第2幕
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穏やかな昼はあっという間に過ぎて行った。
クリスと国木田はいつものように他愛ない話をしていた。既に珈琲も紅茶もない。けれど席を立つのも惜しいほどに、国木田の口からは同僚への愚痴が溢れ出し、クリスの口からは楽しい日々がこぼれていく。
国木田は喋りが得意な方ではない。けれどどうしてか、クリスを前にすると話題が舌の先にするりと降りてきて、話が途切れることがない。彼女の力なのだろうか、他者の思考をも左右するその演技力、そのせいで今国木田は「お喋りな男」を演じさせられているのだろうか。それでも構わない、と国木田は思う。この時間が嫌いというわけではないし、何より目の前の少女は楽しげにしている。それだけで十分だ。
どんな形であれ、一般市民たるこの少女が笑っているのならそれで良い。
「お茶漬けってそんなに美味しいんです?」
「知らん。だが敦にとっては美味いものらしい、何かと言えば茶漬けを注文している」
「ふーん、お茶とご飯か……紅茶とパンとか、混ぜたら美味しいんですかね?」
「俺は試さんぞ」
「え、しないんです? 新商品の発見かもしれないですよ?」
「俺は探偵だ、商品開発屋ではない」
「ううむ、それもそうか。……じゃあ部門増やしましょう。国木田さん単独の商品開発部。武装探偵社オリジナル食品!」
「うちを何にする気だ」
しかもなぜ俺一人が、と律儀に突っ込み、国木田はため息をついた。そんな国木田にクリスは口元に手を当ててクスクスと笑っている。陽気な人だ。
「この国には面白い組み合わせがたくさんありますね。あ、あと驚いたのは自販機ですね。いろんな種類のが売られてて」
けれどその様子はやはりいつもとは違うように見えた。元々話の絶えない子ではあるが、今日はいつにも増して話題が多い。まるで話そうと思っていたことを全て話してしまおうとしているような、これが最後だからと思っているかのような。
――最後、とは何だろうか。
「米国ではほとんど炭酸飲料でしたから。お茶とかジュースとか、あとコーンポタージュとかあって興味深いです。最近オシルコ? でしたっけ、あれ飲んでみたんですけど、あれは缶じゃなくてお椀で食べたかったですね」
「……クリス」
「はい?」
名を呼んだものの、次の言葉に迷う。クリスはきょとんとこちらを見つめてくるだけだ。その表情に違和感はない。勘違いだろうか、と不安になる。
「……いや、何でもない」
結局何も言えずに目を逸らしてしまう。この店に来て初めて、奇妙な沈黙が二人の間に降りた。しまったか、と国木田は言い出しかけていた言葉を飲み込みながら焦る。
と、クリスが席から立ち上がった。
「お会計しましょう、国木田さん」
突然のお開き宣言。気に触るようなことを言ってしまったか。慌てて顔を上げた先には、クリスの微笑みがあった。
その表情に、確信する。
「もう少し、お付き合いしていただいても良いですか?」
口調は明るい。しかし。
「……ああ」
国木田の答えに、彼女は嬉しそうにする。その変化があってもなお、彼女から寂しそうな様子は消えなくて。
それは別れを予感している人間が帯びるものだった。彼女はどこかに行こうとしている。その別れ際の時間を、なぜか国木田と過ごしている。その理由はわからない。彼女にとって国木田は何なのだろう。偶然知り合った同じ街の人間、ただそれだけではなかったのか。
それとも、国木田にしかできない何かを、彼女は口にしないまま待っているのか。
何を。
――あなたのことがわかりません。
あの言葉を思い出す。
――何かを成し遂げたいというのなら何かを捨てなければいけないんです、そういうものなんです。
彼女は以前「叶えなければいけない夢がある」と言っていた。コンビニ引きこもり事件でのことだ。それを叶えるために、彼女は何かを捨てたのだろうか。そしてまた、何かのために何かを捨てようとしているのだろうか。
そこまで考えても、やはり何もわからなかった。
会計を終え二人は店の外に出る。夕方も近い時間だ。
「今日はありがとうございました」
隣を歩きながらクリスが言う。
「久しぶりに、のんびりできた気がします」
その背後には川がある。水面は色味を帯び始めた太陽光を受けて輝いていた。この青が橙に、そして赤に変わるのも時間の問題だろう。
二人は川辺の道を並んで歩いていた。整然と並ぶ石の床を見つめていた国木田はふと隣へと目を移す。
赤いスカートは彼女が足を踏み出すたびにふわりと広がった。肌を微かに透かすブラウスは彼女の白さに溶け込み、その亜麻色を浮き立たせている。結い上げられた髪で露わになっているうなじに目が移りかけ、慌てて目を逸らした。
「……国木田さん」
ふと呟くように呼ばれる。気付かれたか、と内心ひやりとしつつ、平然と短く答えた。
「何だ」
「……わたしのわがままに付き合ってくださって、ありがとうございます」
その顔は伏せられていてよく見えない。
「……これで、覚えていてもらえるようになりましたか?」
「どこかに行くのか」
「……いえ、どこにも行きません。けど」
歩みは止めず、クリスは静かに続ける。
「……わたしを、覚えていて欲しかった」
「どこにも行かないのなら忘れるわけがないだろう」
「ふふ、そうですね。……そう、ですよね」
彼女が笑う。その笑顔に不安を感じ、しかし国木田は何も言えなかった。
何を言えば良いのかわからなかった。国木田はただの知り合いだ、少しばかり関わりがあっただけの他人なのだ。元より察しは良い方ではない。乱歩や太宰と比べたら真理を見つけ出し真実を得る力は赤子同然だ。
こうした時に、理想的な言葉の一つもこの喉には上がってこない。
その後の会話はなかった。ただ黙々と、並んで歩き続ける。気が付けば探偵社の入っているビルの前に辿り着いていた。
「それじゃ、国木田さん」
自然と足を止めてしまった国木田を置いていくように、クリスは歩みを止めずに通り過ぎていく。振り返った彼女の動きに合わせてスカートが翻った。緑を差し込んだ青の眼差しが夕日色を取り込んで透き通る。
「また、明日」
その言葉は「明日また会える」という希望であるはずなのに、彼女はその『また、明日』を『また、いつか』のように発音した。その僅かな違和感に、国木田は何を言うこともできず、何をすることもできず。
「……ああ」
少女が笑顔を残して去っていく。その小さな背を見送る。
そして、明日が訪れた。