第2幕
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***
クリスは久し振りに地上へ降りていた。白鯨は大きいため揺れをほとんど感じないが、しかし大地とは違う。揺れの一つもない、厚さを感じる地面に戸惑いつつも懐かしさを覚えつつ、クリスは人気のない小さな公園を歩いていた。
遊具の多くはビニールテープで囲まれ、使用禁止となっている。相当古いのかほとんどが錆び付いていた。しかし遊具に用はない。メルヴィルに頼んで一時的に地上へ降りてきた目的は、この公園の端にあった。
砂場の横を通り過ぎ、手入れのされていない大木の下に隠れている四角柱の構造物へと歩み寄る。公衆電話だ。受話器を取り、番号をプッシュする。あらかじめ調べておいたその番号は、数秒の空白をおいて呼び出し音を鳴らし始めた。
『――はい?』
中年を思わせる男性の声が電話口から聞こえてくる。
「お久しぶりです」
『はて……どちら様かな?』
「直接お会いしたのはギルドの赤毛の少女に襲撃された時でしょうか。あの後ご挨拶に伺おうと後を追いかけたのですが、入れ違いになってしまったようで」
『……ああ、あのネズミ君か』
穏やかな男性の声はしかし、些か低くなる。
「このような形でご挨拶をする無礼をお許し下さい、森鴎外さん。――クリス・マーロウと申します」
『どうしてこの番号を知っているのかね?』
「少々腕に自信がありまして」
あの日、森を追った先にいた異能者、中原中也。異能で彼から視界を奪い取った際、隙の出来た彼の懐から連絡用端末を盗み出し中身を見させてもらった。記憶力には自信がある、一瞥すれば数字の羅列程度は覚えられた。あの後端末は彼のそばに置いて立ち去ったため、それを一時的に盗まれたことに彼は気付いていないはずだ。
クリスの答えに森は納得したようだった。短く笑みを零し、それで、と続きを促してくる。
『今この状況でこちらに連絡を取ってきた理由を聞こう。……と言いたいところだが、そちらの立場を教えてもらえるかね? なにぶん、君の情報はなかなか入手しづらくてね』
「今は探偵社の雇われ犬です」
『今は、か……なるほど了解した。用件は?』
「そちらの構成員がギルドに狙われています」
クリスの単刀直入な話に森は黙する。クリスは続けた。
「そちらに精神操作の異能力者がいらっしゃいますね?」
『……なぜそう思うのかな?』
「詳細を語る時間はありません。ギルドがその人を狙っています。急ぎ連絡して」
『その必要はない』
「そちらにも作戦があること、十分承知しています。その者を使う算段でしょうが、事態はもっと差し迫っていて」
『その必要はない』
繰り返された拒絶にクリスは背筋が凍り付く。今、この人は何を考えているのか。クリスの話を疑っているという風ではない。他のことを考えている。もっと効率的で、残虐的な、ネズミ取り――。
この場を早く立ち去らなければという直感がクリスを急く。
「……警告はしました。後で後悔されませんよう」
言い切り受話器を置こうと耳を離す。その耳に冷徹な声が届く。
『君は警戒心が相当強いらしい。そして戦い慣れている。――しかし不十分だ、君は重要なことを忘れている』
それは。
『我々ポートマフィアの敵は、ギルドだけではないのだよ』
コトン、とクリスの足元に何かが転がってくる。それを見、クリスは瞠目した。
檸檬だ。それも、安全ピンの外された。
「……ッ!」
防御壁の生成は間に合わない。驚愕に身が硬直したクリスの眼前で檸檬型のそれは内側から膨張し、外皮を破り、光と炎を爆音と共に爆発させる。
轟音。
爆風が熱と共にクリスを公衆電話の壁へ叩き付ける。ガラスというガラスが吹き飛び、クリスもろとも宙へと吹き飛ばす。
「く……!」
地面に叩き付けられる前にクリスは風を呼んだ。すんでのところで地面とクリスの間に空気の厚い層が生じ、衝撃を和らげる。しかし熱とガラス片は防げなかった。踏み固められた公園の地面の上を数回転した後、クリスは地面へしがみついて全身を走る痛みに息を詰める。表皮が裂かれ、血が服を汚していた。火傷による擦れるような痛みもある。骨と筋に損傷はないようだが、それでも周囲への意識が削られるほどに痛みが酷いことには変わりない。
煤けた臭いが熱と共に漂ってくる。突然の爆発に周辺地域の住民達が集まり、遠巻きにこちらを眺めてくる。
「おやあ?」
嘲笑と陽気さを含んだ声が聞こえてきた。痛みに揺らぐ眼前に、下駄が映り込む。
「まだ生きてる。ネズミにしてはしぶといねえ、これは興味深い」
全身の痛みを無視し、クリスは腕に力を込めた。体を起こし、その人影を睨み付ける。彼は白衣に似た服を纏っていた。しかしその表情は理知とは正反対に笑みを含み、怪我を負っているクリスを平然と見下ろしている。
「……梶井、基次郎」
「おお、当たり、大当たり! あれ、君と会ったことあるっけ?」
「ない。……なくても、君は有名だ」
「そうだろうねえ、何たって僕は世界の真理の探求者なのだから!」
両手を掲げながらくるりと一回転し、梶井は歓喜を示した。なるほど、とクリスはその様子を睥睨する。
「……君が、森さんからの刺客か」
「そゆこと。我らが宇宙大元帥は君のような存在を疎ましがっていてねえ。ネズミならばネズミらしく、実験体として活用させてもらおうというわけ」
「……実験」
「とはいえまだテーマが決まってない。何せたった今連絡が来たわけで、実験器具も実験計画も何もなし。取りあえずこれだけ持ってきた」
言い、手にしたのは檸檬――否、檸檬の形をした爆弾だ。ギルドの豪華客船を沈めた、原因。
「じゃあ……簡単な、話だ」
クリスは立ち上がった。ゆらりと傾ぐ視界と全身をどうにか立て、梶井へと対峙する。
「それでわたしを殺すことができるか。……それをテーマにすれば良い」
「ほう?」
クリスの申し出に梶井は首をかしげた。けれど納得したのか、その口元に豪快な笑みを乗せる。
「ほう、ほう! それはなかなかの提案! 我が檸檬型爆弾で小さなネズミ殿にいかな死が生じされ得るか! 圧死か焼死かはたまた窒息死か……小さき者にどの死が真っ先に訪れるかという確率算出とは不覚にも盲点!」
「……死ぬ前提になってるけど、まあ良いや」
「では早速!」
言うや否や梶井が手にしていた爆弾を放り投げた。それはクリスの元へと真っ直ぐに飛んでくる。ち、と舌打ちしクリスは地面を転がった。頭上で檸檬が爆発し、爆風がクリスを圧する。それを防御壁で防いだ。次々と飛んでくる檸檬を回避し、防御壁を張り、それを繰り返す。
「うはははははは!」
梶井が爆風を纏いながら笑い声を上げる。後方で公園内の木が傾ぎ、そしてゆっくりと倒れていく。野次馬から悲鳴が上がる。このままではいつか住宅街へも影響が出るだろう。集まってきている人々が怪我をするかもしれない。
けれど、とクリスは梶井から目を離さない。
それが、何だ。ここで他の誰かが死んだところで、クリスに何の関わりがある。
そうだ、何の関係もない。誰がどれほど死んだところで、何も。
何も。
「……悪いね、梶井さん」
防御壁の下で呟く。
「わたしはもう、実験体にはなれないんだ」
爆風が吹きすさぶ。煤けた臭いが漂う。その中で、檸檬が三個、頭上に飛んでくる。それをそのまま睨み上げた。
「【テンペスト】」
名を呼ぶ。
檸檬の皮に亀裂が入り、内側から赤い熱が膨れ上がろうとする。しかしそれ以上の変化はなかった。宙に浮いたまま、三個の檸檬はそれぞれ熱を内包した状態を保つ――否、保たざるを得なかった。その紡錘形の内側からあふれ出ようとしている暴力が、外側から押さえ込まれている。
その周囲に風が生じる。ただの風ではない、吸い寄せ、引き寄せる風だ。周囲から全てを集めるかのように檸檬へと風が集まっていく。
「何……!」
「運が悪かったね」
梶井が驚愕の顔をそのまま向けてくる。それへと、クリスは微かに微笑んでみせた。
「君が世界の真理の探求者なら、わたしは世界の真理の破壊者だ」
「まさかこれは……そうか、お前の異能は……!」
梶井が呻く。
「空気圧操作……! 空気圧を操作し気温を調整して氷を、空気圧の差を局所的に生じさせて風を生成……そして今のこれは……!」
「解説をありがとう」
檸檬が凝縮していく。それは紡錘形を崩し、圧縮され小さくなっていく。熱もまた集まり、宙に一点の赤を生み出す。熱の圧縮、強引に押さえ込まれた爆発力――高まる閉鎖空間内の圧力。
これから何が起こるかを予期した梶井は顔を強張らせた。
「ま、待て、ここでそれをすれば……!」
「興味がない」
クリスは断じた。
「場を逃れるためなら、わたしは何だってする」
そしてクリスは異能を解除した。檸檬を包んでいた圧力が消え、風が消え、そしてそれを掻き消すように一点の赤がみるまに膨張。改めて爆発を許された檸檬型爆弾は、従来よりも大きな圧力変化によってその威力を増大させる。
光、熱、爆風。それらは梶井だけではなく周囲を巻き込み、轟音と共に一帯を吹き飛ばした。