第2幕
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***
白鯨の中は騒然としていた。ギルドのボスが帰還したのだ。いつの間に外に出ていたのやら、と思いながらクリスは掃除をする手を止めない。
「ボスってさ、すっげー金持ちなんだよな」
一緒に壁を磨いていた船員仲間の一人がふと零す。
「いつか俺達もああなれるかなあ」
「無理だろ、あの人は権力もあるんだぞ」
小太りの少年が口を挟む。北方の出なのか訛りが強い英語だ。
「たくさんの会社を持ってるし、頭も良い。あんなに完璧な人間がこの世にいて良いのかって気がするよ」
「特別感があるよな」
「なあチビ、お前はどう思うよ」
「うん?」
突然話がこちらに飛んでくる。嫌だなあと思いつつもきょとんとした顔でクリスは彼らに答えた。
「何?」
「聞いてなかったのかよ?」
「うーん、お腹が空いてきちゃって集中力が途切れてるんだよね」
「お前見た目によらず良く食うのに、また腹減ったのかよ……」
呆れられてしまった。ちなみに空腹は嘘だ。幼少期の実験の影響で内臓器官の多くが機能不全であるクリスは、空腹になることも満腹になることもない。食事は趣味でしかなかった。
ただ、美味しい食事は楽しい。それは事実だ。
「お前の腹の話なんかどうでも良いんだよ。お前はボスのことどう思うよ?」
「どうって?」
「格好良いとか、憧れるとか、何かしら思うだろ? 力ある者ってだけで人はその人に集まっていくし」
「……そうだなあ」
フィッツジェラルド。
彼のことをどう思うかと問われた時、いつも答えている一言がある。
「厄介かなあ」
「は?」
「だって、何でもお金だし、脳内は儲け話しか受け付けないし、結局結論は金だし、話していて疲れる……疲れそうだよね。ほら、僕田舎生まれの貧乏人だし?」
「あーまあ、価値観は違うだろうなあ」
納得してくれたらしい。良かった。危うくただの悪口になるところだった。安堵も苦笑も押し隠し、クリスはこびりついた汚れをこすり取る。
――背後に気配を感じたのは一瞬だ。
しかしクリスはその一瞬を逃さなかった。
「あ」
「どうしたよ?」
「トイレ行ってくる」
「おお。さぼるなよ?」
「十分くらいしたら戻ってくるよ」
「完全にさぼりじゃねえか!」
ぎゃんと犬のように吠える同僚へひらひらと手を振り、クリスはその場を離れた――と見せかけて廊下の物陰に身を潜める。
奴の気配がした。
「うむ、今日も素晴らしく美しいな、ここは」
高慢な響きのある声。フィッツジェラルドだ。昔見た姿と大して変わりない背中がメルヴィルを従えて通り過ぎていくのを見つめる。その手に人が抱えられていた。気を失っているらしいその姿に瞠目する。
敦だ。
「……ッ」
声が出そうになるのを両手で押さえ込む。潜むクリスに気付くことなく、二人はそのまま通路の向こうへと向かっていった。その背を見つつ、クリスは目の前の事実を把握する。
フィッツジェラルドが街から虎の異能者を奪取した。それが示すことは、一つ。
――奴はあの街をどうとでもできる。
〈本〉はいかなる異能力にも戦渦にも耐え得る。つまり、あの街を焼き尽くすことすらフィッツジェラルドにはできるのだ。長引いている戦争を強引に終わらせにきたらしい。
確かに、探偵社やポートマフィアに比べてギルドは主力戦闘員の脱落数が多い。治癒能力者の与謝野がいる探偵社、構成員数が多く代わりの効くポートマフィア、二つの組織と比較したなら遠征しに来ているギルドにとって戦闘要員の欠如は大きな問題だ。ましてやあの、己の手元のものは部下であれ丁重に扱うフィッツジェラルドの性格である、黙って戦場を眺めているわけもなかったか。
となると次点は街そのものへの攻撃。もしかしたら街を破壊するつもりか。
「……さすがにそれはまずいな」
角を曲がり視界から消えた背中を見つめ、クリスは思案する。
「なら、こちらも手を打たないと」
一番にすべきことはフィッツジェラルドが考えている作戦の詳細を掴み、探偵社に伝えることだろう。しかしそれは言うほど簡単ではない。作戦というものは機密性の高い情報だ、船員に化けている諜報員が手に入れられるものではない。最も良い方法は彼らの仲間として正式に協力してみせる、つまり裏切りを前提とした参加だが、クリスがフィッツジェラルド相手にその方法を取れるわけもなかった。
やはり作戦参謀であるオルコットやフィッツジェラルドの部屋に忍び入るのが適切か。
そして、とクリスは手持ちの荷物を思い出す。
「……毒でも仕込むか」
ここ数日白鯨の中で生活してきたが、見たところ街一つを燃やし尽くすような武器は装備されていない。異能力を主軸に戦いを進める予定だったことは明白、しかし今回の遠征に同行したメンバーに街を焼却できるような異能力を所持している人はいなかった。射撃の名手であるトウェインがいるが、爆撃攻撃という手法を取るとは考えにくい。いずれこの街もろとも入手するつもりならば、街の人々に反感を抱かれるような行動は取らないはずだからだ。おそらくギルドが直接手を下したと知られないような方法を選ぶ。
その方法は全く思いつかなかった。だが、確実に言えることは、フィッツジェラルドが作戦開始の指示を出すということ。
つまり、奴を潰せばギルドは統率を失う。組織を潰すにはまず組織の長からだ。
物陰から出、クリスは口元に手を当てた。
「……遅効性よりは即効性だな。助けを求めづらい夜が良い。食品に忍ばせるのでは料理長に見破られる可能性がある。直接差し入れと偽って菓子か飲み物を持っていくのが一番かな。とすると誰かを懐柔しないといけない……いや、もしかしてフィーなら机の上に置いておけば勝手に食べてくれる気がしなくもないな? それが一番楽だけど」
実際フィッツジェラルドはそういうことには聡い人間なので、きっと見破られるのだろうが。我ながら楽観的な発想である。
「あ、なんか考えるの面倒になってきた。もはや毒も面倒だな、いっそ暗殺するか。それが一番楽な気がしてきた」
「いたいた、おいチビ!」
短絡的な考えになってきたクリスの思考に乱入してきたのは声だ。たた、と駆け寄ってきたのは、フィッツジェラルドを尊敬しているかのように話していた船員仲間。もしかしたら使えるかもしれない、などと思いつつもからりと表情を変え、クリスはのほほんと笑ってみせる。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃねえよ。サボりやがって。トイレはあっちだろうが」
「散歩だよ散歩。ここ、閉鎖的なんだもの。たまには気分転換しないと息が詰まって死んじゃいそう」
「言いたいことはわかるけど気分転換しかしてないような奴が言うセリフじゃねえよ。ほら、こっち来い!」
ぐい、と腕を掴まれる。
「……ッ」
伝わってくる体温にぞくりと背が凍る。咄嗟にそれを振りほどいた。
驚いたようにこちらを見る船員仲間に、クリスは何事もなかったかのように腕を軽く振ってみせる。そうしないと震えを見られてしまいそうだった。
「いやあ、襲われるかと思って、つい」
「誰が襲うかッ! とっとと行くぞ!」
「ほいほい」
「巫山戯た返事すんじゃねえ!」
「ほーい」
「てめえはッ!」
掴みかかろうとしてくる腕をしゃがんで躱し、横を通り過ぎて背中を取る。軽やかな動きは無意識のものだった。まずかったかな、とクリスは相手の様子を伺う。
一介の船員ができるような身のこなしではなかった。腕を掴まれた時の動揺がまだ残っていたか。
「あ、鬼ごっこ? 良いね、じゃあ君が鬼ね」
「違えわ!」
おどけてみせると、クリスの動作の異常さに気付くことなく船員仲間は苛立ちを込めて拳を振り回した。上手く誤魔化せたか。
安堵しつつ、クリスはくるりと身を翻して駆け出す。ちらりと背後を見、軽く手を叩いた
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
「チビ! てめえッ!」
クリスのからかいに乗って船員仲間が追いかけてくる。彼とはすぐに打ち解けられそうだ。操作するのも簡単だろう。
はしゃぐように声を上げて、クリスは改めて白鯨の通路を走り始めた。