第2幕-続
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[My dear Valentine]
バレンタインの話。
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楽屋のテーブルの上でどっさりと山積みになったそれを見、クリスは目を瞬かせた。
「……何かの間違いですか?」
「恒例行事ですよ」
すごいなあ、とその山を見つつ、ヘカテが笑う。
「バレンタインデーになるとファンの方からこうしてプレゼントが届くんです。でもリアのはすごい数だなあ……こんなにもらってる人、僕の知り合いにはいませんよ」
「バレンタインデーって……そういうものなんですか?」
「そうですよ? あ、そうか、リアは日本に来て間もないから知らないんですね。日本で定着してるバレンタインデーは海外のとはちょっと違うんです」
そう言って、ヘカテは日本のバレンタインなるイベントについて教えてくれた。曰く、女性から男性へプレゼントを通して愛を伝えるという日であり、最近では同性の友達や家族、職場の同僚といったお世話になっている人へもプレゼントを贈るイベントと化しているらしい。
「あげるものも宝石や花ではなくチョコレートが定番なんです。最近では好意を示す方法ということで、こうやって好きな芸能人とかにあげることもよくあるんですよ。もらえる数が人気具合に直結するのでわかりやすいですし、ネタにもしやすいんでしょうね」
「へえ……」
なるほど、と顎に手を触れ考え込む。
「つまりこれは贈答合戦……?」
そういえば最近、どこを見てもピンク色の背景に洒落た筆記体の広告が貼り出されていた。それにチョコレートやお菓子作りキットなるものも多く店内に置かれていた気がする。そういうことだったのか。
「……それで、わたし宛てのプレゼントがこんなにたくさん……」
「さすがリアですね!」
朗らかな笑顔でそう言うヘカテだが、確か彼宛てのプレゼントもそれなりに数があったはずだ。ヨリックが「若いって良いよなあ」と悔しそうに言っていたのを思い出す。若いからというわけではないだろうし、もらえなかったのなら買えば良いと思いもするのだが、きっとそういう問題でもないのだろう。
「リアは誰かにあげたりするんですか?」
ふと思い至ったかのようにヘカテが首を傾げてくる。うーん、とクリスは視線を逸らして黙り込んだ。世話になっている同僚から今の話を聞いた後に「ものをあげる気はない」と答えるのは何だか悪い気がする。しかし今さっき知ったばかりなので手持ちはないし準備もできない。どうやら政府機関の情報だけでなく、こういった行事の情報もあらかじめ収集していなければいけなかったらしかった。
「ああ、いや、そういう意味で言ったわけじゃないですよ!」
無言になったクリスに何かを察したらしい、ヘカテはわたわたと両手を振り回した。
「強制的にやらなきゃいけないことでもないし!」
「……じゃあこのプレゼント達を皆さんに配るのはどうでしょう?」
「それはいろんな意味でちょっと……」
駄目か。
再び考え込む。ヘカテと話し合った結果、今回は諦めることにした。申し訳ないが、もし次があったのならその時に倍にして贈ろうと思う。
「男の側からすると、女の子からいくつもらえるのか、好きな子からもらえるのか、ってそわそわする日でもあるんですけど」
先程まで少し残念そうにしていたヘカテは、ふと何かを想像したかのように照れた笑いをクリスから背けた。
「リアからチョコレートをもらえた人は、どんなに遅れたとしてもとても嬉しいと思いますよ」
***
「それは勿論、嬉しいに決まってるよ」
クリスと共に街を歩きながら、段ボール箱を抱えた谷崎が笑った。
「クリスちゃんが相手のことを考えて贈ってくれたものなんだもの。日付なんて関係ないよ」
「そうですわ」
谷崎の隣でナオミが大きく頷いた。
「それも、当日に知って『じゃあ来年からそうしよう』ではなくて今年から何かをしたいと思っているんですもの。健気で素敵です」
「いや、日付も気になったんですけど、別にそういう意味じゃなくて」
わたわたとクリスは両手を振って否定した。
「……わたしから何かをもらったところで、何か意味があるとは思えなくて」
「意味がないわけがないよ」
谷崎の笑顔は優しい。
「誰であっても誰かを思うことは尊いことだし、誰かのために何かをするのは無駄なことじゃない。ボクはそう思うよ」
「……誰であっても?」
「ボクでも、ナオミでも、クリスちゃんでも」
――わたしが、誰かへ何かを思うたびにその人を失ってきたとしても?
その言葉は言えなかった。その代わりに、考え込むふりをして前を向く。ショーウィンドウに今日の日付が筆記体で描かれ、ハートの形をした切り紙や風船がそこかしこで飾られている。少しばかりめかし込んだ街は浮き足立っているようだった。しかし空は既に夕日色を帯び始めている。特別な一日は終わりを告げようとしていた。
「それにしても、これ、本当に良いの?」
これ、と谷崎が腕に抱えた段ボール箱を軽く持ち直した。中で軽い箱達がぶつかり合う音が聞こえてくる。クリスはにこりと笑ってみせた。
「食べませんから」
「でも、せっかくファンの人達からもらったのに……」
「わたし個人宛てのものは口にしないことにしているんです。とはいえ全てを開封して毒の類が注入されていないことが確認できたものだけをお渡ししますから、皆さんが食べる分には害はありません。要は気分の問題ですね」
一応毒耐性はあるが、それも諜報組織にいた頃につけたものだ。意図的に毒を摂取しなくなって久しいので、安心はできない。
にこやかに言ってのけたクリスに、谷崎とナオミは浮かない顔をした。それはプレゼントを渡してきたクリスのファンへの同情か、もしくはクリスの警戒心の高さへの憐れみか。どちらでも良い、とクリスは気付かないふりをする。
「何にせよその数は食べ切れませんし、廃棄しようとも思っていたんです。皆さんに食べてもらえるならとても助かります。後で依頼料の見積もりください」
「いや、『もらいすぎたバレンタイン菓子を代わりに食べる』程度ならお金なんて取らないよ」
「でも技術に対して報酬は必須ですし」
「食べることに技術も何もないから……」
「じゃあそれを運んでいただいているお礼」
「ボクは配達業じゃないし、劇を見に行った帰り道なだけだから……」
谷崎が困ったように眉を下げた。ふふ、とナオミがその横顔を見つめて満足げに微笑んでいる。
「困った顔のお兄様の横顔……うふふッ」
「いやいやナオミ、クリスちゃんを説得してくれるとありがたいんだけど……」
そこまで言い、谷崎は「あ」と声を上げる。何かを思いついたようだった。
「じゃあさクリスちゃん、うちにおいでよ」
「……え?」
「まだチョコが余ってるから、それで何か作ろう。今から作れば、明日には間に合うと思うよ」
「つ、作る?」
「うん」
クリスはあの濃茶色の固い物体を思い出した。魚の干物に似た見た目によらず、口に含むとすぐにとろけて甘苦い味が舌に広がる、チョコレートという名の食べ物。板状のものならよく市販されているのを目にする。
作れるのか、あれ。工場でもない、一般家庭で。
谷崎の笑顔は屈託がない。隣のナオミも似た笑顔を向けてきた。
「それは良い案ですわ! さすがお兄様! クリス、ぜひいらしてくださいな」
「良いんですか……?」
「大丈夫ですわ、むしろちょうど良いですし」
「ちょうど良い?」
「ふふッ」
クリスの問いかけに、ナオミは楽しげに笑うだけだった。
***
夜、街は闇色に包まれ、その暗がりに街灯や照明が穴を開けている。車の往来も減り、空には星がちらついていた。人の気配は少ない。冷えた風が時折街を駆け抜けていく。
マフラーで口元を覆い、一息つく。外気よりあたたかな吐息がふわりと白い霧となって鼻先に昇って消える。
「……さすがに夜は寒い」
呟きつつ、探偵社ビルの四階を見上げる。明かりがついているのが遠目からでも確認できた。どうやらまだ仕事をしているらしい。手に下げたコンビニ袋を再度握り締め、クリスはビルの中へと入っていった。
階段を上がり、四階に辿り着く。探偵社の名札がかかった扉を素通りし、クリスは給湯室へと向かった。真っ暗な中目を凝らして、電気をつける。一瞬目を刺した痛みに耐え、中へと足を踏み入れる。
谷崎に教えてもらった通り、そこには電子レンジが備えられていた。コンビニ袋から中の物を取り出し、水場の横に置く。牛乳、そして板状チョコレートだ。来客用マグカップの一つを棚から拝借、その中に牛乳を注ぎ電子レンジで数分。その間にチョコレートをある程度砕いておく。温まったマグカップを取り出し、その中にチョコレート片を落としてティースプーンでぐるぐるとかき混ぜる。湯気の立つ牛乳が見る間にチョコレート色に染まり始め、液体の粘度も変わっていく。チョコレート独特の香りがふわりと給湯室に広がった。ある程度入れたところで牛乳をさらに加えて、再度電子レンジへ。
「……チョコを作るって言うから原材料から作るのかと思ったけど、こんなに簡単でも作ったことになるんだなあ」
包丁も鍋も持ったことのないクリスに板チョコレートを切り刻んだり湯煎で溶かしたりといった動作はかなり難易度が高かった。それを見た谷崎が提案してくれたのが、これだ。
電子レンジがチンと音を立てる。カチャと戸を開けてそれをそっと取り出した。白い湯気に甘みの香る、ホットチョコレートなるもの。
火傷しそうなほど熱いそれをそっと持ちつつ、クリスは給湯室から出た。あえて足音を立てて廊下を歩き、唯一明かりの灯った部屋の扉の前へと辿り着く。コンコンコン、と三度ノックした。
「お邪魔します」
扉を開ける。部屋の中では予想通り驚いた様子でこちらを凝視している国木田がいた。
「……なぜ?」
言葉少なに問うその目元には隈がある。心なしか顔色も悪い。
「二徹目だと聞いて」
「……谷崎か」
「察しが早いですね」
「今日、ナオミと観に行くと言っていたからな」
言い、国木田は再び机に向かった。キーボードがカタカタとひっきりなしに音を立てる。机上は冊子状のものが山積みになっており、多忙さを窺わせた。
クリスは鏡花の席の椅子に座った。足先でちまちまと床を蹴りつつ国木田の横に移動し、パソコン画面を覗き込む。軍警への資料のようだ。昨日の夜に起こった件の報告書だった。例の如く探偵社から密かに拾い集めた情報では、確か明日の早朝に軍警内で報告会が予定されていたはず。昨日の夜勤にに関する書類の早急な作成となれば徹夜は必須である。
「……なるほどそういうことか」
「……察しが早いようで?」
「イヤァ何ニモワカリマセン」
「ほう?」
「……探偵社はそろそろわたし対策にセキュリティを強化すべきだと思います」
「金の無駄だ、どうせすぐに突破される」
「察しが早いようで……」
くだらないやり取りをしている間にも、国木田の手は止まらない。手元にあるマグカップを見下ろし、少し考えた後、国木田へと目を移した。
「国木田さん」
「何だ」
「少しだけ、お時間いただけますか? すぐに帰ります」
一つため息をついた後、国木田は一行書き切ってから手を止めた。どんなに忙しくとも苛ついていようとも、一旦はこちらの言い分を聞いてくれるのが国木田である。
眼鏡を押し上げ、国木田がこちらを向く。何だ、と言おうとしたそれを遮って手の中のマグカップをずいと押し付けた。
むわり、と立ち昇った湯気が国木田の眼鏡を曇らせる。
「……見えん」
「……こんなに上手くいくとは思わなかった」
「わかっていないとは思えんが……俺の予定を乱す奴は誰であっても許さんぞ」
「今日はそういうわけじゃないです。安心してください」
「明日以降は」
「……明日以降のわたしに直接聞いてください」
「おい」
声に怒気が乗った国木田より先に、クリスは机の端にマグカップを置く。レンズを拭こうと眼鏡を外した国木田が、動作の一切を止めてそれを凝視した。
「……これは?」
「ホットチョコレートだそうです。谷崎さんに教えてもらって。疲れに効くし、あたたまるし、徹夜には良いと思います。……味見をお願いしたいんですけど」
「味見?」
国木田が怪訝そうな顔でクリスを見遣ってくる。その視線から逃げるように他所を見つつ、マフラーで口元を隠した。
「……知らなかったんです、バレンタインデーというものがどういうものなのか。劇団の方は諦めて、探偵社の皆さんにだけは明日にでも何かを贈ろうと思って……それで、給湯室に電子レンジがあるってことでホットチョコレートの作り方を教えてもらったんです。聞いたら、国木田さんが今日も社にこもってるって言うし、様子を見に行くついでに練習してみようって思って……駄目ですか?」
「いや」
首を振り、国木田は眼鏡をかけ直して机上のマグカップを見つめた。ココアに似た見た目のそれを、ひたすらに見つめている。その視線の意味がわからず、クリスは口を閉じた。
仕事の邪魔をして不快にさせただろうか。しかし仕事の邪魔なら今までも散々している、今更この程度で機嫌を損ねるとも思えない。では何だ、チョコレートが苦手だとか、そういうことか。もしくは。
――わたしが作ったものなど、口にできないということだろうか。
だとしたら。
ぐ、とマフラーを掴む。毒の可能性を考えるならその思考は妥当だ。実際クリスもそうした。ファンからの贈り物の一切に口をつけるつもりはない。誰かを思って何かをしても、それに応えてもらえないなんて良くあることだ。
誰かへ何かを思うたびに、その人に裏切られたりその人を殺されたりしてきた。思いが望む形のまま返ってくることなどそうそうない。見返りを求めるわけではないけれど、思いを踏みにじられるような光景はもううんざりだ。ここは、クリスを取り巻くこの世界は、そういう世界だった。
それはよくわかっている。わかっているからこそ、クリスは誰よりも先に相手を拒み、誰よりも先に裏切る。そうしなければ拒まれるからだ、そうしなければ裏切られるからだ。
だのに、拒まれる側に立つとそれが恐ろしく思えてしまうのは、自分の行動を棚に上げたわがままか。
「……すみません、やっぱりご迷惑でしたよね。帰ります」
立ち上がりマグカップへと手を伸ばす。けれどその手は宙を切った。
国木田の手が先にマグカップを掴み上げていたからだ。
「……国木田さん」
「バレンタインデーというものが何かを、知らなかったと?」
「そ、うですけど」
「……これは、明日社員へ渡すための練習だと」
「はい……」
「そうか」
そうか、と何度か国木田は呟いた。そしてそのまま、マグカップに口をつける。カップが傾く。液体を飲み込む喉の音が静寂の中で大きく聞こえてくる。
――飲んで、くれた。
その事実に気付き、呆気にとられた。この光景を期待していたというのに、実際に目にした瞬間どうしようもない動揺が胸を突き動かした。大声で喚きたいような、ただただ泣き出したいような、何がしたいのかわからない混乱。それらを鎮めるように、目の前の光景を見つめる。
国木田がカップから口を離した。軽く唇を噛み、そこに残っていた甘さを舌で舐め取る。
「悪くない」
こちらを見、国木田は微かに微笑んだ。
「美味い」
「……本当、ですか」
作り方の簡単な、何も苦労していない飲み物。美味いと言われたところで、クリスが味付けをしたわけではないので当然のことではある。けれど、なのに、どうしてか胸は浮き立って。
「……良かった」
マフラーに顔を埋める。今、自分はどんな表情をしているのだろう。自分のことなのにわからない。とにかくそれを見られるのは恥ずかしい気がして、鏡花の椅子を元の場所に戻しつつ国木田から顔を背けた。
「そ、それじゃわたし帰りますね。明日、また……」
言いかけ、しばし逡巡、そっと続ける。
「……また、作りに来ます」
その時、また、あの言葉を聞けたのなら。
――そう思うだけで心が弾んだのはなぜなのだろう。
***
そそくさと帰っていったクリスを見送り、国木田はマグカップを机の端に置く。そして大きなため息をついて顔を手のひらで覆った。
「……谷崎め……」
日本のバレンタインデーを知らなかったクリス。今日それを知り、谷崎にようやく教えてもらったのがこのホットチョコレート。探偵社員にそれをお披露目するのは明日。つまり。
――彼女の初めてのバレンタインデーの相手が、国木田だったことになる。
「……仕事、しよう」
言い聞かせ机に向き直る。あたたかな甘さが体内に灯り、心なしか頭の疲れを癒してくれた気がした。