第4幕
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[飴玉の向こうに映る青]
女優夢主と中原さん。
中原さんが敵で良かったなあという話。
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舞台女優、という肩書きではあるけれど、活躍の場は舞台の上だけではない。よその劇場で特別ゲストとして顔を出すこともある。為政者のパーティに参加することもある。前者はクリスの所属している劇団「太陽座」の知名度のための仕事だが、後者は違う。このヨコハマという街でクリスがリアとして生き抜くための行動だ。
本来ならばクリスは、政治関係者と親しくなるなどという国の中枢に近付く行為をすべきではないのだろう。クリスは逃げ続ける身であり、クリスの敵は祖国のみならず国という存在、国家そのものである。しかし国の中で生活をしている以上国というものから逃げるのは至難の業だ。ならば逃亡を試みるよりもあえて近付き、その手の内を知り、時に操作する方が確実というもの。
そう、思っていた。
それしか考えていなかった。
だからこの事態は全くもって予想外だ。
「これはこれは、どうぞおいでくださいました!」
四十代独特の、若さと老いの狭間のような雰囲気を纏うスーツ姿の男が、ポスターにそのまま張り出せそうな顔でクリスへと両手を広げる。歓迎の意を示したその仕草に、クリスは笑みを絶やすことなく膝を軽く折って頭を下げた。シンプルな空色のドレスの裾が少しばかり広がる。
「稲田様、本日はかような祝宴に私のような者をお呼びいただきまして誠にありがとうございます」
「リアの名はヨコハマに縁がある人間ならば皆が聞き及んでおります! しかしまさか来ていただけるとは! 政治家などという胡散臭い仕事をしていて良かったと心から思いますなあ!」
「胡散臭い、などとご冗談を。稲田様のご活躍は耳に届いております」
クリスはにこやかに当たり障りのない返事をする。正直なところ、相手が政治家だろうとペットショップの店員だろうと、クリスにとっては利用価値があるかないか、その程度しか興味はない。この会話は相手の本心を聞き出すための前段階でしかなかった。お世辞などそういうものだ。
男と話しているそばを、スーツを着こなした人々が行き交う。皆片手にグラスを持っていた。結婚式場にも使われる会場の中央にはテーブルが並び、立食式となっている。どこのパーティも似たような形式ばかりだ。これが一番やりやすいのだろう。様々な人と話すことができ、己の交友を深めることができる。クリスにとっても周囲の人々の様子を隙なく窺うことができるので助かるのだが。
「稲田殿」
クリスと政治家の間に割って入るように、黒コートを羽織った高身長の男が近寄ってくる。パーティ主催者である政治家の話を中断させる行為。本来ならば許されざるそれに、声をかけられた政治家の男はというと途端に顔を明るくさせて数度頭を下げる。
「これはこれは、森殿!」
クリスはかろうじて笑みを保ち続けていた。この人は誰だろうか、と言いたげな顔つきを作ったまま、政治家の横でにこにことし続ける。これが結構大変なのだ。
なにせ、今さっき現れたその人は。
「すみませんねえ、少し遅れてしまって」
そう言ってにこやかに微笑む中年男性の足下では、赤いフリルのドレスを着こなした金髪碧眼の美少女が「リンタロウ! あっち行きたい!」と駄々を捏ねている。リンタロウと呼ばれたその男性は腰を少しかがめて少女へと顔を近付け、何やら囁いた。「もうちょおっと我慢してねえ、エリスちゃん!」などと甘い声が聞こえたが、気のせいだということにしたい。
「いえいえ、とんでもない。お忙しい中来ていただけて感謝感謝ですよ! 森殿のおかげでこの界隈にいられているようなもの!」
「そんなことは。全て稲田殿の実力故ですよ。私などおまけのようなもので」
二人は余裕のある様子で会話をしている。一見すれば親しい仕事関係者同士の親しい会話だろう。しかし、その背後――二人から離れた会場の壁沿いには、インカムを装備した背広姿の警備員らしき数名が二人を睨むように見つめている。その上着に隠された腰に物騒なものが備わっていることなど、想像に難くない。
――ヨコハマの闇そのもの、巨大犯罪組織ポートマフィア。
それを後ろ盾とする為政者のパーティに、クリスは参加してしまっているのであった。一応、前情報としてそれは知っていた。むしろ知っていたからこそ参加を決定した。しかし森本人が部下を引き連れて登場するなど予想外である。幸い、クリスの存在に気付いていないようではあるが、もしその聡明な思考によって政治家の添え物のようににこにこと突っ立っている舞台女優の正体を――それが少し前から全面的に敵対している詳細不明の異能者であることを知ってしまったのなら、その時点でこの会場は建物ごと木っ端微塵に違いない。クリス一人ならば対抗もできるし脱出もできる。が、その場合この場にいる全員を口封じに殺さなくてはならない。さすがにそこまで手間をかけたくないというのが本心だ。
絶賛、ピンチというやつである。
にこにこと政治家の横で華やかな会場の空気の一部に化けているものの、内心は落ち着いてなどいられなかった。すぐさま会場を抜け出したい。
「ところで稲田殿」
一通りの定型じみた会話が終わったのか、森がふと声の調子を和らげた。
「そちらの女性は?」
――やめてくれ。言及しないでくれ。
無論、演技派女優の内心など誰に伝わるわけもない。
「ああ、こちらですか。森殿もご存じの方かと思いますよ」
そう言って政治家が手のひらでクリスを差す。それに従い、クリスは腰をかがめる上品な礼を森に行った。
「太陽座のリアですよ。あの有名な」
「ほう」
森が感嘆の声を漏らした。そして、彫刻作品を眺めるようにクリスを眺め回そうとする。髪色と目だけで個人を特定するようなことはしないと思うが、そうはわかっていても気が気でない。
「初めまして。リアと申します。そちらは……」
「ああ、失礼。森です。稲田殿に資金面の援助をさせていただいております」
森は対外的な笑みを浮かべた。犯罪組織の長が決して浮かべない類の、形の良い笑みだった。合わせてクリスもにこやかな笑みを返す。自分が演技派の女優であることに今ほど感謝したことはない。
「素敵な女性ですね、稲田殿。奥方かと」
「いやいや、恐れ多い。私にはもったいないですよ」
男性二人の冗談の言い合いにクリスは曖昧に笑う。正直、早く話を終わらせて去って欲しいのだが。
クリスの意図を読んだわけではないのだろうが、二人の会話はその後すぐに断ち切られることとなった。森が、足下にまとわりついては服を引っ張っていたエリスがいなくなっていたことに気付き、狼狽し始めたのだ。森の幼女趣味に救われるなど、人生何があるかわかったものではない。
「エ、エリスちゃーん……どこ行ったのかなあ……すみませんが稲田殿、リア殿、私はこれにて」
言い、森はこちらの返事を待たず会場の中へと慌てて戻っていった。エリスなら自分の相手をしない森に飽きて食事の並ぶテーブルの方へと走って行ったので、すぐに見つかるだろう。ここぞとばかりにクリスもまた、政治家の方を向き申し訳なさそうな顔をする。
「すみません、少々疲れてしまいまして……外に出ていてもよろしいでしょうか」
「え? ああ、構いませんが……大丈夫ですか? 休憩室にご案内しましょうか」
「え、そこまでしていただくわけには。控え室にて少し休んで参ります」
申し出を丁重に断り、クリスは急く心を押しとどめてゆったりと会場を後にする。森とエリスを見守る何対もの眼差しが自分に注目した気がして、ぞわりと背筋が粟立った。
***
会場の外、静かな廊下に出るだけで、騒音は和らぎ緊張は少しばかり収まる。外からの空気も流れ込んでくるそこで、クリスは大きく深呼吸した。リアを演じるというのはもはや慣れきってはいるものの、舞台の上ではない何が起こるかわからない場所で延々と演じ続けるというのは精神的に負担が大きい。
「……はあ」
「悪い、ちょっと良いか」
「ふぇあッ!」
深呼吸をする、その最中に背後から聞こえてきた突然の声に、思わず奇妙な声が出た。あわわ、と思いながら急いで振り向く。素っ頓狂な声が出てしまったことによる恥ずかしさと、それをカバーしようとするプロ精神がクリスに行動を起こさせた。少しばかり照れを顔に出しながら、クリスは全身を硬直させてそちらを見る。
「す、すみません、驚いてしまッ」
――言葉が途切れた。
「……あ」
そしてこぼれる、本心からの声。
そこにいたのは青年だった。黒い外套を肩に羽織った、同じ程の背丈の青年だ。癖のある明るい色の髪とそれを装飾する帽子が彼に洒落た印象を与えている。パーティに相応しい格好の、人目を惹く好青年というやつだ。
それが、顔見知りでなかったのなら。
「あん? 手前……」
彼は――ポートマフィア幹部の中原中也は、クリスの反応を見逃さず怪訝な顔をした。
「会ったことあるのか?」
重力使いの中原中也。クリスと絶対的に敵対し、クリスの全力をもってしても倒すには運要素に頼らざるを得ない相手。出会った回数はそこそこあるものの、どれも互いに殺し合うつもりで異能をぶつけ合っている。
なんという運の悪さだ。
「……いえ」
慣れた変わり身の早さでクリスはにこりと上品に笑った。
「遠目から、お伺いしておりました。素敵な……お方だなと思っておりましたので」
無論嘘である。しかし中也には好印象な言葉に聞こえたようで、「そうか」と少し面食らった様子で目を瞬かせた。
「じゃあ同じパーティの参加者か。話が早くて助かる。あのパーティに俺んとこのボス……上司が顔を出していたんだが、奥方を追ってどっか行っちまったみたいでよ。ここら辺にいると思ったんだが、見てねえか。森って名の、中年で線の細いお方だ」
奥方、というと妻か。森に配偶者がいたとは初耳だ。となるとエリスは森の娘なのだろうか。あまりにも似ていないが。
「いえ……森さんといえば、確か、金髪のお嬢さんをお連れした方でしたよね? 先程稲田様とご挨拶されていた……奥方様もご一緒だったんですね」
「ああ……ちょいと説明が厄介なんだが」
中也は気まずい様子で周囲を見回した。誰もいないことを確認し、物陰に潜むようにそっと顔を近付けてくる。無警戒の仕草に、反射的に隠しナイフを取り出しかけた。
「そのお嬢が、上司の奥方だ」
「……は?」
「そういうことになってんだよ、うちではな」
中也は真面目な顔でそう言った。
エリスは奥方設定なのか。ますます、あの森という首領の嗜好がわからない。やはりポートマフィア首領ともなると思考が常人には敵わないのだろうか。しかもそれを中也が律儀に守るとは思わなかった。案外ノリが良いのか、もはや森に対して一定の諦めを抱いているのか、それとも根が真面目なのか。
ナイフを取り出しかけるも必死の理性で押しとどめたクリスの様子に気付くことなく、中也はクリスの隣の壁へと背を預けた。どうやらここで一休みするらしい。この程度で正体がばれるとは思えないが、それでも心は安らぎとは正反対だ。異能を使わざるを得ない状況にならなければ良いのだが。
クリスの心配をよそに、中也はポケットから何かを取り出した。黒手袋の上に乗ったそれを一つ摘まみ上げ、残りをクリスへと差し出してくる。
「食うか?」
飴玉だった。色鮮やかで砂糖のようなものがまぶしてある、ビー玉のような飴玉。ビニール袋に入ったそれが三つほど、中也の手の上に乗っている。青と、緑と、黄色。中也自身が摘み取ったのは橙色だ。
いつもは殺意と共に振りかざされるその手を、クリスは思わずまじまじと見つめた。
「……良いんですか?」
「お嬢……奥方からもらったんだ。今日の駄賃だってな。一人じゃこんなに食わねえし」
「じゃあいただきます」
黄色のそれを一つ、中也の手に触れないようにそっと摘まむ。敵だと認識されていないにしろ、やはり彼の異能は恐ろしい。初対面の男性へ配慮していると見せかけて受け取った飴玉を、クリスは手のひらに乗せて改めて眺めた。透き通りそうなほど透明な黄色が、雪のような白い飾りをまぶしてクリスの手の上にある。
「……綺麗」
「そうか。そりゃ良かったな」
中也の応答は呆気ない。その素っ気なさに少し安堵しつつ、クリスはビニールを破って飴玉を取り出した。親指と人差し指の腹でそれを持ち、目の前にかざして天井の照明に透かしてみる。乱歩がビー玉を手によくやっている仕草だった。黄色が白色の照明を受けて輝く。まるでその輝かしい色がクリスの視界に光を加えてくれるような錯覚。
綺麗だ。
「……手前、年いくつだ」
唐突に中也が問うてくる。飴玉から視線を移した先で、彼の手が再びクリスへと差し出されていた。その手のひらには何も乗っていない。きょとんとそれを見返せば、「ゴミ。捨てておく」と中也は短く説明してくれた。飴玉の殻を受け取ってくれるらしい。
「……ありがとうございます」
「で? いくつだよ」
クリスから受け取った殻をポケットにしまいつつ、中也は前方を見遣った。飴玉を頬に含む彼の視線の先、廊下の向こう側には壁があるだけだ。どこを見るわけでもないその様子に従い、クリスもまた前面のクリーム色の壁を注視する。
「……十八です、一応」
「一応ってのは」
「書類上、というか……出生は定かではないので」
ここで嘘を言うのもおかしな気がして、素直に答えた。へえ、と中也はやはり興味のなさそうな相槌を打つ。それ以上言及されるわけでもなさそうだった。
「生まれは租界の方か」
「え?」
「いや、何となくな。あそこはいろんな国籍の輩がいるし、手前みたいなガキも珍しくねえ。違ったんなら悪かった」
「……わたしのような、というのは」
何も計画せず尋ねたそれは、純粋な疑問だった。中也はふとこちらを見遣ってくる。晴天に似た底知れない青が、クリスを映し込んだ。
「……何も知らなそうな面してるくせに、そこらのガキよりも知らなくて良いこと知ってるってことだよ。ナイフとかな」
――息を呑んだ。
こればかりは、隠しようがなかった。
「……何の、ことを」
「護身用か何かは知らねえが、十分すぎる警戒心だ。この街では必要だな」
中也は何に疑問を持ったわけでもないようだった。淡々と言葉を続けていく。敵意のないそれに、全身からゆっくりと強張りが解けていった。は、と短く小さく息を吐き出す。
「……よく、見ているんですね」
「癖だな。そういう奴らとよく顔を合わせる」
「そういう、とは」
「手前が知らなくて良い側の人間達だ」
「……それは」
言いかけて、やめた。けれど中也は先を促すように帽子の下からクリスを見遣ってくる。殺意はなくとも鋭いそれに目を逸らす。けれど視線は痛みを与えるかのようにクリスへと突き刺さってきた。
不可視の、刃。
抗えない。
唇を噛む。言いかけたそれを声に出そうと努力して、失敗し、数度それを繰り返してようやく問いは喉から出た。
「……それは、わたしと何が違うんですか」
クリスが――否、リアが知らなくて良い側の人間達。それはクリスのことだ。クリス自身のことだ。中也達のことでもある。彼らとリアは――ナイフを隠し持ち敵意に怯えたまま本当の自分を隠し続けているクリスは、何が違うと彼は思っているのだろう。
答えはすぐには戻ってこなかった。隣に佇むポートマフィア幹部は、答えに窮するでもなく考え込むでもなく、黙り続けた。静かな沈黙。指先に掴んだままの飴玉は変わりない輝きを放っている。
綺麗だった。ナイフと血と嘘に慣れた自分には相応しくないほどに、眩しい色が放たれていた。
「……別に難しい話じゃねえよ」
ようやく聞こえてきたのは、クリスが求めた答えではなかった。中也が壁から背を離し、立ち去るかのように歩き出す。それを見守る気も起きないまま、クリスは手元の飴玉を見つめ続けた。
――す、とその黄色の裏に黒手袋が添えられる。
中也の手だった。
「貸せ」
短い命令は、クリスの返事も待たずにクリスから飴玉を奪い取る。何を、と言おうと顔を上げたクリスの眼前で、黄色が輝く。
黄色、黒、そして、青。
抗議の声を発しようとした半開きの口へ、飴玉が押し込まれる。そして唇を塞ぐように、黒手袋の指が優しく押さえてくる。
「飴玉ってのは口に入れるもんだ」
にい、と青が笑む。
「それを目を輝かせて眺めてる奴なんざ、俺達の世界には一人もいねえよ」
ふ、と唇から指が離れる。クリスの口元に触れた自らの指先へ軽く口づけした後、その手を軽く上げて「じゃあな」と中也は去って行った。颯爽としたその後ろ姿を呆然と見送る。
――口の中の飴玉が、甘酸っぱい。
「……檸檬味だ」
舌の上にそれを転がす。べたつく甘さが口内に広がり、心を穏やかにしてくれる。しばらくそれを味わった後、クリスは改めて中也が去って行った廊下の先を見つめた。そっと唇を指で押さえる。
「……中原さんが敵で良かった」
あれが味方だったとしたら、とんでもない人だ。
「……敵で、良かったなあ」
そっと呟く。吐息はすでに、甘酸っぱい味に変わっていた。