第2幕
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スタインベックらが移動する前に軍警が現場に到着し、彼らを取り押さえることに成功した。トラックの衝突時に紛れて姿を隠した国木田と谷崎は、サイレンの音が遠ざかるのを聞きながら近くの木々の中に身を潜め、体を休ませている。
「二人とも連行されました」
淡々と事態を説明する声に、国木田は顔を上げた。黒いフードが外され、その下から亜麻色の髪が現れる。それを悠然と晒しながら国木田達へと歩み寄り、彼女は黒い革手袋を手から外した。
いつもとは異なる黒い外套姿は、彼女の異質さを国木田に見せつけていた。顔を隠すような深いフード、その内に何かを潜ませているであろう丈の長い外套、底の厚いブーツ、何よりその冷静な出で立ち。国木田達よりも夜に慣れているその風貌に、国木田は彼女の実力を見る。
そう――クリスはただの市民ではないのだ。
「福沢さんに連絡を取りました。太宰さん達が事務員保護完了次第こちらに来ます」
「……なぜ、あなたがここに」
国木田は自分の声が固いことに気が付いていた。彼女への疑念が再び胸にあふれ返っている。
自分は彼女に何を話しただろう。彼女にどれほど親しくしていただろう。自分の愚鈍さに、彼女への消えない疑念に、それでも彼女を信じたい希望に、国木田は唇を噛み締め彼女から目を背ける。
クリスと初めて会った時、育ちの良いお嬢さんだと思った。彼女が誘拐事件に巻き込まれた時、銃を向けられながらも毅然としていた様子を覚えている。舞台に立つ彼女の姿に、どれほど驚愕し感嘆し、魅了されたことか。
しかし彼女は家族がおらず、探偵者と劇団以外に親しい関係を持たない。油断すれば男に襲われ、それでも彼女は笑っていた。その笑みに惹かれ、そしてその孤独に心を寄せた。少しでも彼女を救えたらと思っていた。
一般市民としての彼女を。守るべき対象としての彼女を。
そんな少女をどうして疑おうなどと思えるだろう。しかし疑うべきだったのだ。国木田に親しげに接してくれた時から、彼女は探偵社を狙っていたかもしれないのだから。
彼女が諜報員である以上、彼女が探偵社の味方である根拠はない。
国木田の葛藤を知ってか知らずか、クリスは平然と国木田を見下ろした。少し躊躇った後、口を開く。
「……ラヴクラフトは敵に回すと厄介ですから。どんなに八つ裂きにしても潰しても、しばらくすれば元に戻る。虎の異能力など比べものにならないくらいの再生能力があります。それをあなた方二人が相手にすると聞いて、飛んできました」
「……ナオミは」
げほ、と咳き込みながら谷崎が口を開く。これにもクリスは平然と答えた。
「無事です。春野さんと共に汽車に飛び乗りました。後は太宰さんと敦さんに任せておいて大丈夫でしょう」
「よかっ、た……」
ずる、と谷崎が木にもたれかかる。その隣へ跪き、クリスは「失礼します」と谷崎へ手を伸ばす。躊躇いのない動きで彼女の手は谷崎の服を捲り上げた。ひゃ、と谷崎が悲鳴を上げる。
「な、ななな、何をするんですかッ!」
「手当ですよ。暴れないで。……内臓に損傷、肋骨も折れてますね。腕は? 折れてはいませんが筋を痛めましたか、動かさない方が良いでしょう。口内を見せてください」
谷崎の反応などお構いなしにクリスはてきぱきと谷崎の体を触診する。そして、ウエストポーチから次々と脱脂綿やら包帯やらを取り出した。見た目に反して容量の大きい鞄らしい。
「ここを押さえていてください。あまり身じろぎもしないこと。横になりたかったら言ってください、適切な体勢にしますから。……国木田さんも体を見せてください」
クリスが国木田の服に手を伸ばす。思わずその手を掴んで自身に触れるのを防いだ。ビク、と彼女の体が揺れる。国木田の手が彼女の震えを捉える。
目を見開いた直後、彼女は強引に国木田の手を振りほどいた。
「触らないで」
普段の彼女からは想像もできないような強い口調。やはり彼女は国木田の知る純粋無垢な少女ではない。呆然と手を下ろした国木田に彼女は冷たく言い放つ。
「黙って治療されてください」
「……いや、俺は問題ない」
「馬鹿言わないで。肋骨が刺さって痛いくせに」
彼女の青の目が国木田を睨みつける。その激しい眼差しに一瞬怯みかけ、しかし国木田は彼女の視線を受け止める。
ここで怯むわけにはいかない。今の心境では、彼女に何も委ねられなかった。
「拠点に戻れば与謝野先生がいる。今処置をしなくとも、いずれ完全に回復」
言い切ることはできなかった。
小気味良い音が森に響く。眼鏡が地面に転がる。しばらくして頰が熱を持つ。クリスに叩かれたのだと、ようやく気が付いた。
「――ふざけるな!」
国木田の手を振り払いクリスが国木田に摑みかかる。ギシリと骨が軋んだ。痛みに息を詰める。
「与謝野さんを、自分の命を蔑ろにする口実にするな!」
国木田を睨み上げたクリスが、怒りを真正面からぶつけてくる。
「なぜラヴクラフトから逃げなかった! 逃げろと伝えたはずだ! 自分を過信したか? 与謝野さんがいるから死ななければ良いと思ったか? 死を軽んじるな! 死を軽んじる奴が、死から逃れられるものか! どうしてあなたはいつも、そうやって……!」
激昂を宿す青の目が苦しげに歪められている。その眼差しに、国木田は何も言えなかった。
それは、怒りだった。いつも隣で微笑んでいた少女の放った、激情だった。その激しさに国木田は呼吸を止める。衝撃が身を打つ。
この言葉は、演技ではない。本心だ。彼女の偽りない本当の心だ。国木田を「わからない」と称した少女の、本音だ。
――昨日までの彼女が宿していた優しさと、寂しさと、虚無と、同じものだ。
彼女の視線が逸らされるまで、国木田は彼女から目を離すことができなかった。
「……すみません、怪我人を叩いてしまって」
国木田から幾分目を逸らしたまま、クリスの手が国木田の襟元から離れる。そして赤くなった頰に伸ばされた。微かに震えたそれは、冷たかった。
「どうして……いつもそうなんですか。あなたが身を投げ出して誰かを救ったところで、あなたが生きていなければ……生き残るべきなのは助けが必要な弱い人間ではなくて、あなたのように他人を守れるほどの強さのある人間でしょう? どうしてそうやって、誰かのために自ら飛び込んでいくんですか。わざわざ死にに行くようなことをするんですか」
「……それが、俺の成すべきことだからだ」
そっと彼女の手を自身の頰に押し付ける。微かに彼女は震えたものの、振り払われることはなかった。冷たさが心地良い。
ゆっくりと頭が冷えてくる。
「俺達はそのために探偵社という場所で社員をしている。……この戦争は、その探偵社の行く末を決める重要な局面だ。だからこそ俺達は自らの命を賭して戦いに挑まなければならん。民を救う会社として存続するために。しかし……あなたの言う通り、過信していたのかもしれんな」
与謝野がいる。その事実は探偵社員の心を支えた。しかしその事実に、与謝野という存在に、寄りかかりすぎていた点も否めない。だが先程の戦闘に関して悔いがないのも確かだ。自分達は事務員を逃すために最適な選択をしたと、国木田は言い切れる。
自らを敵の目に晒し注意をこちらに向けることでしか、軍警と連携して彼らを捕らえる方法でしか、事務員を逃がし彼らを捕らえる方法が思いつかなかった。クリスの疑問ももっともだ。国木田はいつも、己の身を投げ出してしか誰かを救うことができない不器用な人間なのだから。
けれどこれが国木田だ。己だ。
「……わかりきったようなことを言いました」
静かな声でクリスが呟く。
「あなた方の仕事は、こういうものだから……親しくしてくれる全てを裏切って生き続けてきたわたしが口出しできるわけもなかった。結局わたしは……誰の味方にもなれないというのに誰のことも見捨てることができない、中途半端で卑怯な偽善者です」
その声はか細かった。そうか、と国木田は知る。
彼女はわかっていたのだ。国木田に疎まれることを。親しくしていた探偵社員から疑いの眼差しを向けられることを。黙って身を潜めていれば、国木田とのあの時間は今日も訪れていたはずだ。けれど彼女は福沢に頷いた。乱歩の案を受け入れた。拒絶されるとわかっていながら国木田の元に姿を現した。
彼女は、選んだのだ。
彼女ならばポートマフィアを選ぶこともできたはずだ。ギルドに精通し探偵社と交流していた彼女ならば、ポートマフィアについた方が重宝され身の安全が確保できたはず。こうして身内に疑われることもない。
けれど彼女は探偵社を選んだ。
この過酷な選択肢を、選んだのだ。
国木田が口を開く。しかし彼女の名を呼ぶ前に、国木田は車のエンジン音を聞いた。
一台だ。
「様子を見てきます」
するりとクリスの手が国木田から離れていく。もう一度それを掴もうと無意識に手が伸びる。しかし止めることも声をかけることもできないまま、彼女は背を向けて行ってしまった。
国木田の手が中途半端な位置で漂う。脱力と同時にパタリと膝へ手を落とし、国木田は大きく息を吐き出した。