第2幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
[Act 2, Scene 15]
整然とした飛行船の中を、ホーソーンは歩いていた。ポートマフィアの黒衣の異能者との交戦により数日間眠り続けていたらしく、体は筋力を失っている。怪我も治りきっておらず一歩一歩が重い。それでもホーソーンは歩いていた。行き先はない。ただ、そうして逃避行動を取っているという実感が欲しかった。
白い壁、白い床。美しさを体現した白鯨の中は清潔さすらある。しかし実際にあるのは清さとは真逆の、金という名の汚泥だ。それに縋らざるを得ない人間を取り込み、纏わり付き、縛め、戦地へ捨て置く。
ホーソーンは壁に背を預けて項垂れた。ゆっくりと、息を吐く。
「……なぜ」
目覚めて真っ先に思い出したのは、己を庇って黒い獣の牙に食われた女性の姿だった。体に回された腕、流血の止まらない背中、そこに牙を立てた黒い獣。骨が砕かれる音、宙をそよぐ赤く濡れたドレスの裾。
額に手を当てる。包帯の下で傷が疼いた。
ミッチェルが自分を庇った。そして自分は助かり、彼女は意識不明の重傷を負った。
これが神の示した結末か。
「なぜ……」
なぜと問うても答えてくれる人はいない。ならば自分がすべき事は、彼女が為し得なかった目的を代わりに為すことだ。
すなわち、彼女の名誉を取り戻すこと。
ホーソーンは背中を壁に沿わせながら床に座り込んだ。まだ身体中が痛い。この身体が動けるようになったら彼女を救う方法を探そう。ここは駄目だ。フィッツジェラルドは金のことしかわからない、フィッツジェラルドの下では何もできはしない。彼はミッチェルが金に頼らざるを得ないと知った上で、彼女をこの戦争に引きずり出したのだから。
「寝ていなくて良いの?」
ふと、誰かが歩み寄って来る気配。先程部屋に置いてきたフィッツジェラルドではない。女性の声だが、オルコットでもなかった。聞き覚えのあるような、ないような、頭のどこかに埋もれた記憶が引っ掻き回されるような感覚。
ホーソーンは顔を上げた。
少女がいた。亜麻色の髪は肩程。背は低くなく、しかし幼さのある顔立ちは彼女を年相応に見せている。
その目の色は、緑を含む青。
昔、その色を持つ幼子に神とは何かを教えたことがある。しかし彼女がここにいるわけがなかった。
「久し振りだね、ホーソーン」
少女はどこか寂しげに笑った。
「良かった、目が覚めたんだ」
「……クリス、ですか」
三年程前、フィッツジェラルドが自らの手で壊滅した組織から連れてきた子だ。諜報と暗殺を主に行っていた組織で、ギルドとも関わりがあった。しかしギルドの財産を横流ししたという疑惑が浮上し構成員は皆殺しにされた。その生き残りがクリスだった。
しかし、とホーソーンは目の前にいる少女を見つめる。本当にあの子なのだろうか。穏やかなその表情はかなり大人びていて、ホーソーンの知る彼女ならば決して見せなかったであろう微笑みを浮かべている。
クリスは当初人形のような子だった。齢は十を超えた頃だというのに、その子は青い目を伏せて窓から外を眺めるばかりだったのだ。その無表情、無感情はしばらくしてましにはなったが、彼女の満面の笑顔を見ることは最後まで叶わなかった。
その彼女と同じ目をした女性が、ホーソーンの名を呼び、ホーソーンに微笑んでいる。
白昼夢だろうか。
「……ギルドに戻ってきたのですか」
「違うよ。潜入してるんだ」
静かな声でクリスは言う。その衣服は確かに船員が身に着けるものだった。
「今のわたしはギルドの敵だから」
そうか、敵か。
けれどホーソーンの心に敵意は湧かない。
「……それで、良いのですよ」
それで正しいのだ。彼女は演劇をするという夢を追って自らギルドという船を降りた、そう聞いている。彼女は仕方なしにギルドにいただけの子だった。この場所のような金と権力に汚れた場所より、もっと相応しい場所が彼女にはあるはずなのだ。
「ミッチェルはまだ目覚めないみたい」
クリスは目を伏せる。
「ごめんね」
「なぜあなたが謝るのですか」
「わたし、見てたから。ホーソーンとミッチェルのいる船に忍び込んでたんだよ。芥川さんがホーソーンとミッチェルを殺そうとしていたのも、全部見てた」
「……そうでしたか」
彼女が敵ならば、自分達を見殺しにするのは当然のことだろう。それに一抹の寂しさもあり、怒りもあり、空しさもあった。しかしそれらは胸の内に掻き消える。
ホーソーンが何かを口に出す前に、彼女が言ったからだ。
「わたしを恨む?」
少女は静かな声音で微笑んだ。ホーソーンは黙って床を見つめる。
恨む、か。確かに恨むだろう。彼女の力があればミッチェルは無事だった。しかしそれをクリスに求めるのは間違いだ。これはギルドの問題なのだから。
――彼女はもう、仲間ではないのだから。
ホーソーンは青の目の少女から目を逸らす。結局、何も答えられなかった。けれどそんなホーソーンに何を言うわけでもなく、クリスはにっこりと笑う。
明るい笑顔だった。
「ちょっと顔を見たかっただけ。それじゃあ、ね」
少女が踵を返す。足音もなく遠のく背中は、記憶にあるものよりも成長していて。
けれど。
「……あなたは」
ホーソーンは呟きかけ、そして口を噤む。
彼女は今、一人ぼっちなのだ。
かつての――フィッツジェラルドに居場所を奪われた幼子のように。