第4幕
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[君よ、幸せであれ]
DEAD APPLE以前の、ベンの話。
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いつか会えたのなら、なんて考えてもいなかった。
ただ、どこかで生きていてくれたら良い。できれば幸せでいて欲しいが、きっと彼女には難しいだろう。なら、とにかく生きていて欲しい。そうしたらきっといつか、幸せになれる場所を見つけられるから。
そうウィリアムも言っていた。あいつが言っていたのだ、彼女は、クリスは必ず幸せになる。
その時まで生きていてくれたら、それで良かった。
「……まじかよ」
暗い夜道、人気のない霧の立ち込めた道路に立ちふさがる巨大な影を見上げながら、一人呟いた。
久し振りの帰宅日だった。軍人の生活は不規則だ、いつ本国に帰れるかどころか、いつ陸地を踏めるかさえわからない。少しの休暇の後はすぐさま出国。毎月きちんと支払っている家賃がばか高く思えてくる。
――あの研究施設を失った後、口封じもなく軍に転属となった。
自分一人だけが生き残った異能研究施設。無論国の極秘機関による尋問は受けた。それへとウィリアムから教わった通りに応答しただけだ。それだけで、洗脳も何もなく、第二の人生を歩んでいる。
第二、ではなく、第三、かもしれない。あの施設に立ち入った時から――大学自体の友人と再会し、研究対象の少女と顔見知りになった時から、俺の人生はそれまでとは全く違うものになった。それまでいた研究施設は終戦によって役目を終え、既に解体されている。かつての同僚である時間操作の異能者とは連絡が取れていない。異能研究者とはそういうものだ、一期一会、会って知り合ったかと思えばすぐさま連絡が取れなくなる。
目まぐるしく変わる人生だから選んだ道でもあった。物語のような苛烈な人生に憧れていなかったわけではない。あの場所での穏やかで悲しい日々は、ある意味自分自身が望んだものでもあったと言える。
ならば、もしかしたら。
この結末も、望んだ通りなのかもしれない。
「……は、はっ」
笑いがこぼれた。引きつったそれは、他にするべき表情がわからなかったせいかもしれない。泣くにしては涙が出ず、怒るにしては激情が湧かず、怯えるにしては目の前の巨体は親しみがありすぎた。
一歩下がり、さらに一歩下がり、足をもつれさせてぽてりと尻もちをついた。阿呆丸出しの自分に、普段だったら耐えられなかっただろう。けれど今はそんなことはどうでも良かった。
巨体が見下ろしてくる。ぬるりとした赤い液体をぼたぼたと垂らしているそれは、人間の腕と足をいくつも引っ付けていた。化け物だ。腹は裂け、抱えきれなくなった臓物がぼとりぼとりと落ちている。呼吸ができなくなるかのような血臭。頬を掠める、湯気じみた体温。
ここにはいないはずの、赤い化け物が、いた。
幻影だ、と気付く。夜の、街灯がおぼろな街中で、その姿をこれほど鮮明に見ることはできない。何よりこの化け物は他の誰が知るはずもない、過去の遺物だった。再現できるわけがない。これは、俺の記憶から抜き出された幻影だ。
ぺた、とそいつが一歩こちらへ歩み寄ってくる。鉄板に打ち付けてぺしゃんこにしたかのような人間の顔の原型を留めていないそれが、こちらの顔を覗き込むように首を傾げてくる。
幻影、おそらくこれは誰かの異能だろう。しかし、なぜ。
「おい、あんた!」
背後から焦った声が聞こえてくる。と同時に、背後から誰かが腕を掴んできた。俺を無理やり立たせ、化け物から引きはがす。
「こっちだこっち!」
「ちょ、ま……!」
「早く逃げろ!」
逃げる。ああ、そうか、逃げなくてはいけないのか。
化け物を前にした人間とは思えない思考の鈍さで、そう思った。
***
俺を助け出してくれた男と共に、誰もいないビルのエントランスで床に座り込んだ。聞けば、このビルに入っている会社の社員だという。普段は誰かしらがフロアにいるはずなのに、と彼は恐怖と混乱のままに自らの爪を噛んだ。
「さっきも変な奴に追いかけられて……オレと同じ異能を使いやがって……」
「……異能?」
「しかもオレは使えなくなってたんだ! みんないなくなるし、霧が濃くて奴がどこにいるかわかんねえし、何なんだよ……!」
異能を所持していることを明らかにするなど警戒心が浅い気がする――と考えてしまうは軍人だからだろうか、それともウィリアムから「できる限り隠せ」と言われていたからだろうか。
偶然出会った異能者。
そして、あの幻影もおそらくは、異能によるもの。
嫌な予感がする。
「なあ、あんたの異能って」
訊ねようとした、その時だった。
どろり、と視界の隅で何かが垂れた。
顔を動かす。エントランスを囲む全面ガラスに水が垂れている。透明なそれに映る夜の街とエントランス内の男二人が、歪んでいる。
ふ、と冷風が頬を掠めた。
――否、水ではない。
ガラスそのものが溶けている。外気がそこから入ってきているのだ。
「来た……ッ」
男がおののいた。
じわり、と汗がにじんでくる。外気とは異なる熱気が突如エントランス全体を埋めつくす。どろりと壁の塗装が溶け、その奥に隠されていた鉄骨が露わになり、さらに赤みを帯びて溶けていく。
異常な変貌。
これも、異能だ。
「あんた、どうにかしてくれよ!」
男がしがみついてくる。
「オレの異能は、触れた物の温度を変える! このままじゃこのビルが溶かされちまう! さっきは地面を凍らされて、動けなくなるところだったんだ!」
「無茶言うな!」
「あんただって何か異能持ってるんだろ! さっきの化け物だって異能じゃなきゃ説明できねえよ! よくわかんねえけど、今この街には異能者しかいねえし異能が暴走してんだよ!」
異能の暴走。
頭が次々に記憶を持ち出してくる。それらから情報が掻き集められ、積み上げられていく。
霧。異能者以外が消えた街。所持者の意思とは無関係に暴走する異能。異能に襲われる異能者。なぜ異能は暴走している? 異能と異能者は密に繋がっている、その繋がりは神経細胞によるもので、手足が勝手に動くわけがないのと同じく異能が勝手に動き回ることは決してない。ない、はずだ。
俺達の異能に対する考え方が正しければ。
――肯定できる根拠がないのと同様、否定できる根拠もない。完全に拒絶するわけにはいかないよ。
いつ聞いたか全く覚えていない友の言葉が、なぜかはっきりと聞こえてくる。
「……異能の、抵抗性」
呆然と呟いた。
曰く、異能は意志を持っており、己を使役させることに対して抵抗を示すことがある。その抵抗性によって誰もが異能者になれるわけではないし、異能が所持者を必ず幸せにするわけでもない。
意志。
異能の、意志。
もしそれが本当にあって、意志の方向性を暴力的なものにする異能か作用がこの世界にあったとしたら。
所持者を襲うようにする、精神操作めいた異能向けの異能があったとしたら。
「うわあああっ!」
男が叫んだ。
彼が見たものを、俺も見た。
玄関先、ガラス張りのエントランスに相応しい大きなガラスでできた自動ドア、その溶けた入口から入ってくる巨体。赤く、血と臓物を垂らすそれは、熱気に包まれ鉄すらも赤く染まったこの場所ではひどく馴染んで見えた。
赤。炎、血臭。村めいた実験施設、カメラの形をした時間操作器具、湯気の消えないコーヒーカップ――全てを吹き飛ばし燃やし尽くした爆発。
懐かしい気持ちになった。
男が俺を引っ張り何かを叫ぶ。俺は気にせず立ち上がり、化け物の方へと向かい始める。男が制止と救命の声を上げる。溶けた何かが天井から落ちてきた音と共に、それは聞こえなくなった。
熱に包まれたエントランスの中で、俺はそれと向かい合った。
「……熱かったよな」
あの日、最後に俺は研究施設を爆破した。ウィリアムの遺体――を混ぜ込んだ肉片も、あの場所で燃えたはずだ。
「……痛かったよな」
友情を超えた愛情に気付き始めていた彼は、大切に思えるようになった少女によって切り殺された。その体は彼女が容易に殺意を抱けるようにと化け物然としたものへと変えられた。彼一人だけではなく、複数の用済みな人間を組み合わせて作り上げた化け物――〈赤き獣〉。それは化け物から徐々に人間へと姿を近付け、暴力的な異能を発現した少年少女達に「人間の見た目をした〈赤き獣〉」として認識させ、最終的には敵国の人間全てが〈赤き獣〉であると教え込むことになっていた。だから、この化け物は人間の手足や体つきをそのまま残しているのだ。人間のなり損ないではなく、人間に近付いている途中の化け物。
それを作り上げる実験は、きっと耐えきれない屈辱と絶望に満ちていたことだろう。
手を伸ばす。差し出した手を、化け物は不思議そうに眺めてくる。
「一人にして、ごめんな」
ウィリアムを一人にしてしまった。あいつには俺しかいなかったのに。俺がもっとしっかりしていれば、あいつの無謀な作戦にいち早く気付いてクリスと三人で施設を抜け出す作戦へと切り替えることができたはずだ。みんな生き延びられたかもしれない。少なくともウィリアムは、その頭脳があったなら生き延びられたに違いない。
「……俺さ、ちゃんと役をやりきったよ。クリスは〈手記〉を手に入れられるようになった。いつあの偉そうな米国人が渡してくれるかはわかんねえけど……お前が考えた脚本だ、問題なく渡せる。クリスは幸せになるよ、他ならぬ俺達がそうしたんだからな」
空気が膨れ上がっていく気配。呼吸がおぼつかなくなる。酸素がなくなってきているのだ。この先に起こることを俺は知っていた。
異能の暴走。幻影の異能と、温度操作の異能。二つの異能が集まったこの場所にいる俺の異能は。
二つ以上の異能を融合し、一つの異能を作り上げる。
「帰ろう、ウィリアム」
俺は目の前の幻影へと笑った。今度は引きつった笑いではなかった。
「先に行って、クリスを待とう。何十年後かはわかんねえけど、お前となら飽きねえよ」
――あの子は悲しむだろうか。
友を殺し友に先を逝かれたと知ったら、あの子は後を追おうとするのだろうか。否、ウィリアムがその可能性を潰している。彼女は生き続けるだろう。ウィリアムが描き、俺が導いた道筋の通りに。
なら、もう心配はない。
「……ああ、でも」
声はもう出ない。視界は歪みきっている。幻影の異能は俺の記憶から最も苛烈な殺人方法を探し出し、温度操作の異能はそれを実行する。
二つの異能を融合して作り上げられるのは、かつてどこかで実際に起こった、全てを燃やし尽くす爆発を引き起こす異能だ。
「……生きてるうちに、もう一度、会いたかったなあ」
***
澁澤による事件の説明を受け、被害者の資料に一通り目を通した後、クリスは一人探偵社屋を出た。外気が心地良い。それだけが、今の気分を和らげてくれる。
――ベンが死んでいた。
昨今話題になっていた異能者連続自殺事件、実際には自殺ではないその事件の被害者の中に、ベンがいた。
ウィリアムは死んだ。ベンも死んだ。フィッツジェラルドも天空を泳ぐ白鯨から転落し行方知れずとなっている、死んでいると見た方が正しい。
みんな、死んだ。
もう、クリスが友と呼んだ全員がどこにもいない。
「……会いたかった」
一人、呟く。俯き、胸元を抑えながら、呟く。
「会いたかったなあ……」
追いかけることができたのなら。
この世界に天国があって、みんなそこにいるのなら。
全てを投げ出して、会いに行っても許されるのなら。
またあの優しい日々を送れるのなら。
どれほど幸せだろうか。
「……わたし」
幸せに、なりたかった。
「ひとりぼっち、だ……」
呟いた声は、港街の風に吹き消される。