第2幕
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[Act 2, Scene 11]
国木田は探偵社近くの喫茶店にいた。いつものように一階の喫茶に行かなかったのは、相手からそう指定されたからだ。
店には数名のスタッフの他、若者を中心とした客で賑わっていた。背景に流れるクラシック音楽がその騒がしさを軽減している。二人掛け用の小さなテーブルは小洒落ており、若者の来店が多いこの店とよく合っていた。
珈琲が運ばれてくる。白いカップに入れられた珈琲の黒に映る自分の顔を、国木田は見つめる。
先日、本拠地を晩香堂に移した。戦争をいち早く察した福沢の指示だ。福沢の判断は迷いがなく、的確。憧れることの多いその背中はいつも、未来を見据えて揺るがない。
対して自分はどうだろうか。太宰に振り回され、そうでなくとも同僚は皆気まま。新人である敦なぞ最もたる原因で、ポートマフィアやらギルドやらを探偵社へ引きずり込んできた。挙げ句の果てには三十五人殺しの少女である。
嵐が一気に三つほど押し寄せてきているようだ。
ため息を一つつき、国木田は珈琲を啜る。いつもの珈琲よりも香りの弱いそれは、するりと喉へ下っていった。不味くはないが美味くもない。
やはり一階の喫茶店「うずまき」の珈琲は絶品だ。苦味が苦くない、というのもおかしな話だが、苦味が心地良いのは事実。あれほどの珈琲を日常的に飲める環境に感謝している。
そう、国木田は己の身の周りの環境を憂いているのではない。嵐だろうと何だろうとそれは結局のところ仕事であり、人助けである。拒む理由はない。同僚に関しても然り。あの気ままさには辟易することも多々あるが、彼らの実力は並々ならない。この戦況においては心強い味方だ。
日常的にそうであれば、尚も喜ばしいのだが。
国木田は腕の時計を見遣る。約束の時間まで後一分。珈琲をもう一口飲む。
「お隣、よろしいですか?」
待ち望んでいた声は賑やかな店内でも良く通った。顔を上げれば、そこに亜麻色の髪の少女が微笑んでいる。しかしその風貌に国木田は息を呑んだ。
いつもは中性的で動きやすさを重視した服装をしている彼女だが、今日は違った。その髪は編み込まれ、耳飾りが照明に輝いている。白いブラウスに白い肌が合い、赤いスカートをより華やかに見せていた。
「……珍しい」
「ええ、仕事以外でこういう格好は初めてです」
少し恥ずかしそうに言うクリスからなぜか目を逸らしてしまった。そうか、と誤魔化すように言う。クリスは気を害した風もなく向かいの椅子に座った。
「国木田さんも珍しいですね。時間きっかりにお店に入るかと思っていたんですが、あらかじめ席にいたなんて」
「この喫茶店は今の時間から混み始めるらしい。先に行って席を確保しておくのが良いと思ってな」
「そんなに人気なんです? ここ。知らなかったな」
国木田も知らなかった。この店の前情報を得ようとして社員に尋ねたところ、席を取っておけ、と女性陣に強く言われたのだ。勿論反対した。一分一秒も無駄にはしない、暇な時間は少しも作らない、時間厳守が国木田のやり方だ。しかしそんなことを言った瞬間、彼女らに袋叩きにされた。
さすがに「席をあらかじめ確保しておくのが殿方の理想ですわよ!」等々と言われてしまっては、理想を求める国木田はぐうの音も出ない。ちなみにきちんとメモしておいたので、今後は彼女らに怒られることもないだろう。
「すみません、一度行ってみたいとわたしが言い出したばかりに」
「いや、構わん。これは俺の判断だからな」
店員がクリスの元に来る。彼女は紅茶を頼んだ。そういえば、クリスはほとんどいつも紅茶を飲む。珈琲が飲めないとは聞いていないが。
国木田の視線に気付いてか、クリスが国木田へと目を向ける。青の眼差しが穏やかに輝く。
「どうかしましたか?」
「……いや、いつも紅茶だなと」
「ああ」
ふと、その青が伏せられた。
「……やはり身に染みているんですかね」
「というと?」
「わたし、英国の出身なんです。あの国は紅茶の文化だから。とはいえ、あの国で紅茶を飲んだことは一度もなかったんですが」
店員が紅茶を持ってきた。テーブルの上に置かれたそれの取っ手を摘むように持つ。その手つきは優雅だった。まるでそれが当然とばかりの、癖のない動作。英国出身という言葉に納得してしまったのは偏見だろうか。
彼女は時折、その若さを引き立てる上品さを見せてくる。
一口飲み、ゆったりとクリスはカップを置いた。
「紅茶に手の届くような生活ではなかったんです。実際に飲んだのは米国で、でした」
「世界各国を回っていたと、以前聞いたが……」
「ああ、それはその後の話です」
クリスが微笑む。いつもとは違うその弱い笑みに、国木田は問いを続けようとする口を閉ざした。
これは談笑ではない。彼女は、何かを国木田に伝えようとしている。
「英国のどこかで生まれて、その国でしばらくを過ごして……その後、米国に連れて行かれたんです。拾われた、と言えば適切なんでしょうね」
カップに指で触れつつ、クリスが呟くように話す内容を、国木田は聞いていた。詳細を隠した過去を語るその口調はどこか切なげで、思い出に浸るその眼差しは寂しげで。
いつも楽しげに笑っている彼女からは想像できない、見たことのない表情だった。
「そこで、わたしは演じることを知りました。わたしに驚異的な演技力があることも……演じることは楽しかった。いつしかそこに魅力を見出して、それに生き甲斐を重ねたんです。そして、わたしはわたしを拘束し守ってくれていたあの場所から逃げ出した」
それは懺悔か。流れ落ちる水のようにとめどなく紡がれる言葉を、国木田は聞くことしかできない。そこにクリスが何を思い何を込めているのかを、探すだけで精一杯だった。
「本当は、あの場所にい続けるべきでした。それが正しい選択だった。けれど、あの場所は……わたし自身が望むわたしを与えてはくれなかった」
わたしはわたしのためだけに平穏を捨てたんです、と彼女は笑った。
「国木田さんはどう思われますか?」
「え?」
「飛べない鳥が大空を求めて鳥籠から飛び出すことを。泥の中で生きてきたネズミが人に必要とされたいがために排水溝から這い出ることを。……愚かで、無駄なことです。けれどそれを選択してしまった。その選択によって自分に危険と敵意が迫ると教わっていながら」
例え話がクリスにどう繋がるのか、見当がつかなかった。それでも口を挟まなかったのは、彼女が答えを求めていなかったからだ。
クリスは、誰にともなく呟いていた。理解を求めてなどいない。何かを決意する前のように、胸の内を整理している。
――彼女は何を決意しようとしているのか。
「わたしは」
ふと、声に震えが混じる。
「……わたしは、間違ったのかもしれない」
しかしそれは瞬時に消えた。クリスが顔を上げる。そこには、決意を秘めた強い眼差しがあるだけだ。
決意を。
「けど、後悔はしていません。……後悔するとしたら、死を選べなかったこと。それと」
言いかけ、口を閉ざしてクリスは首を横に振った。耳飾りが照明を反射して輝く。何かを取り消すようなその仕草に、国木田は思わず声を上げた。
「俺は後悔しない」
その一言は、彼女の心を救うだろうか。まるで国木田を思い遣るかのように目を伏せたこの少女の心を。
「今後何があったとしても、あなたに出会ったことを俺は後悔しない」
「……そう、ですか」
驚きに青の目が見開かれる。白いブラウスを纏った亜麻色の髪の少女へと、窓から陽光が差し込む。それは彼女の青を透かし、隠されていた複雑な色合いを露わにした。
深緑を差し込んだ湖畔の色。澄んだ湖面に映り込む木々の緑、それらを照らす薄絹の日差し。
これが彼女の本当の眼差し。
そこに映り込む自分は、彼女にとってどのように見えているのだろう。
ふ、とクリスが目を細める。それは微笑みの形をしていた。花を目にした時のような、柔らかでささやかな喜びによる笑みだった。
「……それは、よかった」
その声は何かに安堵したようでいて――その見えない背を後押ししてしまったようにも聞こえた。