第2幕
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[Act 2, Scene 14]
国木田は一人晩香堂の隅の壁に背を預けていた。
太宰と敦は異能特務課と交渉に行った。奴がなぜ異能特務課のエージェントと交渉の場を持てる身なのかはわからないが、社長のお力だろうと自分で結論づけている。オフェンス勢と谷崎は前方の方でわいわいと乱歩の暇つぶしに付き合っており、先程まではその様子を眺めていたが、やはり落ち着かなくなって距離を置いた。
一人で考えたいことがあった。
とある少女のことだ。
「……俺は、どうすれば良い」
「悩んでいるか」
落ち着いた低い声に自然と背が伸びる。国木田が立つそばの席に福沢が座った。全く気配に気付かなかった。それは福沢の優しさか、己の怠慢か。後者だろう、と結論付け、国木田は姿勢を正したまま直立する。
「ここへ」
そんな国木田に福沢は隣の机を指す。少し躊躇い、国木田は「失礼します」とそこへ座った。
「……面目ありません。このように心乱れている様子を気に掛けていただくなど」
「良い。人は誰しも悩み迷うもの。必要な経緯だ」
普段は身も竦むような恐怖すら感じる眼光が、今は穏やかだ。相当自分の心が参っているからそう見えるのだろうか。頭を軽く振る。探偵社の社員たる自分が戦時下にこのような弱さを抱え込むなど、許されるわけもなかった。
「いえ、不必要なものです。俺は……もっとしっかりとしなければ」
「気負うな。……あの娘のことと察する。心配か」
「いえ、心配というよりは……困惑かと」
「困惑か」
促すような聞き返しに頷く。
「……彼女のことを知らなすぎます。クリスが何を望み、何のために戦争に参加し、何を思って探偵社の一員として諜報活動をしているのか……俺には理解できていません」
それが理解できたのなら、彼女のことがわかる気がするのだ。裏切るつもりなのか、本当に探偵社のために動いているのか。それだけではない。彼女の心の内に潜む悲しみに似た何かへ、声をかけてやれる気がするのだ。
太宰が入社してきた時はその桁外れの頭脳が生かせる程度に、横で手綱を制御してやれば良いのだと思った。
谷崎と会った時は芯のない柔和さの奥に潜む器用さを引き出すために、きちんとした知識と技術を教えれば良いのだと思った。
賢治が来た時はその疑心を持たない類稀な純真さを武器に変えるために、常識を詰め込んでやれば良いのだと思った。
敦が転がり込んできた時は奴の持ち込むポートマフィア関係の事件に手を焼いたものの、僅かに言葉をかけ手を貸してやればすんなりと彼は成長した。
鏡花に関しては未だに緊張が拭えないが、安心できる場所を与えてやれば彼女はきっと敦と共に確固たる一歩を己の足で歩めるようになるだろうと察しが付く。
しかしクリスはどうだ。
わからないのだと彼女は言っていた。国木田が他人を救う意味が、そうまでする理由が、わからないのだと。どうして相手を選ばないのかと――どうして自分を気にかけるのだと、泣き叫ぶかのように問い詰めてきた。まるで親切を知らないかのように、優しさを知らないかのように、その裏には必ず利益が隠されているべきだと思っているかのように――否、少し違うか。
――何かを成し遂げたいというのなら何かを捨てなければいけないんです、そういうものなんです。
知っているのだ。彼女は本当の親切というものを、本当の優しさというものを知っている。元より彼女は優しい子だ。国木田に警告し、訴え、それでいて手当を施し面倒を見る。彼女は優しさを知っている。知っていて、それを諦めている。
だから国木田は言った。クリスを選んで手を差し伸べたのではなく、助け出そうとしたところにいたのがクリスだっただけだと。目の前の命を何としてでも全て救うのが国木田の理想でありすべきことなのだと。利用や利益とは関係のない親切が、正義が、あなたの周囲にはまだ存在するのだと。それでも彼女は国木田の信念を疑ってくる。なぜ他者のために己の身を投げ出すのかとそれでも問うてくる。
国木田の心は彼女に届かない。
これ以上どうすれば良いのかわからないまま、クリスは国木田の手も声も届かない場所へ行ってしまった。
「人と人がわかり合うには時間がかかる」
どこか遠くを見ながら福沢は言う。
「相手がとてつもなく大きな宿命を背負っているのなら、尚更――理解するまでが為しがたく、受け入れるまでが苦しく、その宿命を受け入れたと伝えるまでが辛い」
福沢の横顔を見つめる。誰のことを思い出しているのだろうか、焦点のぼんやりとしたその眼差しの先にはじゃれあう社員達がいるだけだ。今はパソコンに内臓されているパズルゲームをしているらしい。
「あのような者達は総じて己をないがしろにする。己の未熟さを知らず、己の才にしか頼れず、己一人で全てを解決しようとする」
乱歩が何かを達成したのか勢いよく両手を振り上げて喜びを示した。こうして見ると彼は幼児のようだ。が、その実は世界が誇る天才的な名探偵である。
しかし、と国木田は不思議に思ったことがある。
彼はいつ、己を名探偵と名乗るようになったのだろう。そもそも彼の推理力はいつから開花し、彼はいつそれを自覚したのだろう。
「国木田」
「はい」
厳かな声が国木田を呼ぶ。身が震える。心地良い緊張感が国木田の背を走る。
「人と人とがわかり合うには時間が必要になる。十分に考え、そして正面から向き合えば、自ずと方法は見えてくる」
これは助言か。
「困難に屈するな。屈した瞬間、あの娘は再び孤独に呑まれる」
再び。
再びとは、何だ。
問うまでもない。彼女は――常に、今も、孤独だ。
「……十分に励め」
言葉少なに言い、福沢は席を立った。急いで立ち上がる国木田に背を向け、その堂々とした人はじゃれ合う社員らの元へと歩いていく。その背中を、いつまでも見つめる。
「……はい」
一人、その背に頭を下げた。