第4幕

夢小説設定

この終焉(おわり)なき舞台に拍手を
本作品の夢主は英国出身北米育ちです。
カタカナでの名前を推奨しております。
名前(ファーストネーム)
名字(ファミリーネーム)
舞台女優名

[其は花の夢の如し]
国木田さんと夢主と媚薬。
同棲前。ちょっとお色気あります。


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 唐突な問いに国木田は文字通りひっくり返った。椅子から滑り落ち床へと背中を打つ。どんがらがっしゃん、と様々な物が机から落ちた。腹の上に資料束がドサドサと山を築く。
 いつの間にか社屋の天井を見上げていた国木田の視界のすみに、ひょいと顔が覗き込んできた。

「だだだ大丈夫ですか国木田さん……!」

 かなり驚いた様子の敦だ。それと、もう一人。

「おやまあ」

 自分の席の椅子に膝立ちになってのんびりと国木田を見下ろし、事の発端こと突発性迷惑発言病の自殺愛好家が「にょほほ」と奇妙な笑い声を上げる。

「これだから国木田君は飽きないねえ」
「貴様……」
「でもさ、いい加減誰もが気になることじゃない? ねえ敦君」
「い、いや、別にそんな」

 太宰に同意を求められた敦が肯定も否定もしない曖昧さで顔を赤らめる。そんな後輩の様子に「ほらご覧よ」と太宰は嬉しそうに声を上げた。

「何だったら他の皆にも聞いてみようか? 谷崎君もそろそろ仕事から帰って来るし、与謝野先生は医務室にいるし」
「奴らに聞いたところで貴様の望む答えは返って来んぞ」
「君が最近御用達のうずまきの店長にも聞いてみようか? ああ、何なら商店街の八百屋のおばちゃんとか」
「待てそれだけは止めろ!」

 怒鳴りつつガバリと上体を起こす。他所様にそんな話をするものではない。これは内密な問題、いや何も問題ではないが、そう、つまりプライベートな話だ。八百屋のおばちゃんに伝わったらヨコハマ全域に噂が広まるではないか。

「にょほほ」

 再び奇妙な笑い方で太宰はニンマリと笑う。

「で? まだなの? ちゅー」
「まだも何もあるかこの破廉恥が!」

 怒鳴り手元に落ちていた書籍の一つをぶん投げた。スパァン、と太宰の額にクリーンヒットする。

「おぶッ」
「そういったことを軽々しく口にするなド阿呆! 大体接吻というものはこういった公の場で話題にするようなものでもないし交際していない者同士がすることでもない!」
「接吻ってそんな、国木田君ったら……いやぁん」
「いやぁん、ではない言い出したのは貴様だろうが!」

 両手で頰を覆い照れたように腰をくねらせた男へ向かって、続けてもう一冊投げ込む。が、今度はパシリと手で受け止められてしまった。ふ、と得意げな顔で額にたんこぶを作った太宰が笑む。

「落ち着きたまえよ」
「誰にそれを言っている」
「照れることはないさ、誰だって最初はある」
「だから貴様は何を言い出しているのだ貴様は!」
「まあ国木田君のことだから雰囲気作りが大変なのだろうけれどもね。何たって国木田君、クリスちゃんより経験なさそうだし」

 おろおろと居場所なさげにしていた敦が「経験……」とそれを復唱する。待て、と国木田は太宰へ手のひらを押し付けるように向けた。

「こ、こら太宰、敦が聞いているだろうが!」
「余程強引にリードできないと彼女に手綱を握られてしまうよ? まあ君がそういう趣味だったならお好きにどうぞだけれども、やはり女性というものは男に誘導してもらいたいものだし」
「だああああそれ以上口を開くな!」

 ダァンと床を踏み締めて立ち上がり飛びかかるように太宰を掴み上げる。手の中でその余計な声を出す首を絞め上げれば、太宰は「うふふ首が絞まっているよ国木田君うふふ」と青ざめた顔で笑った。何だこれは気色が悪い。

「なぜ貴様はこういう時ばかりそうなのだ! 今すぐそのペラペラと無駄なことばかり喋る口を永遠に塞いでやるわ!」
「いやん国木田君ったらそんな攻めゼリフどこで覚えてきたの?」
「【独歩吟客】! ガムテェェープ!」

 手帳の紙片がすぐさま念じた通りの形に変じる。ベリリィッと手にしたガムテープを剥離し太宰へぐるぐる巻き付けた。これでもか、これでもかと巻けば「苦し苦し」と包帯男ならぬガムテープ男はもがき始める。慌てて敦がテープを剥がしに行く。その様子を見下ろしつつ国木田は軽く咳払いをして喉の調子を整えた。

「いかん、手帳のページを無駄に消費してしまった」
「……さすがに死ぬかと思ったよ。なるほど黄泉比良坂は本当に金色だったようだね。参考になった」

 窒息死から救われた太宰は「ありがとう敦君、おかげで苦しみながら死なずに済んだ」と言いながら訳のわからないことを口走っている。黄泉比良坂が金色だなどと誰が言ったのか。それに参考とは何だ。

「女性を心中に誘う文句のネタだよ」
「聞いてもいないことに答えるな」

 幸いと言うべきか、今現在探偵社のこのフロアには太宰、敦、国木田の三人しかいない。でなければこれほどふざけたやり取りができるはずもなかった。全く、と国木田は席に戻り、周囲に散らばった書類を整頓し机の上に置き直す。妙なことばかりを言う同僚など捨て置いて、仕事に戻らなければ。
 そう考えた国木田だったが、太宰の考えは違ったらしい、「でもさ」と机越しに国木田を覗き込んでくる。

「重要だと思うのだよ。女性へのリード。そういう場面になった時に何もできないでいるとフラれるよ?」
「その手の話は交際相手がいる奴としていろ。俺は仕事で忙しい」
「君の恋人は仕事だものねえ……そもそも君達まだ付き合ってなかったの? あんなに一緒にいるのに」
「やかましい。交際というものは結婚を前提に真摯に行うべきだ。知り合いだからという理由で行うような軽々しいものではない」
「そんなこと言ってえ。ま、それが国木田君らしいんだろうけど。でもそうやって気付かないふりしたままだと、いつか奪われるよ? 彼女有名な舞台女優だし、見目も悪くないし」
「太宰」

 トン、とファイルを机の上に立てかける。そして向かいの席に立っている軽薄な男をじろりと睨みつけた。

「……その話はするな」
「何で?」
「何でもだ」
「ふーん」

 いやに素直に太宰は引き下がった。これでやっと静かになるか。そう思ったがやはりそれほど簡単に丸く話が収まるはずもなかった。太宰は「なあんだ」と大きな声で大袈裟に肩を上下させ、ガタンと椅子に座り込む。

「残念、君にとっておきを教えてあげようと思ったのに」
「お前から学ぶことなど自殺方法くらいしかないだろうが」
「ま、自殺のプロだからね、私」

 自殺のプロとは何だ。

「そうか、じゃあこれは敦君にあげようかな」

 そうわざとらしく大声で言って、太宰は手にした何かを見せつけるように軽く振った。小瓶だ。チラとそれを見「またくだらん毒物か」と言い返そうとし――ちらりと見えた小瓶のラベルにハッと気が付いた。
『太宰特製媚薬』
 媚薬。

「――おんどりゃああああ!」

 椅子を跳ね飛ばして立ち上がり机に片足を乗せ、敦がそれを見る前に分捕る。成功、小瓶は国木田の手の中にすっぽり収まった。

「何しとるんじゃあ!」

 此奴、毒キノコに飽き足らず薬物の類にまで手を出し始めたのか。太宰はというと小瓶を奪われた手をひらひらと振りながら「欲しかったのならそう言ってくれれば良いのに」などとほざいている。

「仕方ないなあ、じゃあそれ国木田君にあげるよ」
らんわ!」

 瓶を割りかねないほどに強く握り締めつつ怒鳴る。媚薬、しかも太宰が作ったなど怪しいことこの上ない。飲めようはずもないし、そもそも薬物に頼るなど言語道断である。いや、頼るも何もそういう気は全くない。

「こんなものを敦に渡そうとするな。全く……捨ててくる」

 宣言し席から立ち上がれば、太宰は「ええーッ」と大層わざとらしい様子で不満そうにした。

「私のなのに!」
「没収だ没収! よりによって女性に困らな……女性にも安心して依頼してもらえるような会社でなくてはならんというのに、なぜ貴様は恥を知らんのだ!」
「謹厳実直な男だからね私」
「その四字熟語の意味をもう一度調べておけ!」
 なぜそこで嬉しそうに満面の笑顔を浮かべられるのだこの男は。
 小瓶を握り締めて給湯室へと向かう。中身をゴミ箱に放り込み、瓶は洗って空き瓶置き場に置いておこう。そう誰にともなく心の中で言い聞かせた。


***


 給湯室へと向かった国木田の背を見送り、敦は太宰へと視線を動かした。案の定彼は企みが上手くいったかのようににやついている。楽しそうだ。この先輩社員はいつも、同僚で遊ぶことに執念を燃やしている。

「さて、明日が楽しみだねえ」
「明日、ですか?」
「そう。与謝野先生とね」

 予想していなかった名に、敦は目を丸くした。

「与謝野先生?」
「あ、敦君もどう? 賭け」
 ああ、賭けか。敦は驚きを胸にしまって苦笑した。これもまた見慣れた光景だ、太宰と与謝野はよく国木田とクリスの間柄について賭けている。そのほとんどは太宰が仕掛けた悪戯に二人がどう対処するかというもので、確か太宰は現在五戦三勝だったはずだ。頭の切れる太宰と二人のことを熟知している与謝野、彼らの勝負はなかなか良い状況となっていた。

「いや、僕はその、そういうことはちょっと」
「じゃあ君には『何も起こらない』という選択肢を与えよう。いくら賭ける?」
「いや、あのですね」
「本当は一万円からなのだけれど、初心者で薄給の君には五百円からで妥協するよ」
「……じゃあ五百円で」

 無理矢理言わされた気もする。しかしまあ、負けても損害は少ない、少しの間食費を抑えれば良いほどだ。浮かれた様子で鼻歌を歌い始めた太宰を横目に、敦は国木田とクリスへ同情する。二人とも精神的に大人だ、この程度のからかいなど、躱してしまうのだろう。
 けれど、と敦はふと思う。

「太宰さんはなんで、あの二人のことをよく気遣っているんです?」
「気遣う?」
「気遣っているじゃないですか。まるで、二人に時間を作らせようとしているような……」
「買いかぶりすぎだよ」
「そうなんですかね……?」

 太宰は笑みを静かにたたえている。確かに、太宰はつかず離れずの二人を使って遊んでいるようではあるが、何か他の意図があるようにも思えてならない。気のせいなのだろうか。

「敦君は私のことが大好きだねえ。先輩冥利に尽きるよ」

 はは、と曖昧な笑いで返したのは、太宰のことを尊敬してはいるものの、社会人の先輩として慕っているわけではないからだ。先輩として見ればその奔放さは苦笑しか出てこない。すごいとは思っている。

「敦君も覚えておきたまえよ」

 頭の後ろで両手を組んで椅子の背もたれに倒れかかり、太宰はそう言った。

「時間は有限だ。彼女にとっては特に、ね」

 誰にとっても時間というものには限りがある。どういうことなのだろう。敦がきょとんとするのを見、太宰は見守るような笑みを浮かべた。


***


 仕事を終え、帰宅。見慣れた部屋へと足を踏み入れ、国木田は一息大きく吐き出した。いつもそうだが、太宰に絡まれると妙に疲れる。今日は特に疲労が激しい。温かい茶でも飲みたかった。
 台所へ行き、茶葉を棚から取り出す。と、ポケットの違和感に意識が行った。手を突っ込み、そしてそれを取り出す。
 あの、小瓶だ。

「……持ち帰ってきたわけではないぞ。あの場で廃棄したら事務員に瓶が見つかって大騒ぎになるからだ、俺が責任を持って廃棄するためにここに」
「何をブツブツと言っているんですか?」
「どぅわぁッ!」

 悲鳴を上げて国木田は跳ねた。聞こえるはずのない、国木田以外の声。この部屋が事故物件でないことはあらかじめ調べてある、そして今は夕方と呼ぶには遅く夜と呼ぶには早い、その類のものが出るには中途半端な時間帯だ。故にそういったものではないと断言できる。断言する。断言できなければならない。
 意を決して振り返る。すると、困った顔でこちらを見上げてくる青と目が合った。

「……何かすみません、えっと、大丈夫ですか?」

 クリスだ。幻覚ではない。なぜ、というかいつの間に。一気にあふれた疑問は喉元で詰まった。パクパクと口を開閉させた国木田に、クリスは察したように続ける。

「太宰さんから、用があるから家に来いという伝言を受け取ったので来たんですけど……」

 伝言。伝言だと。途端にあの「にょほほ」と笑う人間型問題発生機を思い出す。
 あの包帯男、謀ったな。

「ノックもして声もかけたんですけど、国木田さん全く反応しなかったから……どうかしたんですか?」

 何も知らないクリスはごく自然の仕草で国木田の手元を覗き込もうとしてきた。咄嗟に小瓶を掴み背中に隠す。疚(やま)しいことをしようとしているわけではないが、これを見られたら返ってくる反応は目に見えていた。それだけは避けなければ。よりによってクリスに、国木田がそういうことを目論むような輩だったという勘違いはして欲しくない。どこにどう情報が漏れるかわかったものではないし、それに。

「いや、何でもない。茶を淹れようと思ってな」

 平常を装う。けれどやはりと言うべきか、彼女はじっと国木田を見つめてきた。探る目つき、隠された本心を抉り取る刃のような眼差し。
 緊張で心臓が音を立てる。手に汗がにじみ出る。一秒がいやに長い。

「……そうですか」

 ふと彼女の視線が逸らされる。凌いだか、と安堵したのも束の間、未だに国木田の前に立っているクリスの表情に瞠目した。
 伏せられた眼差し、物憂げに潜められた柳眉。白い肌に、薔薇を思わせる赤の唇。それを隠すかのようにさらりと揺れる亜麻色の髪は、毛先を首筋に添えていて。
 まるで好物の飯を前に出されたかのような、人に抱くはずのない高揚に心臓が音を立てる。知らず唾を呑んだ。

 ――まあ国木田君のことだから雰囲気作りが大変なのだろうけれどもね。何たって国木田君、クリスちゃんより経験なさそうだし。

 太宰のふざけた言葉が今更思い起こされる。経験、と奴は言った。彼女の方が国木田より経験がある、と。
 それはつまり、"彼女には経験がある"ということか。それを太宰が知るわけもないからと気にしないでいたが、今思えばただ一つの答えに辿り着いてしまう。
 ――太宰とクリスが通じている、という可能性だ。

「……いやいやいやいや、それはない、断じてない」

 頭を抱えて強く横に振る。彼女とあの女好きが? 考えたくもない。だが女慣れしている太宰ならば、あるいは――舞台女優という立場の女性すらも口説けるのか? 少しずつ歩み寄り信頼を築きつつある国木田よりも素早く着実に、この白磁の肌に触れていると?
 ない。それはない。言い切れる理由は彼女がクリスだからだ。太宰がどんなに魅力的だろうと――考えていて吐き気がしてくるが――クリスはその程度で揺らぐ女性ではない。

「……あの、国木田さん?」

 であればなぜだ。これか、この媚薬のせいなのか。奴は薬物で女性を弄ぶような、落ちるところまで落ちた男だったのか。というかこれ、そんなに効果があるのか。

「国木田さん」

 混乱する頭をさらに掻き乱すように己の名が聞こえてくる。国木田を呼ぶこの声よりも甘い響きで奴の名が呼ばれた夜があったと――そういうことなのか。
 彼女は、もう、この手の届かないところに。

「国木田さん!」

 思考を両断するような通りの良い声で呼ばれると同時に、強く腕を引かれる。ハッと我に返れば、見開かれた青の眼差しが国木田を捉えていた。

「どうしたんですか、突然頭抱えたりして……何かあったんですか」

 薄暗くなった空模様を顕著に反映した台所で、青が国木田を映しこんでいる。青空の下、深緑の木々を伴った湖がそこにある。緑を孕んだ青、光を差し込んだ湖面。美しい色だ。
 これが熱っぽく潤んだのなら、どれほど心打たれることだろう。太宰はそれを既に、見たというのか。

 ――そうやって気付かないふりしたままだと、いつか奪われるよ?

 どくりと心臓が奇妙に脈打つ。怒りに似た衝動が熱となって脳へ駆け上がる。

「……教えてくれないんですか」

 クリスはぽつりと呟いて、国木田から手を離した。そして表情を笑みに変えて「お茶でしたよね」と明るく言う。その目から艶やかな色味は消え去っていた。

「用が特にないなら、わたし帰ります。太宰さんのお遊びだったんでしょうし。お仕事終わりの貴重な時間をお邪魔してすみませんでした」
クリス

 幾度となく呼んできたその名を口にし、国木田は大きくため息をついた。大きく大きく、諦めるように、決意するように。

「……せっかくだ、休んでいけ」

 ――あの色を自分のものにしたいという強欲は、そのために選んでしまったこの決断は、一生消せない罪だ。


***


 国木田が出してくれた緑茶を一口含み、クリスはその温かさに頰を緩ませた。ハンカチで軽く口元を押さえ、息をつく。

「紅茶や珈琲も良いですけど、一日が終わった後は日本茶も合いますね。体がふわっとあたたまる気がします」
「……そうか」

 国木田は何かを押し隠すように自分の茶を一気に飲み干す。今日の国木田は一段と挙動不審だった。突然頭を振ったり、ブツブツと呟いたり、果てにはクリスが緑茶に口をつけるたびに凝視してくる。体調が悪いのだろうか。

「……クリス
「はい?」
「その……体調に問題はないか」
「ありませんけど……」

 むしろあるとしたら国木田の方だろう。太宰からの伝言を思い出す。あれは、国木田の体調不良を気遣った太宰の意図だったのではないだろうか。太宰はあれだが仲間を蔑ろにする人間ではない。 今更国木田の名を使ってクリスを罠に嵌めるとも思えなかったので素直にここに来たのだ。

「そうか……」

 何とも言えない顔付きで国木田は押し黙った。期待が裏切られたようでいてその実安堵しているような、二つの異なる感情がないまぜになった表情だ。

「じゃあわたし、そろそろ帰りますね。お邪魔しました」

 緑茶を飲み終わったのを機に、立ち上がる。国木田もまた玄関まで送ろうとしてくれたのだろう、立ち上がろうとした。
 けれど。
 腰を上げたその体がふらりと前かがみに倒れ込む。

「国木田さん!」

 叫び、そばに膝をつく。やはり体調が悪かったのか。肩に手を置いて顔を覗き込む。

「国木田さ――」

 目が、合った。
 熱を宿した、眼差し。焦点の合わないそれがクリスを乞うように見つめている。
 どくりと心臓が高鳴ったのはなぜか。
 肩に置いた手にじわりと染み込んでくる高温。動揺を振り切って手を伸ばし、その額に手を当てる。
 熱い。

「やっぱり、体調が良くなかったんですか」
「何……?」

 クリスの言葉に国木田は驚いたようだった。ゆらりと揺れた目を微かに見開く動作。その様子に確信する。

「――先程のお茶、何か入っていましたね」

 なぜ、と国木田が声もなく呟く。クリス相手に隠し通せると思ったのだろうか。ぐ、と奥歯を噛み締める。
 この人はどこまで、わたしを普通の人間だと勘違いしているのか。

「……飲み物を出された時は相手のものと取り替えるようにしているんです。カップが違ったり飲み物が違ったりした時は、ハンカチに飲み物を吐くようにして」

 つまりクリスは、国木田が淹れた緑茶を口に含みはしたものの、飲み込んではいない。そして国木田が飲んだ茶は、本来クリスが飲むはずだったものだ。

「何を入れたんですか? それがわかれば対処ができます。国木田さんのことだからわたしをこんなやり方で殺そうとはしないでしょうし、あなたの様子を見るからに大した毒ではないようです。吐き出させるか薄めるか下剤で処理するか……」

 問い詰めつつ、ふと国木田の様子を思い出す。確か、台所で何かを背中に隠していた。あれか。
 何も言えずにいる国木田を置いて台所へと足を踏み入れる。見慣れない小瓶が置かれていた。手に取り、ラベルを一瞥、蓋を開けて中身を確認する。

「太宰特製……か」

 ――やあクリスちゃん。私だけれど、国木田君が君に何か用があるみたいだったのだよ。仕事帰りにでも彼の家へ顔を出してきてくれるかい?

 電話口で一方的に言い「それじゃ」と早々に通話を切り上げた男を思い出す。彼に薬物調合の知識があるとは聞いていない。となると、あれか。
数日前に言われたことを思い出す。

 ――ねえクリスちゃん、一つ相談があるのだけれど、良い?

「……相変わらずの人だ」

 大きくため息をつく。太宰はさておき国木田だ、あのまま放置するわけにはいかない。少しの罪悪感もある。
 ポーチから常備している粉薬を取り出し、コップに溜めた水に溶かす。それを持って国木田の元へ戻り、コップを差し出した。

「飲んでください。少しは楽になるはずです」

 半ば押し付けるようにそれを渡し、クリスは記憶を頼りに押入れの戸を開けた。予想通り、布団が詰め込まれている。初めて触る和式布団を引きずるように取り出し、床に敷き始めた。国木田の手帳には理想的な布団の敷き方が書いてあったから、大体の敷き方はわかる。書かれていたのはどんなに疲労していても最小の動きで美しく無駄なく布団を敷く方法だったが、細かいところはよくわからないし、緊急事態だ、間違わなければ良いだろう。

「お、おい」

 国木田が焦ったような声を出す。それを無視し、枕と掛け布団を敷布団の上に置いた。あとは国木田を寝かせるだけだ。一眠りすれば解毒剤が効き、正常に戻れる。寝かしつけた後に立ち去れば良いだろう。

「国木田さん」

 呼ぶも反応はない。コップを手にしたまま呆然とこちらを見ていた。仕方がない、とクリスはそちらへ歩み寄り、隣にしゃがみ込む。

「飲んでください。治りが早くなります。一眠りすれば効果が切れるので、布団に横になってください」
「……帰らないのか」
「帰りませんよ、国木田さんが眠るまでいますから」
「……良い、のか」
「ええ。――ほら、飲んで」

 宥め催促すればようやく国木田はコップへと口をつけた。ごく、と喉仏が上下する。普段見ることのない、生々しい無防備さになぜか焦りを覚える。
 ――先程の熱に濡れた眼差しを思い出す。
 何となしに、国木田から目を離した。強く目を瞑り、軽く頭を振る。余計なことは考えたくない、今考えるべきは解毒だ。
 国木田の腕を引き、布団へと導く。そういえば彼は眼鏡を着けているのだった。外さなければ。
 くるりと国木田の方を見上げ、両手を伸ばす。何事かと硬直した国木田の眼鏡の両脇のツルを摘むように持ち上げ、それを外した。ツルを畳んで床に膝をつき、布団の脇に置く。そのままそばに立つ国木田を見上げて手を差し出した。

「国木田さん」

 誘導に従い国木田が布団の上に膝をつく。そして、そのままクリスを見つめてきた。
 その眼差しが――レンズ越しではない眼差しが、真剣な表情と共にクリスを見据えて動かない。
 息を呑んでしまったのは、無意識だ。
 切り上がった目尻、整った眉。凛々しさの似合う顔が、目の前にある。何度も見てきたそれが、眼鏡がないというだけで明瞭さを増し、クリスの視界に入り込んでくる。
 目を逸らせない。

「……ッ」

 いつの間にか見つめ合っていた。相手の熱のこもった目に当惑している自分が映る。動揺で息が上がる。体温が高まり頰に熱が集まる。目を逸らさなければ、と頭のどこかで警鐘が鳴った。
 逃げなければ。
 早く、ここから。
 でないと。

クリス

 そっと撫でるように名を呼ばれる。悪寒のような快感のような、訳のわからない感覚がぞわりと体内を這いずり体を硬直させる。
 国木田が獲物を見定めたかのように目を細める。その眼差しを、見上げる。
 できない。
 目が、彼から離れない。

「国木田、さん」

 願うような響きを持った声は誰のものだろう。
 国木田の手が頰に添えられる。促されるように、顔が上向きになる。心臓が耳元で何かを叫んでいた。そのうるさい音が、体から漏れ出ているかのような錯覚、焦燥。
 唾を呑む。浅く早く呼吸を繰り返す。見慣れているはずの優しい目が、何かを見出して笑む。


***


 何度瞬きしても、唾を呑んでも、荒く呼吸を繰り返しても、目の前の景色は少しも変わらない。
 柔らかな和式布団の上に仰向けになりながら、片手を顔の横についてこちらを見下ろしてくる国木田を呆然と見る。空いた手で自身の服のボタンを外しながらも、国木田はクリスから目を離さない。
 覆い被さるような国木田のその体勢はクリスの体の自由を完全に封じていた。元より体術に秀でている国木田だ、今から抜け出そうとしても無駄に終わるだろう。そんなことを頭のどこかで考える。
 背へと伸ばされた手に抱きかかえられ布団へ倒されたことは理解している。思ったよりも優しい手付きでクリスを布団に横たえた国木田は、どこか遠くを見るようにクリスを見つめてきた。知らない目だ。獲物を前にした捕食者のようでもあり、子供の成長を見守る親のようでもある、強欲と愛おしさが入り混じった眼差し。
 頭の中ではもはや背景音楽と化した警鐘が鳴り続けている。
 ふと、国木田はクリスの肩口にかかった髪を指で払い、そこへ顔を埋めた。金糸を思わせる国木田の髪が頰に触れる。途端、ぞわりとした肌触りが首筋を舐める。

「ッうぁ……」
「声を出すな」

 ひやりとした警告に喉が締まる。柔らかな唇が線をなぞるように鎖骨を這い、時折舌の先が触れ、熱い吐息が肌をくすぐる。ぞわり、ぞわりと肌に走る、悪寒に似た快感。息を止め、顔を逸らし、それでも喉に込み上げる悲鳴を手の甲で押さえ込んだ。

「……ッん、う……」

 危機感かそれ以外か、心臓が激しく脈打っている。生理的な涙が目尻を濡らす。漏れ出る声が相手をさらに刺激していることくらい、わかっていた。息を詰める。口を閉じる。それでも、微かに声は千切れた吐息に乗る。

クリス

 囁き声が耳朶に触れる。

「俺が、怖いか」

 慮る響きに、クリスは視線をそちらへ向けた。上体を起こし顔を上げた国木田がこちらを見下ろしている。服は乱れ肌が見えていた。それでも、クリスを見つめてくるその眼差しは。
 ――先程からずっと同じだ。
 泣き出す前のように潤み、何かを望みながらも拒絶に怯えている。
 口元から手を離し、クリスは彼を見つめた。

「……少し」

 答えた瞬間、国木田は傷の痛みに耐えるかのように眉を寄せた。そうか、とその口が呟く。

「ならなぜ逃げんのだ。あなたなら……できただろう」

 二人きりの部屋で、国木田は秘匿を話す声で問いを口にする。

「……さすがの俺も、勘違いをしてしまう」

 勘違い、か。

「……そう、でしたね」

 言い、できる限り微笑む。けれど強張った顔はいつも通りの笑みを形作れなかった。
 なぜ逃げなかったのか。そんなこと、言えるはずもない。
 明確な答えを返さないクリスに、国木田は口を噤んだ。そして、目眩に揺られるように布団へ倒れ込んでくる。ぽふ、と枕に顔から突っ伏した国木田から程なく寝息が聞こえてきたのを確認し、クリスは細く長く息を吐き出した。どうやら、眠気が彼を襲ったらしい。
 国木田が摂取した薬物は太宰に頼まれてクリスが調合したものだ。効き目は数分、すぐさま眠りに落ち、一時間程で目を覚ます。国木田もまた、しばらくすれば起きるだろう。
 完全に国木田の下敷きになった体を動かしてみようと試みるも、やはり無理だった。異能を使って抜け出すことはできる。が。
 息苦しくなったのか国木田がこちらへと顔を向けてくる。気の抜けた寝顔が目の前に、その寝息が頰にかかるほど近くにあった。それを眺め、そして全身から少しずつ力を抜く。

「……勘違い、して欲しいって言ったら、信じてくれますか?」

 呟きは寝息と共に静寂に溶けていく。


***


 翌朝、社屋にいつも通り時間きっかりに現れた国木田は、迷うことなく太宰へと掴みかかった。ありとあらゆる不満非難を並べ立てて怒鳴り散らした挙句肩を大きく上下させて息を切らした国木田に、太宰はきょとんと瞬きをする。

「国木田君、あれ媚薬じゃないよ?」

 何度かその言葉を脳内で反芻した。
「……うん?」
「だから、あの薬、媚薬じゃないってば」
「……うん?」

 此奴はさっきから何を言っている。

「あれは、クリスちゃんに依頼して作ってもらった免疫低下剤。数秒間だけ体の免疫機能を低下させる効果があって、つまり意図的に風邪をひくためのものだよ」
「……何のために」
「それは勿論、仕事をサボるためさ」

 キラリ、とでも効果音が出そうな決め顔で太宰は言ってのけた。

「風邪のふりをしても国木田君なんて特に信じてくれないだろう? なら実際に風邪をひいてみせれば良いのではないかと思い至ってね。それをクリスちゃんに言ってみたら作ってくれたのだよ。めちゃくちゃ高かったのだよ? あれ」

 なのに国木田君ったら捨てちゃってさ、と太宰はわざとらしく続ける。

「数分だけ体調が悪くなって、その後急激に眠くなる。で、一度寝たら健康体に元どおり。いやあ、素晴らしいよね」
「……だが、ラベルが……」
「ああ、あれ? 嘘だよ」

 そうもサラッと言ってくれるな。頼むから。

「にしても良かったねえ国木田君。目覚めたら彼女が隣にいたのだっけ? 添い寝なんて羨ましいなあ。……もし? もしもーし? ありゃ駄目だ、国木田君ったら意識飛んでるよ。あ、そうだ」

 呆然とする国木田に首をがっちり掴まれつつ、太宰はピシリと人差し指を立ててとても良い笑顔を浮かべた。

「一つ言い加えておくと、クリスちゃんは『媚薬』って漢字を読めないし意味も知らないと思うから」

 そういえば、と宇宙空間を飛んでいる心地で思い出す。
 太宰は一言も「媚薬」だとは言っていないし、クリスもその類のことは言っていなかった。調合がクリスだというのなら、彼女はあの薬物の正しい効果も知っていたことになる。
 つまり。

「つまり……?」

 国木田だけが、媚薬と勘違いして理性を失い欲望に身を委ねたということか。

「けれどまさか国木田君がそれを飲んでしまうとは。クリスちゃんは手強いねえ、今回は与謝野先生の勝ちか」

 あっはっは、と太宰は心底楽しそうに腹を抱えて笑っている。とても楽しそうだ、とても。
 ――地を揺るがすほどの怒号と嬉しそうな断末魔が探偵社から響き渡るのは、その数秒後のことである。
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