第2幕
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[Act 2, Scene 16]
白鯨へと連れ込まれた敦は、数日ぶりにとある男の前に引きずり出されていた。
「おはよう。飛行異能要塞『白鯨』でのクルーズは気に入ったか?」
厳重な手枷で動きを封じ込められたまま、敦は黙って男を睨み付ける。
居住するには狭いが宿泊には十分な広さの部屋に押し込められ、敦は数日を過ごした。扉には鍵がかかり、窓はなし、ベッドは綺麗だが布団の柔らかさはない。定期的に出される飯には白米はなく、無論警戒から口もつけられない。
――そして、そばに鏡花の姿はない。
一時行方をくらましていた鏡花はこのフィッツジェラルドの策によって軍警に捕らえられた。彼女を守ると誓ったはずなのに、探偵社の役に立つと決めたはずなのに、自分はどこまで弱い。
それに、と敦は背後で作業をしているモンゴメリを見遣る。
彼女は敦に敗れたがために居場所を失いかけ、小間使いとしてなんとかギルドに残っている。孤独を恐れた彼女の苦しみも悲しみもわかっていたはずなのに、あの時自分は彼女を打ち負かすことしかできなかった。
やはり自分には他者を救うほどの技量も頭脳もない。弱いままだ。
自分は何を守れる。何が出来る。探偵社の一員として街を闊歩することはできるようになったものの、その名にふさわしい行いは何一つとして為していない。
テーブルクロスを換え終わったモンゴメリが部屋を出ていく。その背中を、見送った。それしかできなかった。
「さて、さっそく本題に入りたいのだが」
悠長に微笑むフィッツジェラルドを強く睨み付ける。男の手には泡立つ薄い黄の酒。こちらの敵意に気付いているだろうに、彼は煽るように余裕を見せつけてくる。腹立たしさに敦は黙り込んだ。
返事のなさを気にする様子もなく、男は無駄のない手付きでグラスを机に置く。
「君に教えておこうと思ったことがある。そろそろ気になっている頃だろうからな。ギルドの目的、そして君をここに連れてきた理由だ」
「何?」
「興味があるだろう? 君に七十億もの大金を賭けた理由だ。――我々は〈本〉を探している」
本。
その言葉は馴染みのあるものだった。孤児院にいた頃の敦を支えた唯一のもの。今でも書店に置かれ、図書館に並び、人々を楽しませるもの。
「世界にただ一冊のみ存在する本でな、いかなる炎にも異能にも傷付かないとされている。その〈本〉がこの街に封印されていると予知した異能予言者がいた。この〈本〉と君に、関係があるのだよ」
「……そんなの、知らない」
「君が知っていようがいまいが俺には関係ない。とにかく、〈本〉はこの街にあり、それを手に入れるためには君が必要というわけだ」
本。
その名称は一般的に使われているものだ、突然こうして固有名称として使われ説明されても戸惑いしか生まれない。
この感覚に既視感があった。
――敦さん、〈本〉を知ってる?
亜麻色の髪をそよがせ、会ったばかりの少女はそう訊いてきた。
――とは言っても書店や図書館にある普通の本ではなくて。
そうだ、彼女も。
〈本〉について、口にしていた。それだけではない、彼女は確か。
――逃げて。奴らの狙いは君だ。君だけは捕まってはいけない。
モンゴメリの異能空間の中で、そう敦に訴えてきた。知っていたのだ、ギルドの思惑を、〈本〉と呼ばれるものの存在を。
〈本〉。ギルドが大金を賭けて探しているもの。そして、彼女が――クリスが知っていたもの。
「……だから僕を攫ったと?」
胸の中にわき上がってきた不安を掻き消すように、敦は目の前の敵へと問うた。フィッツジェラルドは笑う。
「〈本〉はあの街にあり、君はあの街に住んでいた。攫う理由にはならん。君をわざわざ街から引き剥がしたのは、一緒に灰になってしまっては困るからだ」
「灰……?」
「あの街には厄介な組織が多い。異能特務課は無力化できたが、探偵社とポートマフィアに手こずっていてな。先程言ったように〈本〉は異能すらも耐える。全て一度壊してしまった方が探し物も楽になるということだ。異能許可証も無意味になり必要がなくなるしな」
何を言っているのだろう。
「壊す……?」
何を。
――街を。
どうやって。
敦の問いに答えるように、フィッツジェラルドは何かを取り出した。ぞっと悪寒が背筋を走る。
見覚えがあった。忘れるわけもなかった。
人形だ。虚を映した両目に、頰を裂くかのごとく切り上がった口。不気味な表情をたたえたボロ人形。精神操作の異能者の持ち物であり、大人数を錯乱させ周囲を襲わせる道具。
悪人が持っていてはいけないもの。
「駄目だ……!」
それを奪い取ろうと駆け寄る。しかし後ろに控えていた男達に肩を押さえ込まれた。振り切ろうにも両腕が不自由なままでは上手くできない。
掲げるように、フィッツジェラルドはそれを持ち上げ敦の視界に突き出してきた。丸く描かれた両の目。喜び以外を知らない曲線で縁取られた口が、ケケ、と笑みを零す。
苦いものが胸を込み上げる。
あれは駄目だ。あれを使ってはいけない、使わせてはいけない。それは無差別に人を苦しませ狂わせる凶悪な詛いだ。
「わかった、降参する……!」
精一杯頭を回転させる。
何か言わなければ、何か言わなければ。何か言って、その手を止めてもらわなければ。
「僕も探偵社も、その探し物に全面協力する! だから、その人形だけは……!」
人形はいよいよ大声で笑い声を上げ始める。あの幼い風貌の異能者はポートマフィアの人間だったはず。どうしてここに人形がある。あの異能者はどこにいるのだろう。わからないことが多すぎる。
それでも一つだけ確かなのは、何が何でもその異能の発動を防がなくてはいけないことだ。
人形は目の前にある。防ぐことができるのは、敦しかいなかった。しかし両手は拘束され、後ろから押さえ込まれている。
どうする。どうすれば良い。
カチャ、と背後の扉が開く。モンゴメリだろうか。そう思って振り返った先にいた人物に、敦は凍り付いた。
「え……?」
「何だ、来たのか」
フィッツジェラルドが打ち解けた口調で声を掛ける。相手は呆れたように目を細めた。
「わたしがどこにいようが、フィーには関係ない」
「嫌がるかと思ったんだが」
「良い機会だよ、彼には真実を伝えるべきだ」
軽やかな足取りで敦の横を通り過ぎ、フィッツジェラルドの元へと歩み寄る。その背中を見つめることしかできなかった。
亜麻色の髪、伏せ気味の青の目、笑みを失った表情。
敦が記憶している彼女ではない。しかし、彼女だ。見間違えるわけもない。なのに、なぜここにいる。なぜその男の隣にいる。
「ああそうだ、紹介しよう」
フィッツジェラルドが敦を見下ろす。その言葉に答えて、彼女はようやく敦へとその眼差しを向けた。
「クリス・マーロウだ。君もよく知っているだろう」
知っている。その名も、姿も、声も、笑顔も。
「どうして……」
そうだ、だって彼女は、白鯨に潜入している。これは彼女の作戦なのだ。なら、と敦はクリスへと訴える。
「クリスさん! その人形を、奴から奪ってください! 駄目なんです、それが破壊されたら精神操作の異能が発動する! このままじゃ街が壊されるんです!」
「だ、そうだ」
フィッツジェラルドが訊ねるようにクリスを見上げる。
「どうする?」
「どうするも何も」
青い目は無感情に敦を見つめているだけだった。水面と若葉を思わせるあの綺麗な色は、そこにはない。言葉を失う敦の前で彼女は告げる。
「ここの長はフィーだ。彼が決めたことにメンバーは抗うことができない」
「メンバー、って」
それは、まるで親しい間柄の仲間を呼称するかのような単語だった。自身が抱いたその感想に、他ならぬ敦が否定の声を上げそうになる。
そんなわけがない。彼女は探偵社の戦力だ。探偵社の皆と交流のある、探偵社員の知人だ。
元諜報員で。
ギルドと浅からぬ繋がりがあって。
今は探偵社の一員として潜入捜査をしている、かつての敦の背を押してくれた友人だ。
混乱のままに思考が乱れる敦の脳裏で、いつしかの太宰が言った。
――彼女には気を付けたまえよ。
「決まりだな」
フィッツジェラルドの手が人形を裂く。
詛いを呼び起こす笑い声が、部屋に響き渡った。