に散らばったテーブルクロスを広い上げながら、モンゴメリは女の様子を観察した。その顔に浮かぶのは無表情。しかし。
テーブルクロスを抱えて立ち上がり、女を睨む。その沈んだ青を――その奥に隠された強い意志を見据える。
「……あのトラ猫ちゃんをいたく気にしているようね」
「そう見えたのなら、君の目は真実が見えていないよ」
女がそっと口の端を持ち上げて微笑む。
「わたしはいつだって自分のためにしか行動しない。……その人形を頼むよ。どうするかは任せる。捨てるも良し、アンにあげるでも良し、どこかの誰かに見せびらかして絶望を煽るでも良し」
その、と言われて初めてモンゴメリは腕の中の物を見下ろした。人形がある。いつの間にかすり替えられていたのだ。代わりにテーブルクロスは女の腕の中に。いつの間に、と驚くモンゴメリはしかし、自らが持つそれへと目を落とす。
人形。
今実行されている作戦の要。
ケタケタと笑い声を上げるそれは不気味で、しかしこの薄汚れた自分には幾分似合っている気がした。
そうだ。自分は結局――ボロ布として、この組織にしがみついていくしかない。
ふと、この人形を手放したくなった。触れているだけで気持ち悪く思えた。けれど同時に、捨ててはいけない気もした。
これを捨てないままでいれば――捨てないまま持ってくれる人がいれば。
みずぼらしい自分のことも捨てないでいてくれるんじゃないか、と。
そんな夢のような期待が湧き上がる。
「探偵社の一階に何があるか、知ってる?」
唐突な問いにモンゴメリは我に返った。顔をしかめる。
「……は?」
「喫茶だよ。とても素敵でね、珈琲がとても美味しい。いつもは紅茶を頼むんだけど、たまにその香りに惹かれて頼んでしまうんだ」
突拍子のない話にぽかんとする。何を言いたいのか。それとも何かの誘導か。意図が読めない。
「それじゃあ、ね」
くるりと踵を返して去って行く姿を見守る事しかできなかった。そんな自分に、そしてそれをさせる女に、ふつふつと苛立ちが沸く。
「……何なのよ」
苛々する。この感情をどうすれば良い。ぶつけるのが一番だ、と思い至るまで時間はかからなかった。
向かう先は一つ。あの少年の元だ。
「思いっきり笑ってやるんだから」
***
タイミングを図ってフィッツジェラルドの部屋に戻れば、予想通り彼は血相を変えていた。部屋の扉を後ろ手で閉めるや否や彼が歩み寄り、その手が荒っぽく伸ばされる。避けることなく首を掴まれた。
背中が扉に叩き付けられる。
息が詰まる。
「虎を逃がしたな」
「さあ、何のことだ、かッ……!」
足が浮く。首が絞まる。指が頸動脈に食い込んでくる。視界の端が白んだ。
「フィー……は、な……」
「モンゴメリ君を唆したな? クリス、君は俺の目的を知っているだろう」
激昂したその声に否応なく身が竦む。つり上がった目がクリスを射貫く。
「なぜ邪魔をする」
このままでは答えるどころか呼吸すらできない。クリスはフィッツジェラルドの手に己の手を添えた。遠のきかける意識の中で風を呼ぶ。微かな牙が彼の手を掠め、突然の痛みに拘束が緩んだ。それを逃さずクリスは彼の手を払いのけ、床へ着地した。背後の扉に寄りかかり、喉に手を当てて咳き込む。
「……落、ちついてよ、フィー」
「……理由を聞こう」
「理由? 今まで、散々言ってきたよ。――君のやり方は間違ってる。そして、〈本〉は人の手に渡ってはいけない」
「俺は家族を取り戻す」
途切れ途切れの呼吸を繰り返すクリスの顔の横に手をつき、フィッツジェラルドは顔を近付けてくる。その眼差しを睨むように見返す。
「……君のその、傲慢さが、嫌いだ」
「ああそうだったな。だが家族を取り戻そうとすることの何が悪い」
「何も悪くは、ないよ。羨ましいくらいだ。わたしには、君達が言うような家族はないから。けど……〈本〉は駄目だ。あれは人の手に渡ってはいけない」
「前もそう言っていたな」
「言った。そして、何度でも言うよ。――何でも叶えられる力は、災厄だからだ。その力を望む者が集い、戦火を生む。その力を得た者が猛威を振るい、世界を組み替えようとする。これを災いと呼ばずに何と呼べば良いんだ」
「君と同様、か」
至近距離で睨み合う。
真意が棘となって相手の思考に突き刺さり、その意志を途絶えさせようとする。
「それが災いだろうと何だろうと、俺は為すべきことを為す」
「……ああそうだ、そうだった。君はいつだってそうだ。じゃあそんな君に一つ提案だ」
ようやく微笑みを浮かべたクリスに、フィッツジェラルドは目を細めた。
「何だ」
「わたしを街に下ろせ」
「逃げる気か」
「ここに永遠に留まる気は毛頭ないからね」
「取引を反故にする気か」
「元よりイエスと答えたつもりはない」
かがみ込むように顔を寄せてくる男へと、クリスは微笑み続ける。それを警告と受け取ってかフィッツジェラルドの顔に険が宿る。
何をしようとしている――そう問いたげなそれへと、先に答える。
「言い方を変えよう、フィッツジェラルド」
笑み。けれどそれに乗せるのは歓喜ではなく、挑発。
「いや」
さあ、ここからが。
「……『訴え方を変えよう』かな?」
わたしの舞台だ。
クリスは右手に氷の塊を生じさせた。それに風をまとわせ、正面にいる男の顎目がけて投げ込む。突風をまとったそれを、フィッツジェラルドは上体を反らすことでかろうじて避けた。その瞬間をクリスは逃さなかった。
袖口からナイフを引き抜く。一歩、踏み込み。至近距離からさらに接近振り上げたナイフはその仰け反りきった喉元へと走る。避けようのない一撃、しかしフィッツジェラルドはクリスの腕を掴むことでそれをすんでのところで防ぐ。
微かに触れた刃先で、フィッツジェラルドの首に血が一筋、描かれていく。
食い止められた腕をそのままに、クリスは左足を高く上げた。蹴撃、顔面を狙ったそれにフィッツジェラルドは腕を上げて防御する。その隙にクリスはフィッツジェラルドの手を振りほどき、腕を解放、自由になった手で再度ナイフを切り上げた。今度はその腹部へと突きを繰り出す。
「ッ……!」
連続の近距離攻撃、それも相手の小柄さを生かした懐内での動き。視界の効かないフィッツジェラルドにとっては不利な状況。フィッツジェラルドは肘でナイフの刃先を逸らし、そして一歩大きく退いた。クリスとの距離が空く。ようやく二人は互いの全身を視認できる距離で睨み合う。
「……上達したな、クリス」
些か呆然とした様子でフィッツジェラルドは呟いた。ナイフによって切られた肘を庇うように手で覆う。
「これほどとは……」
「このくらいになってもまだ、捕まりそうになる」
クリスは淡々と答えた。
「……君の言った通りだった。この世界にとってわたしは異常すぎる。誰もがわたしを捕らえ、利用しようとする」
「そうだ。だがギルドなら、俺の隣なら、君を守ってやれる」
「けれどわたしは君のそばにいられない。君は間違いなくあの人すらも金のために利用する。それだけは駄目なんだ、あの人だけは、あの人の夢だけは、安全な鳥籠を捨ててでも、不釣り合いな光の世界に身を晒してでも……誰かを利用してでも、守らないといけないんだ」
クリスはその手に持ったものをフィッツジェラルドに見せた。彼の携帯端末だ。画面には、彼の妻の名。先程の一連の攻撃の最中抜き取ったものだ。
胸元に手を当て顔色を変えたギルドの長を見、ゆったりと微笑んでみせる。
「君の奥方へわたしの演技をお届けする。真実を告げる演目だ。リアの名にかけて、必ずやその命を天へお送りしよう」
「……妻を人質に取るか」
「わたしにとっての脚本と同じ、君にとっての大切なものだ。単純な取引だよ」
睨み合う。互いの大切なものを盾に、隙を見せることなく、対峙する。
わたしはもう、屈しない。
全てを――全てを利用し、虐げ、踏み潰し嬲り殺し、唯一の強者としてこの世界に在り続ける。
「……強くなったな」
隙を探す目をそのままに、ぽつりとフィッツジェラルドが呟いた。
「だが――自分を蔑ろにし、世界から追われてまで叶える死者の願いに何の意味がある、クリス」
「わからないよ」
本当に、わからなかった。
ただ、そうすることで心が軽くなるのは確かだった。自分にこれしかないことも確かだった。
「わからなくて良い。――ただこれだけが、わたしが誰かを幸せにできる方法だ。理由はそれで十分なんだ」
もう平穏は要らない。
もう幸福は要らない。
それらはあの日、あの人を失ったあの日あの場所で全て吹き飛んだ。もうどこにもない。あるとしても仮初の、偽物の、取るに足りない幻だ。
だから。
唯一この寂しい世界に残ったあの人の夢、それを叶えられるのなら。
わたしはもう、何も望まない。
――望んではいけない。
突如携帯端末を投げた。フィッツジェラルドがそれに気を取られている間にくるりと身を翻し、扉を開け放って廊下へ飛び出す。
フィッツジェラルドの大切な人の連絡先は記憶した。これで、彼はクリスに手を出してこない。取引成立、奴の弱点である「家族」を脅しに使った最低なやり方。けれどこれしかなかった。何を犠牲にしてでもわたしは一人で生き延び、あの人の夢を守り続けなければいけないのだから。
クリスは廊下を駆ける。目指すは外、混沌に恐怖するヨコハマの街。
――そこでわたしは、最上の演技をしてみせる。