第2幕
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***
クリスは白鯨の中を歩いていた。その脳裏には痛々しいミッチェルの様子と、何かを欠落したホーソーンの姿がある。
ホーソーンが目覚めたと聞いて、彼の部屋の近くまで行った。本来下級の船員が立ち入れない区域だ、立ち入れば怪しまれる。けれど、行った。顔を見たかった。謝りたかった。謝って何になるわけでもない、それでも一言伝えたかった。
あの人には言えなかった一言を、ホーソーンには言いたかった。
壁に背を預け、胸を押さえる。苦しかった。どうしようもなかったのに、後悔に似た罪悪感がクリスを握りつぶそうとしてくる。
否、本当にどうしようもなかったのか。誰彼構わず彼らを救い出していたなら――しかしそれではこの立場に、探偵社の不利益をしない取引に反する。けれど立場など意志一つでひっくり返せる。
結局クリスは、己のことしか考えられない。
そういう人間だ。そうするしかない存在だ。そうしなければ、より多くの人を巻き込み殺すことになるのだから。大きな犠牲を防ぐための小さな犠牲、ホーソーンとミッチェルの負傷は必要なものだった。――この思考の何と汚らしいことか。
「おいチビ!」
ふと、船員仲間に呼び止められる。世話焼きで快活な子だ。クリスはここで休んでいたかのようにゆったりと壁から背を離し、伸びをしながら歩いてくる彼を見つめた。
「こんなところで何してんだよ」
「気晴らしだよ。船の中はどうも窮屈でさ」
さらりと答え、クリスはのんびり屋を表現するように大きく欠伸をしてみせる。けっ、と船員仲間はクリスを笑った。
「またサボリかよ。んなことより仕事だぜ? 通達来てねえの?」
「通達? どんな?」
「作戦開始だってよ」
――作戦開始。
何の。
言葉をなくすクリスに、「だから荷物の移動が必要で人手が足りねえんだ」と彼は言う。
「……それは知らなかったや。どんな作戦なの?」
「おいおい、ちゃんとしろや。よくわかんねえけど、緊急プランだってさ。連絡来てただろうが。メルヴィル様から聞いてねえの?」
そうなんだ、とクリスは引きつる頬で強引に笑顔を作る。
「……それは、まずいなあ……」
「そんなんだと怒られるぞ。まああのお方はそうそう怒らねえとは思うが、緊急ってことは切羽詰まってんだろ。一応謝っとけよ」
「うん、そうする。ありがと、わざわざ教えてくれて」
「普段からもっと感謝してくれて良いんだぜ?」
「んー、考えとくよ」
「考えるのかよ!」
「今は緊急だからねー」
んじゃ、と片手を振りつつ廊下を駆け出す。前を向いたクリスの顔に笑みはない。
――緊急プラン。
その名の通り、緊急時に選択される計画だ。そうであるはずだ。それを、あの船員はあらかじめ知っていた。他の船員もそうだろう。けれどクリスは知らなかった。
違和感。
急く気持ちを押さえながら通路を歩き、そして考える。
先日ポートマフィアの異能者を捕らえる予定だという話をメルヴィルから聞き、クリスはその情報を利用した。探偵社へそのことを報告し、そしてポートマフィアへも警告を出したのだ。結局その異能者はギルドに捕らえられたらしいが、その点は構わない。ギルドの手札が増えたことを探偵社に伝達し、ポートマフィアにはクリスへの警戒を強めさせることに成功している。これで探偵社は今後の行動を決定しやすくなっただろうし、クリスの行動がマフィアから安易に妨害されることもなくなるはず。捕らえられた異能者の詳細はわからないが、異能者一人を失ったところで傾くポートマフィアではないだろう。何もかもが順調に進んでいた。
進んでいたはずだった。
ではなぜ、「緊急プラン」についての詳細がクリスに伝わっていないのか。
「……まずいな」
メルヴィルの温厚な背を思い出す。クリスの「地上に降ろして欲しい」という頼みを聞き届けた時の顔を思い出す。何かを隠している様子はなかった。以前から見知っている相手の顔色を、その思考を読み間違えるはずがない。情報を隠されていたという可能性は著しく低いだろう。ということは、メルヴィル本人も緊急プランについて知らなかったということだ。
メルヴィルにすら秘匿されていたプラン。
――否。
思い至った可能性に足が止まりかける。
――もしかしたらギルドにクリスの潜入捜査がばれたのではないか?
あり得ないと思いたかった。けれど可能性を根拠なく否定することは重大なミスに繋がる。目を逸らすわけにはいかない。
人気の少なさを視認し、通路を駆け出す。急ぎ確認しなければ。今ならまだ間に合うはず、そのはずだ。
仮にギルドが何者かの潜入を察知したとして、一番にするのは潜入者の炙り出しだ。数多あるその方法の中の一つに「あえて情報を漏洩する」というものがある。疑わしい各人に別々の情報を渡し、実際に何が起こるかを見ることで情報漏洩先を探し出す――選択的な情報操作。
もしそれがされたのだとしたら。クリスによる情報漏洩を避けるためにメルヴィルへ緊急プランが告知されていなかったのだとしたら。
あの精神操作系異能者誘拐が、罠だっだとしたら――?
メルヴィルの部屋の前まで来、クリスは急く心を抑えてゆっくりと三回ノックした。メルヴィルの声がいつもより遅れて聞こえてくる。ドアノブを握ろうと手を伸ばし、そして。
指先がそれへ触れる前に、全身を何かが這い上がった。
「……ッ」
体が強張る。呼吸が詰まる。目の端が霞む。
震え。体の芯を上る冷気。揺らぎ均衡を失う視界。
知っている。
これは恐怖だ。この先に、恐怖がいる。開いてはいけない。
そう思う心とは別に、操られているかのようにクリスはドアノブを回す。ガチャリ、と扉が開く。開け放たれたその扉の先に見えたものは――椅子に座るメルヴィルと、もう一人。
「やあ、美しくなったな、マイ・スウィート・レディ」
両手を広げて待ち構えた、フィッツジェラルドだった。