第2幕
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その姿を視認した瞬間、クリスは動いていた。しゃがみこみ、足に風を纏う。同時に靴底に隠したナイフを手に取った。毒を宿したナイフの刃を一回り大きく覆うように、銀色の風が走る。
瞬間、飛び出す。
一歩、跳躍。一瞬で間合いを詰め、刃をその喉元へきらめかせた。刃が纏っていた風が標的の喉の皮膚を裂く、そのまま押し込めれば毒刃が奴の喉を食う。
が、刃先が完全に届く前にその腕はいとも容易く捕らえられた。
突風の威力を使った襲撃を止めるほどの腕力――異能力による身体強化を、既にしている。
気付いた時にはクリスは壁に投げ飛ばされていた。
背が壁に叩き付けられ、めり込み、破片が肉を刺す。壁材の欠片が宙を飛び出していく。肺から空気が絞り出される。
「ぅあッ……」
床に落ち、クリスは激しく咳き込んだ。その視界に磨かれた靴が映り込む。蹴り飛ばされる前に氷の壁を生成、衝撃波をそれで受け止めつつ自身は横へ転がる。クリスがいた場所の床がクレーター状に抉れ、暴風が防御壁を圧し、やがて粉砕する。
パラパラと氷の破片が落ちてくる。照明を受けて輝いているそれを視界の隅に捉えつつ、クリスは悠然と立つ男を見上げた。
「良い反応だ」
フィッツジェラルドが笑う。楽しげだ。
「異能力の使い方が上手くなったな、クリス。発動までの時間がかなり短くなった」
「……いつからわたしに気付いていたんだ、フィー」
口の中を切ったか、血の味を飲み込む。クリスの言葉に、フィッツジェラルドは大袈裟に肩をすくめてメルヴィルを見遣った。彼は誰とも目を合わせず椅子に座っている。
「昨日だ。オルコット君の作戦書のおかげでな。君の潜入能力の高さは相変わらずか、気付くのがだいぶ遅れた」
「わたしが脅したんだ、メルヴィルは関係ない。彼のことは責めるな」
「ああ、わかっている。君はそういう子だ」
「覚えていてくれて嬉しいよ。今すぐその口をこれで裂いてやりたいくらいだ」
クリスは手の中のナイフを握りしめる。再び風が刃を包み込む。クリスの隠されていない敵意に動じることなく、フィッツジェラルドはじっとクリスを見つめてきた。
張り詰めた沈黙。
身動き一つなく、睨み合う。
先に沈黙を破ったのはフィッツジェラルドだった。
「君がヨコハマにいるとは思わなかったな。部下から話を聞いた時は冗談かと思ったが」
「モンゴメリか」
赤毛の少女を思い出す。彼女はクリスを知っていた。話していた内容から察するに、噂を聞いていた程度だろう。だから、例えモンゴメリがクリスの存在を伝えたとしてもフィッツジェラルドが本気にするとは思わなかったのだが。
「そう、彼女だ。知っていたのか、面識はないはずなんだが」
「知っていただけだ。それより話がある」
「ああ、偶然にも俺も同じ事を思っていた」
どこまでも飄々とした彼は、しかしその鋭い眼光でクリスを睨め付ける。その眼差しを見返し、クリスは口を開いた。
「緊急プランが発動すると聞いた。プランの内容を教えろ」
「そんなことか。良いだろう。――と言いたいところだが」
その前に、とフィッツジェラルドはクリスに笑みを向けた。口の端だけを動かす、嫌な笑い方だ。
「取引だ」
「取引?」
「俺達に寝返れ。そして緊急プランの遂行を手伝え」
「断る」
「まあ話を聞け。こちらについたのなら、君の命と君の大切な物を守ると約束しよう。そうだな、例えば」
ふ、とフィッツジェラルドが遠くを見る目で宙を睨む。
「君のいる劇団、劇場だ。劇団員の保護をしてやる。劇場も傷付けないよう手を回してやろう。俺が買い取って君に与えるでも良い」
「断る」
「ならば交渉決裂か。劇団員も劇場も全て消し去るしかないな」
さらりと言い切ったフィッツジェラルドに、クリスは黙って目を向ける。やはりこの男はクリスのことについて少しは調べたようだ。劇団に言及してくるとは。しかしその程度は想定済みである。
動揺の欠片もないクリスの反応に、フィッツジェラルドは予想外だと言わんばかりに目を丸くした。
「ふむ、駄目か」
「あれはただの一時的な居場所だ。場所なんて幾らでも作り直せる」
現に今までもそうしてきた。己が何者かを知られれば相手が誰であろうと殺し、追っ手が迫れば舞台を捨てて国を変えた。それに伴う犠牲など些細なものだ。人は死ぬ、その理由がクリスだっただけなのだから。
睨み付けるクリスにフィッツジェラルドは朗らかに笑む。
「そうかそうか。劇団は君には大した代物ではなかったか。では次の手だ」
「そこまでしてわたしを手元に戻したいのか」
フィッツジェラルドの声にクリスが割って入る。待ってましたとばかりにフィッツジェラルドは指を鳴らして片目を瞑った。
「無論だ、クリス。君の異能は素晴らしい。制限がないがためにどこまでも破壊し尽くせる。加えて君の歌声、そして演技力はあらゆる人間を操れる。何より俺が君のその魅力的な力に惹かれている。素晴らしいものは手元に残しておかねばな。いつ壊されてしまうかもわからん」
「断る」
明瞭な声が部屋の空気に切り込む。
クリスはかつての長を見た。彼はいつもそうだった。だからこそ、クリスは彼の元を離れた。
彼の〈本〉を求める理由、そしてその手段は利己的だ。舞台というクリスの夢は利益を生むためのものではない、けれど彼の傲慢さの下ではただの道具と化す。それを許してまで彼の元に留まろうとは思えなかった。
だから、離反した。
「わたしはもうここには戻らない。そう告げて君の隣を離れたはずだ」
「覚えている。そして俺も言ったはずだ。俺は君を諦めない、と。――話の続きだ」
その笑みに背筋が凍る。悪寒が肌を伝う。
フィッツジェラルドは言った。
「脚本と引き換えにこちら側につけ」
脚本。
「……詳しく話せ。訳がわからない」
声が震える。呼吸がうまくできない。
脚本。それが何を意味するのか、もうわかっている。
「強がるな。君の癖だな、恐怖に接すると体の震えが隠せなくなる。そういう時の君はその神がかった演技力がまるでなくなる。――脚本だ、クリス」
男が笑う。
「君があの劇場で友の名で発表してきた脚本の著作権を、俺は買い取る」
心臓が大きく跳ねる。背を冷たいものが駆け下る。
「……フィー」
やめて、やめてくれ。
唇が震えて、その一言が紡げない。
「演劇など俺の金で幾らでもできた。演劇がしたいからギルドを抜けるなどというのは表向きの理由だとすぐにわかる。俺と決裂したことも理由の一つだろうが、それらを足し合わせてもなお、君がギルドを抜ける理由としては弱い。何せ君は祖国から追われる者、権力と地位と資金のあるギルドだけが唯一の居場所なのだからな」
駄目だ。
あれだけは、駄目だ。
「全ての安寧を捨ててまでギルドを抜けた理由、それは君の最初の友人だ。君は常に彼のことを考えていた。ウィリアム……何だったか。君の劇団で数作品が彼の名で舞台化されている」
その名に息が詰まる。
「……ッ」
――クリス。
あの人が脳裏で微笑んでいる。
――僕はね、劇作家になりたかったんだ。
「憎き俺を亡き友人から引き剥がしたかったか? それは正しい判断だ。俺ならばあれほどの作品、全て金儲けに使うからな。だが何が悪い? 売れれば友の名が広まる。作品が世に残る。それを望んで、君は舞台に立っているのではないのか」
鼓動がうるさい。
「……どうして、それを」
この男は、どこまで知っている。
確かに、ギルドが唯一の居場所だった。国に追われ、誰にも身の内の機密を打ち明けられない中で、ギルドだけがクリスを庇い守った。抜ければ危機が迫ることもわかっていた。安寧を手放すことになるとわかっていた。だからフィッツジェラルドの横で、彼の作り出す世界を拳に爪を立てながら見つめていた。
けれどただ一つの事実を目の前にした瞬間、躊躇いなくクリスはギルドを抜けた。
その事実というのが、あの人――ウィリアムだった。ウィリアムの作品だった。金と傲慢にあの人の作品が利用される可能性を知って、ギルドを抜けざるを得なかった。
だってあの人は願っていたのだ。金も策略もない中で自分の作品を上演する無垢な未来を。自分の書いた作品をクリスが演じる夢を――死の間際まで。
だからギルドを抜けた。あの人の願いを叶えるために、ただそれだけのために。だってあの人は、初めての友達だったのだから。
――だってあの人は、わたしが殺したのだから。
「……どうして」
問いがあふれ出る。
どうして。ずっと隠してきたのに。この男に知られないように、誰にも悟られないように。様々なものを犠牲にしながら、痛みを堪えながら、あらゆる人を騙し、利用しながら、ずっと――ウィリアムの夢を叶えるために、一人で頑張ってきた。
何度も死にたいと願い、それでも生き延びるしかなくて、出会う全員に嘘の笑顔と信頼を向けながら。
泣くことさえせず、打ち明けることもなく。
耐えて、耐えて、耐えてきた。
なのに。
「どうして」
どうして、こんなにもあっけなく、奪われようとしているのか。
「随分と混乱しているようだな、クリス。君の望む答えはこうだ」
男が笑う。
「"俺がフィッツジェラルドだから"」
勝利を誇る哄笑を上げている。
「さあ、選べクリス。一時的な居場所でしかないこの街を壊滅させるか、何を捨ててでも残したかった友の名を俺の名に書き換えるか」
嫌だ。
そう答えたはずだった。けれど声は出なかった。
「選べ」
目の前で悪魔が笑っている。
嫌だ、と思う。もう奪われたくない。もう諦めたくない。今度こそ、全てが終わった後もう一度立ち寄れる――そして笑顔で出迎えてくれる誰かがいる、そう思いたい。
もう、わたしは。
裏切りも、失望も。
――したく、なかったのに。
「……ッ」
手からナイフが滑り落ちる。カラン、という乾いた落下音を聞く。
何かが、心の中から消えていく。