第2幕
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呆然と膝をついた敦をフィッツジェラルドは見下ろしていた。今日は祝杯を挙げる日だ。また一歩、〈本〉の入手へと近付いた。それに。
横目で少女を見遣る。その視線に気付き、不快そうな表情で彼女は言った。
「何」
「久しいな、と思っただけだ。君がギルドを離れてからどれほどの時間が経ったことか」
「良く言うよ。散々追いかけてきたくせに」
「君の離反を許したつもりはないからな」
立ち上がり、窓の外へと視線を落とす。平然とビルが立ち並んだ街、権力の乏しい極東の田舎。
こんな場所で〈本〉を眠らせておくわけにはいかない。あれは強大な力だ。管理できる者が管理しなければいけない。
彼女もまた、同じだ。手放すわけにはいかなかった。
「どうして」
ふと、声が上がる。そういえば、とフィッツジェラルドはそれを見下ろした。絶望に膝をついた少年が、呆然とクリスを見上げている。彼女の毒牙に染められたか。
彼女は誰にも本心を託すことはない。彼女の笑顔が本当の感情だと、誰が証言したものか。
「理由など簡単だ」
黙るクリスの代わりに、真実を言い放つ。
「クリスは元々ギルドのメンバーだ。途中で逃げられたがな、こうして取り戻せた」
「飼い犬にだって飼い主を選択する意志があっても良いでしょう?」
「普通の犬ならな。だが君にはここしかない。君の異能も才能も存在も、ギルド以外の場所では危険すぎる」
「異能……?」
虎の少年が呟く。利口な彼女は、それすらも巧妙に隠していたのだろう。
「彼女は異能者だ。天候を操り自然現象を牙に敵を屠る。人間相手には無敵だ」
「そんな」
「クリス、武勇伝を聞かせてやれ。都市一つをまばたき一つの間に更地にした話はどうだ。君の諜報技術と演技力で組織の長を自殺させた話でも良い」
「過去の話はしたくない」
ふい、とクリスはそっぽを向いた。
「そんなことより彼を早く部屋へ戻した方が良いんじゃない? 彼がフィーを襲ってきてもわたしは止めないよ。君が死んだら面白いもの」
「相変わらず俺には手厳しいな。……連れて行け」
指示に従い、控えていた部下達が虎の少年を連れ出していく。抗い、それでも引きずられていきながら、少年はなおも叫ぶ。
「嘘ですよね、クリスさん! だって、あんなに……あんなに幸せそうにしてたじゃないですか……!」
幸せそうに、か。
この、世界に牙を剥かれ力を求められ、全てを守るために全てを拒むしかないこの少女が。
「……そんなの、あなた方を騙すための嘘に決まってるじゃないですか」
ぽつり、と呟かれた言葉は揺るぎなく。
「わたしの演技、完璧だったでしょう?」
その微笑みは絵に描かれたように明瞭で。
少女の答えに少年は絶句する。抗う力が失せた虎の異能者は、呆気なく扉の向こうへと引きずられていった。パタン、と丁寧に扉が閉じられる。
「演技、か」
「……演技だったよ、いつでも、どこでも」
ギルドを離れたクリスを待っていたのは、孤独だった。それをわかっていて彼女はフィッツジェラルドの元を去ったのだ。だから彼女は弱音を吐かない。後悔を言わない。それが自身の選択だったからこそ、彼女は誰にも助けを求めない。
孤高――必然的な孤独。
「……ギルドにい続けていれば、苦しむこともなかったのだがな」
「でもフィーがいた。これしか、道はなかったんだ」
扉を見つめ続ける横顔は髪に隠れて見えない。その肩に手を置き、フィッツジェラルドは労うように囁いた。
「今日はもう休め。君の部屋はもう用意してある」
「触るな」
パシン、と手を払われる。その拒絶の反応は予想通りのもの。わざとらしく肩をすくめてみせ、フィッツジェラルドは言い聞かせるようにクリスに言う。
「まだ人に怯えるか。見た目は大人になったが、中身は当時のままというわけだな」
「人は簡単には変われないよ、フィー」
長へと向けられた眼差しは暗い。見慣れた色だった。
「……わたしはいつまでも、このままだ」
そんな彼女の言葉を、フィッツジェラルドは鼻で笑った。
「君がそれを言うか」
表情というものさえ知らず、喜ぶことも悲しむこともできなかった幼き子が、今では組織と組織の間を立ち回っている。笑顔で本心を隠し、時にその演技力で騙し、彼女は生きている。その逞しさを、強さを、変化と言わず何と呼ぶ。
彼女は強くなった。本当に。
一人で生きていけるほどに。
フィッツジェラルドの心の内など知る由もなく、クリスは眉を潜める。
「どういう意味?」
「君ほど変化に富む人間を俺は知らない」
「……いろんな役を演じるのは、楽しいから」
迷いながら彼女が言った言葉にフィッツジェラルドはとうとう声を上げて笑った。そう解釈したか。予想外の反応だったのだろう、クリスは不満そうに目を細める。
「……何なの」
「久し振りの友の帰還を楽しんでいるだけだが?」
「別に帰ってきたわけじゃ……」
言いかけ、クリスは口を噤む。彼女が何を思っているかは容易に想像がついた。しかし、それを哀れむフィッツジェラルドではない。
「帰還だ。そうだろう?」
有無を言わせぬ声に彼女は何も言わない。ケケケ、と二人の沈黙の中に不快な笑い声が響く。詛いの人形だ。そういえばもう用済みなのだった。
「それ、捨ててくるよ」
クリスが淡々と言い、笑い声を上げ続けるそれを掴み上げる。
「きちんと処分しないと、詛いが解かれるかもしれない」
「その方法はないはずだが?」
「オルコットの異能力は十分な情報が手元にないと真価を発揮しない。まだ隠されている情報があるかもしれないんだ、油断はできないよ。……この街は異質だ。政府が安定していて警察も権力を失っていないのに、簡単に裏社会に接触できる、犯罪が日常茶飯事、そして――頭脳明晰な人間がそこかしこにいる。本当に……底が知れない」
慎重すぎると笑い飛ばすことはできた。が、それは相手がクリスでなければの話だ。
クリスは諜報員だ、この世の中にある全ての情報を手に入れられる。目にした事象もそうでない事象も、彼女の認識可能範囲だ。クリスとオルコットが組んだ時の作戦はまるで脚本のようだった、と懐かしく思い出す。誰もが予定されたかのように動き、仲違いをし、そして自らの手で死んだ。
そんな彼女でさえ捉え切れていない街――異質、確かにそうなのだろう。
「そうか。ではそれの処分を任せよう」
「適当に刻んでおくよ」
冷淡ささえ含む無感情さで言い、クリスは人形を持って部屋を出て行く。その背に一声かけた。
「――妙なことはするなよ?」
彼女は足を止めた。そして振り返る。暗く淀んだ青が、何かを予見し絶望しているかのようにそこにある。
「……ああ、わかっているよ」
彼女の背を隠すように、パタンと扉が閉じる。