第4幕
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[君に焦がれる一つの理由]
太宰さんIF、というリクエストをいただいて書いたもの…だったんだけど太宰さんの片思いIFに終わってしまった。
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風が木々を揺らし、葉の擦れ合う音が涼やかに耳を擦過する。幹に頭を預けて空を見上げれば、青い空に白い雲という晴天そのものが太宰の頭上に広がっていた。いつもより幾分か近いそれに手を伸ばす。けれど手には何も触れず、諦めてダラリと脱力し、腕を宙にぶら下げた。
今日は少しばかり風がある。こんな日に首つりなぞをしていれば、風鈴のように体が揺れてさぞ楽しいのではないかと思い至ったのは出勤前。先日拾ったちょうど良さげな縄を片手にるんるんと散歩、目に入ったちょうど良さげな木にビビッと来たのですぐさま枝によじ登った次第であった。
太宰の肥えた目は正しく、太宰より数十センチばかり高い位置にある太めのこの枝は、太宰が座っても折れる気配はない。首つりに非常に適していた。けれど登ってみたところ景色も良く、ついつい見入ってしまっていたのである。
かれこれ数分ばかり空を見上げている。早くしなければ国木田あたりが太宰を探しに来てしまうだろう。首つりを中断するのは何度もあったことだし後日改めて試みれば良いので気にならないが、太宰の心を奪い去ったこの超絶なる縄を没収されるのはかなり困る。自然素材でできたこの縄は痕が残らなそうだし、ささくれ立っていないので手を痛める心配もない、それでいて太宰の体重に耐え切ることができる。こんな出会いはそうそうない。この縄が女性だったら即刻心中に誘っている。
「よっと」
上体を起こし、枝の上で身軽に体勢を変える。縄の片端をぐるりと枝に巻き付け、太宰秘伝の結び方でしっかりと固定。この独自の結び方は中也の馬鹿力でも解けず、器用な国木田が苦戦し、織田作に感嘆された経緯がある。ヨコハマに生える木に縄が巻き付いていたならば、それは十中八九太宰の首つり跡だ。
ちゃちゃっと縄を結びつけ、もう片端で輪を作る。太宰の頭が入り、なおかつ首を吊った際に重心がずれても顎の下に食い入って抜けないような大きさに。長年の研究成果だ。
「ようし、準備完了」
さて、と早速それに頭を突っ込んで枝から飛び降りようとした、その時。
「……おや」
ふと目に入った先に、見慣れた少女の姿を見た。亜麻色の髪に、青の目。休日なのか柔らかなロングスカートを身につけている。彼女は太宰に気付くことなく、すぐそばを通り過ぎようとしていた。
ふむ、と太宰は思案する。彼女と一緒に国木田をからかいはするものの、彼女を驚かすことはまだしたことがない。彼女もその生い立ちからか襲撃の類に慣れており、驚くふりはするものの心底驚いた顔を見たことはなかった。
にやりと笑いがこみ上げる。これはチャンスかもしれない。
「クリスちゃん」
囁くような声で名を呼ぶ。木のざわめきに紛れるほどの声だというのに、やはり彼女は立ち止まって周囲を見回した。
「……太宰さん?」
「こっちこっち」
彼女は地表ばかりを見て首を傾げている。枝に膝の裏を引っかけ、太宰はくるりと上体を落下させた。ガサッという音と共に、コウモリのように逆さまになった太宰がクリスの目に映り込む。
「やあ」
「わッ……!」
大きく目を見開いてクリスは身を縮めて硬直した。信じがたいものを見ているかのように青が太宰を凝視している。見たことのない表情だった。
見開かれた青が透き通る。瞳の中の水面が揺らめく。そこに太宰が映り込む。
「うん、良い反応だ」
「……な、何でそこに」
「朝の首つり体操」
「……なんだ、幻覚か」
「違うよぅ」
口を尖らせ、太宰はからりと笑った。
「いやね、今日は風が強いだろう? 首つりをしたらブランコのように体が揺れて楽しいのではないかと思ってね。で、今枝に縄を結びつけ終わったところ。ちょうどクリスちゃんの姿が見えたから声をかけたのさ。どう? 一緒に首つりするかい?」
「しません」
「楽しいよ?」
「嫌です」
「つれないなあ……じゃあ一度試してみると良いよ。なかなかこれがどうして癖になるか、ら?」
ずる、と枝に引っかけていた膝がずれる。話しているうちに気を緩めてしまったらしかった。足先が宙を蹴り上げる。あ、と思う間もない。
「ありゃりゃ」
落ちる。
「太宰さん!」
クリスが叫ぶ。走り寄ってくる。手を伸ばしてくる。逆転した世界が縦にスライドしていく中で、焦りと緊張を宿した青が目に焼き付いて消えない。
――ドサッ!
地面に激突する痛みと衝撃が、太宰に叩き付けられる。
***
「……さん、太宰さん!」
遠くから声が聞こえてくる。
「太宰さん!」
女性の声だった。悲痛ささえある響き。必死なその呼び声は段々と明瞭さを増していく。
ふ、と視界が色と光に満ちた。
「太宰さん!」
目の前で叫んでいるのはクリスだった。そばに膝をつき、動揺を隠さない様子で太宰の顔を覗き込んできている。
「大丈夫ですか!」
「……やあ、クリスちゃん」
もぞ、と体を動かす。腰が痛い。背中に当たっているのは木の幹か。さわさわと木の葉が擦れる音が上から聞こえてくる。太宰達に差し込む柔らかな木漏れ日。どうやら今の自分は件の木に寄りかかって座っているらしい。徐々に戻ってきた体の感覚に異常はない。強いて言うならば、硬い椅子に長時間座っていたかのように尻が異様に痛い。
臀部の辺りをさすり、太宰は「あ痛た」と声を上げた。
「痛いなあ、さすがに受け身を取り損なった」
「……太宰さん」
「うん?」
「頭から落ちたのになぜ腰を打っているんですか」
そこにあったのは困惑だった。それもそうだろう、彼女は太宰が落ちる瞬間をしっかりと目撃している。
「いやあ、長年自殺を試みてきたせいか、耐性ができてしまったようなのだよ」
「耐性……?」
「うん。自殺耐性」
「自殺耐性……?」
なんぞそれは、と言いたげにクリスは眉を潜めている。その髪や服がふわりとふくらみ、そしてゆっくりと下りていった。おそらく彼女は太宰を助けようとしてくれたのだろう。が、太宰は異能を無効化する。クリスの作り出した風は太宰を受け止めきれずに消滅したらしい。
「……すみません、何もできなくて」
「いや、完全に私のミスだ。君が気にする必要はないよ」
「珍しいですね。太宰さんがミスだなんて」
「私だって人間だ、そのくらいはするさ」
ふと、クリスが何かを見つけたようだった。太宰の頬をじっと見つめてくる。そして、それに触れるように手を伸ばしてきた。
「傷が」
指が頬に触れる。
青が、物憂げに揺れる。
――青に緑が差し込む。
青く広がる湖面に映り込む木々の深緑。風が波紋を広げ、柔らかな日の光がそれらに銀を散りばめる。
美しい、ただそう思った。いつも氷のように硬く鋭く冷ややかに太宰を見据えてきていたこの眼差しが、見たことのないほどにあたたかな美しさを宿している。これが笑みを含んだならば、どれほど素晴らしいのだろう。
これが、彼女の本当の色。
そして――同僚が常に間近で見ている景色。
怒声に似た張りのある声を、簡素で色気のない眼鏡の男を、妥協を許さない繊細な理想主義者を思い出す。
同じ世界、同じ職場、同じ時を過ごす者。だというのに、太宰に向けられるのはこの色ではなく、疑いと敵意で満ちた硬質な刃だ。
世界に順応し光を宿して生を絶対とする国木田と、世界に逆行し闇を知りながら生に死を探す太宰。世界から弾かれ闇に生きるしかないクリスと近しいのは、太宰の方であろうに。
「……妬けるなあ」
頬に触れる手を引っ掴む。美しい青が穏やかさを失い驚愕に染まる、その一瞬のうちに、もう片方の手を彼女の後頭部へ当て、強く引き倒し肩口へと抱き寄せる。
亜麻色が頬をくすぐる。ふわりと甘い香りが周囲に充満する。嗅ぎ慣れた匂いだ。女性特有の、胸に重く染みこむ毒の香り。理性を奪い衝動を逸らせる乙女の魅惑。
ああやはり、彼女もまた、かぐわしい。
甘い誘惑に目を閉じる。顔を亜麻色に埋め、強く香りを放つ柔らかな白い肌に唇を寄せた。
***
風が耳元で唸っている。
顔を上げ、太宰は強引に抱き寄せた少女を改めて見下ろした。掴んだ手が、押さえつけた後頭部が、目の前の肩が、細かに震えている。何かを必死に押さえつけるような荒い呼吸音。
「……君の異能は私を殺せないというのに」
「……は、な、して」
「安心したまえよ。私は君の友人や国木田君とは違う、君に傷付けられることはない」
「離して」
彼女が放つのは強い拒絶。牙を剥き吠え立ててくる犬が見せるような敵対心。クリスが人を恐れるのは、自らの異能が相手を八つ裂きにするからだ。太宰にはその心配が要らない。世界で唯一、安心できる相手だということは誰の目から見ても確かだというのに。
それでも、彼女は。
「……やはり駄目か」
太宰を、同僚と同じようには見てくれない。
両手を彼女から離せば、すぐさまクリスは身を引いた。息を整えるように胸元に手を当て、太宰を鋭く睨めつける。
見慣れた青。相手の心を抉り内部を掻き出そうとする刃の眼差し。
「何のつもりですか」
「別に」
降参するように両手を広げ、太宰はにこやかに笑った。
「ちょっとした気まぐれさ」
気まぐれ、と彼女は口だけを動かす。青が何かを察したように煌めいた。それに気付かないふりをし、太宰は肩を上下させる。
「すまなかったね。怪我は?」
「……いえ」
「なら良かった。このことは国木田君に言わないでおくれよ? 最近怒りっぽくてね。牛乳を飲むように勧めているのだけれど、今度はサプリメントでも机の上に置いておこうかと思っているのだよ」
太宰の冗談に、クリスは表情を変えなかった。無言で太宰を見つめている。相手の動きを探る目つきだ。少しでも妙なことをすれば、彼女が隠し持っているナイフがすぐさま太宰を襲うだろう。
敵わない。大方の女性は強引に抱き寄せれば色恋の気配に呆気なく酔い潰れるというのに、彼女にはそれが効かない。恋愛などよりも重要で重大な責務が、彼女にはあるからだろう。故に彼女は普通の乙女ではいられない。常に敵を切り裂く牙を隠し持って、周囲に潜む狩人を見定め、追い詰め殺す。
彼女はそういう女性だ。その美しさを身の内に隠して世間から自らを隠している、棘ばかりを身に纏った孤高の蕾。咲いてもいないそれへ、同僚は傷だらけになりながら手を差し伸べ続けている。彼が彼女の眼差しと心を奪っているのは当然のことかもしれない。
彼にしか、彼女は手に入れられないのかもしれない。
「……太宰さん」
ふと名を呼ばれ、太宰は「何だい?」と朗らかに返す。彼女は笑みのない眼差しで太宰を射竦めていた。真っ直ぐに、誤魔化しも嘘もなく、太宰を見据えている。
息を呑む。
その光は、似ていた。
「……わたしは、誰の思いにも応えられません。誰に縋ることもできません。拒んで、否定する以外の方法を知りません」
――同僚の、それと。
「……知っているよ。君はそういう子だ」
「けど、誰かの思いを無下にするようなことはしたくないと……最近、思うんです」
そこでようやく、太宰は違和感に気付いた。手だ。何気なく地面へと落とした自分の手に、何かが触れている。それを見下ろし、太宰は何も言えなくなった。
「……今でも、誰かに触れることは怖いです」
細かに震える彼女の手が、太宰の手に重ねられている。
「あの人のことを、あの時のことを思い出すから。でも、だからと言ってあなたを拒む理由にはならない」
彼女は震えを掻き消す強い声で続けた。
「わたしは探偵社の皆さんに救われた。あなたにも助けてもらった。だから、わたしはあなたを拒みたくはない」
呆然とその青を見つめた。
どこまでも真っ直ぐな意志が、そこにはあった。色の美しさなどどうでも良くなるほどに、心奪われる愚直さが、堅実さが、そこにはあった。
見知っているものだ。彼のものと同じ。
呆れるほどに嘘もからかいも信じ込む、光を失わない強さ。
「……変わったね、クリスちゃん」
張りのないこの声は誰のものだろう。
「他人のことを考えるなんて、以前の君にはできなかっただろうに」
「あなた方のおかげですよ」
そう言って、クリスは目元を緩めて微笑んだ。
***
騒がしい足音が駆け寄ってきたのはその時だ。
「おい、太宰!」
「やあ国木田君」
ひらりと空いていた方の手を振る。不機嫌極まりない様子で眉間のしわをこれでもかと深めた彼は、予想していた通り「出社時間をとうに過ぎている」だの「電話に出ろ」だの「入社して二年にもなるのに何だこのていたらくは」だのと喚き立ててくる。
「谷崎や敦、鏡花の方が社に適応しているとはどういうことだ! クリスもだ! こいつが軽佻浮薄の化身のような奴だということは言い聞かせてあっただろうが! 二人きりになるなとあれほど」
「その点は問題ないって何度も言っているんですが……ほら、太宰さん相手で異能が使えなくても、多分殺せるし」
「殺すな!」
いつものようにどこか世間とずれたやり取りをした後、国木田は「全く」と呆れた様子で一息ついた。
「で? 太宰、今日は何をしていた」
「何って、朝の散歩」
「木に結んであるその縄は何だ」
「気付いてたの? しょうがないなあ、使って良いよ」
「誰が使うか馬鹿者」
「肩凝り酷いんでしょう? ほらほら、朝にやっておくと夕方まで保つから」
「お前の言う『首つり健康法』は今後一切信じないからな!」
「ちぇッ」
何度も繰り返すうち、どうやら国木田も学んでしまったらしい。新しいネタを考えておかなくてはいけないようだった。クリスも真剣な様子で「じゃあどうしよう」と呟いているので、考えていることは同じらしい。後で秘密会議でも開こうか。
そんなことを考えた後、太宰は困ったように肩をすくめてみせた。
「木から落ちてしまってね。腰を強く打って、クリスちゃんに慰めてもらっていたのだよ」
「何? そんなに酷い落ち方をしたのか」
「顔が傷付いた。ショックで微塵も動ける気がしない」
「貴様……」
ピクリ、と国木田の額に血管が浮かび上がりそうな気配。一々反応を返してくれるので、いつまで経っても飽きる気がしない。
さて、ひとしきり国木田で遊んだので、そろそろ真面目にするとしようか。
そう思って立ち上がろうとした時だった。
「ッたく」
不意に鼻先に手のひらが差し出される。きょとんと数度瞬きをしたが、それが夏の陽炎の如く消えることはなかった。
「ほら」
国木田が手を差し出している。掴め、ということか。
――すう、と目を細める。
国木田がここに来ることは知っていた。タイミングを図り、クリスを抱き締めている光景を見せてやったらどれほど面白いだろうかと思ったのは確かだ。実際のところ彼女の拒絶が激しかったので叶わなかったが、太宰のそばにクリスがいるこの光景を見て、国木田が何も思わないわけがない。
けれど、彼は手を差し伸べてくるのか。
――その目に懐疑を宿しながらも、君も私を切り捨てないのか。
「……ふふ」
微笑んでしまったのは、敗北を認めたからだ。
孤独から顔を上げ、他者へと手を差し出す強さを覚えたクリス。彼女を導いたのは紛れもなく国木田であり、これからもそうなのだろう。
入る余地もない。遠く離れた場所から一人、彼らを見守ることしかできないではないか。
「参ったねえ」
差し出された手を掴み、立ち上がる。うーんと腰に手を当てて上体を逸らし、伸びをした。
「あー、腰が、ゴリゴリ伸びるぅー」
「全く、少し目を離せば何をするかわからんな貴様は」
国木田が呆れた様子で頭を掻く。
「首輪でもつけるか」
「やだ国木田君、そういう趣味があったなんて知らなかったよ」
「違うわど阿呆! 貴様がつけるのだ貴様が! 出社時間は守らないわ女性を口説くわツケを溜めるわ全くもってけしからん! 首つりなどといった世間に迷惑をかけるようなことをせずとも、俺がこの手で貴様を机に結びつけてやるわ!」
「あ、良いことを思いつきました!」
ぱん、と小気味良く鳴らされたのは、クリスが両手を打ち合わせた音だ。
「手、繋ぎましょう」
彼女は突然そう言い、にこりと笑った。
「我ながら名案ですね! 早速そうしましょう!」
「……は?」
困惑する国木田の手に、彼女はするりと自らの指を絡める。一瞬で国木田が硬直する。太宰がその様子を笑い指摘する暇はなかった。クリスは太宰にも、もう片方の空いた手を差し出してきたのだ。
「はい、太宰さん」
女性らしくも、ナイフや拳銃を握り慣れているであろう手が、何も持たないまま太宰へと向けられている。
ざわり、と一際強い風が太宰に吹き付けた。
動かない太宰を見越してか、クリスは自ら太宰の手を掬い上げてくる。微かに震えを宿したその指が太宰の指に触れる。柔らかなあたたかい体温がじわりと染みる。
「これなら誰も一人になりませんよ」
言葉に表さない意図を声に宿し、少女は太宰へと微笑んだ。
――わたしはあなたを拒みたくはない。
それは、太宰を一人にはしないということか。
探偵社に救われ孤独から顔を上げた少女の、先へと進むための決断か。
隣にある全てを救うという国木田から得た、答えか。
「……敵わないね」
少女が微笑んでいる。青が緑を孕み、白磁の頬に朱が灯る。きっと君は美しい。けれど太宰がクリスに心惹かれる理由は、見た目ではなかった。
孤独だ。太宰に近しい絶対的な孤立。闇を見据え生を強いられ死に希望を見出してしまう、その境遇。惹かれたのはきっと、その息苦しさを分かち合いたかったからだ。
けれど、と太宰は自嘲し目を閉じる。
君にあるのは、その陰鬱なる泥濘だけではないらしい。
同僚の面影に似たその優しさも、今や彼女の魅力の一つか。
太宰のものより小さなそれを握り返す。彼女に引かれるように木陰から日向へと足を踏み出せば、太陽の光が太宰をあたたかく照らし出した。