第4幕
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[四月莫迦]
エイプリルフールの幼児化。
時間軸は特にない。これぞノリと勢い。
***
いつもの朝だった。いつもの時間に起き、いつものように手帳の内容を確認し、朝食を摂り、身支度を整えて外出、いつもの時間に職場である探偵社へと着く。何ら変わりない一日の始まり。
――だったはずなのだが。
「やあ、国木田君」
開け放った扉の向こうで、始業時間前だというのに珍しく出社していた太宰が、くるりとこちらを向いて軽く手を振ってくる。
「おはよ」
「……ああ、おはよう……」
「あ、やっぱりびっくりする?」
太宰はへらりと笑った。俺は頷く代わりに奴の足元に隠れているそれを凝視した。
驚いた理由は無論、太宰ではない。時間通りに出社して来るのが普通なのだ、そんなことでは驚かない。俺が言葉を失って呆然と立ち尽くしていた理由は、太宰の足元にあった。
小さな手が太宰のズボンを掴んでいる。小さな誰かが、隠れるようにそこにいた。僅かに見える髪はその背を覆うほどに長く、艶やかに照明を反射する亜麻色。窺い見るようにこちらを見上げてくる目は不安そうな青。
見慣れた彼女に似た幼い少女が、そこにいた。
「……どういうことだ」
「そういうことだよ」
「は?」
「今日の日付、四月一日だろう? 世間ではこの日付の日にこうしてありもしないハプニングを楽しむ傾向があるらしい」
「……は?」
「現に私達を題材にしたゲームやアニメでも似たようなイベントが発生している。幼稚園児になったり高校生になったり……人気者はことあるごとに過去に戻らなくてはいけないのだから大変だよね、戻ったところで何にもならないというのに」
「げぇむ……あにめ……?」
太宰はさらりとそんなことを言って大きくため息をついた。奴の言っていることは時折意味不明だが、今日のそれは意味は通じるものの全く理解できない。
「何はともあれ、事態は起こってしまった。そして面白いことに」
言葉を区切り、太宰は足元にしがみついていた子供の両脇を掴んで持ち上げた。慣れた様子で小さな彼女を抱き上げる。いつもは太宰に限らず接触を嫌がる彼女は、目を疑うほどに大人しく太宰の首元へと腕を回してひっついた。
ガン、と重く硬い何かが頭上に降って来た錯覚。
「……な、な……」
「見て見て。私にものすごく懐いてる。与謝野先生も谷崎君も賢治君も駄目だったのだけれどもね」
「……なぜだ……」
「うふふ」
「何か食わせたのか。洗脳か? 汚いぞ貴様。幼い少女を手籠にして理想の女性に育て上げるなどという、してはならんことにとうとう手を出したか」
「どこぞの光源氏じゃあるまいし、そんな手間をかけるより事件に巻き込まれて心が弱った女性を口説いた方が早い」
「その発言も問題だぞ」
しかし、これほど口説く方が早いというセリフが似合う男はいない。彼女に何もしていないという話は信じても良さそうだ。
「真面目な話、たぶん年齢のせいだと思うよ」
よしよし、と太宰は彼女の頭を撫でた。しかし幼い彼女はというと、その接触には身を縮めて拒絶を示す。親しみがあるからひっついている、というわけではないようだった。
「異能がね」
「異能?」
「制御できていないのだよ。見えないだろうけど、今の私は絶賛異能無効化発動中。私に怯えながら私に異能を発動させて、それを私が無効化している状態」
ね、と太宰が少女へと同意を求める。それへ直接答えることなく、彼女は太宰の首元に埋めていた顔をこちらへと向けて来た。
青。深緑の差していない、光を拒む恐怖と不安を映した双眸。乱れた亜麻色の髪が数本顔にかかり、それが彼女をやつれているように見せてくる。
「見たところ五歳かそこらだろう? 彼女はその頃に親友を殺している。どうやら見た目だけでなく記憶や頭脳も当時の状態になっているらしくてね、最初は私達の誰のことも覚えていなかったのだよ」
「……覚えて、いないのか」
「そ。誰に触れられるのも嫌がって、私が説得してようやくこの状態。今日一日が終われば元に戻ると思うのだけれど、さすがの私でも丸一日隣にい続けるのは難しい。どうしようか、国木田君」
どうしようか、と訊かれても困る。知り合いが幼児化した時の対処については手帳にも記載されていない。経験もない。
何も思いつかないまま、俺は彼女を見た。澁澤の件の時に現れた【テンペスト】と同じ姿の幼い少女が、太宰の腕の中で震えている。しかしその額に赤い宝石はなく、その両目に宿っているのは殺意ではない。幼さを示すような丸みのある肌、頬、口元。何かから逃げるように太宰の服を掴む手は小さく、動きはあどけない。そこに無邪気な笑顔があったのなら、この場にいる誰もが笑みを浮かべずにはいられなかっただろう。
――笑顔が、あったのなら。
手を伸ばす。いつもなら黙ってそれを受け入れてくれるはずの彼女は、やはり恐怖に目を見開いて国木田から体を遠のかせる。
初めて会った時のことを想起させるほどに、他人行儀で警戒心の高い仕草。
つきり、と胸に細く鋭い何かが数本同時に突き刺さってくる。
覚えて、いないのか。
俺のことを。
俺との日々を。
少しずつ歩み寄ってきたあの積み重ねを。
「大丈夫だよ、クリスちゃん」
太宰がそっと腕の中の少女に囁く。
「国木田君だ。君のことを誰よりも心配してくれている、君の大切な人だ」
太宰の言葉を聞いても、彼女の俺を映す眼差しは変わりない。わかっている。これに彼女の本心が宿るようになるまで、本当の笑顔が宿るようになるまで、随分と苦労したのだ。ものの数分であの美しい眼差しを向けられる関係に戻れるわけがないことは理解している。
それでも。
この胸はどうして痛む。
「……クリス」
名を呼ぶ。再度、手を伸ばす。
「クリス」
頼むから、拒まないでくれ。
伸ばした手は彼女の柔らかな髪に触れた。びくりと大きく肩を揺らして彼女は身を縮める。きっと太宰がいなければ、この子の周囲にはあの銀色の刃がいくつも飛び交っていたのだろう。
震えるその小さな体を宥めるように、髪を指で梳く。名前を呼び、大丈夫だと声をかけながら、触れる程度に髪を撫でる。恐怖する彼女を幾度も見てきたからこその、精一杯の対応だった。
あなたの敵ではないことを、あなたを傷つけないことを、あなたに傷つかないことを、時間をかけて訴える。
ふと、手の下で彼女が身動きする。こちらを見上げてきた青に、俺は思わず手を止めていた。
双眸。水を張った湖面、深緑の木々を縁に従えその色を太陽光と共に映し込んだ碧眼。
見慣れた、しかし見るたびに色味の異なる眼差し。
髪を撫でていた手を少し下ろし、頬に触れる。弾力のある柔らかな肌触りに、微かに怯えながらも拒む仕草はしない彼女に、きらめく眼差しに、どうしようもなく全身が高揚する。
「国木田君」
太宰が少女を自分から離す。何をされるのかを察した彼女はサッと顔を青ざめさせて太宰へと縋るように両手を伸ばした。その行動の真意に気づいていながらも、太宰は彼女を俺へと差し出してくる。
手を伸ばす。抱き込むようにその小さく柔らかな命を受け止める。嫌だと言わんばかりに両手を太宰に伸ばしていた彼女は、太宰が手を離してしまった瞬間、絶望に目を見開いて俺を見上げてきた。その混乱した青に頷いてみせる。
「大丈夫だ」
この言葉に彼女が安心することはない。けれど、彼女はこの言葉で明らかに動揺する。
「大丈夫」
本当に大丈夫なのか、信じて良いのか、と泣きそうな顔になることを、俺は知っている。
「俺を信じてくれないか」
その耳元に囁く。ふるりと彼女は震えた。そしてーー何かを堪えるように俺の胸へと体を預けてくる。ぽんぽんとその背中を叩いてやれば、体の強張りはやがて溶けていった。変わりに聞こえてきたのは微かな吐息の繰り返しーー寝息だ。
彼女が他人の前で眠るなど考えにくいが、やはり幼子だからなのだろう、緊張が解けた瞬間、疲労が睡魔を呼んだか。
「やっぱりクリスちゃんはクリスちゃんだったね」
太宰が声を潜めて彼女へと笑う。
「脳に記憶はなくても体は国木田君を記憶していたんだ」
「誤解を招きかねない言い方をするな」
「本当のことじゃない。ふふ、ねえ寝顔見せてよ。クリスちゃんの寝顔、私見たことない」
「駄目だ」
覗き込んでこようとする太宰から隠すように体を捻る。ぶう、と太宰は不満そうに唇を尖らせながら鳴いた。
「けち」
「ケチだろうが何だろうが、女性とあらば隙なく口説きに行く貴様に女性の無防備な姿を見せてやることはできん」
「ちぇ」
「くだらんことをする暇があったら仕事をしろ」
はいはい、と太宰は諦めたように背を向けて自分の席に戻った。俺も仕事に戻らねばならん。彼女は医務室のベッドか応接室のソファに寝かせておこう。
「……う」
医務室へと向かおうとした俺の歩みで目が覚めたのか、彼女が小さく声を上げた。案外、眠りが浅かったらしい。ふ、と頭を上げてきた彼女と目が合った。
「……ぅお」
変な声が自分の喉から出た。
眠たげに目を半開きにした彼女が、とろりとしたその眼差しで上目遣いに俺を見上げている。幼いながらもその髪と肌、そして眼差しで可憐さを確立させている彼女が、それも腕の中で、あどけない様子で無防備にこちらを見上げている。
――何かと距離の近付いてきた少女が、至近距離で可愛らしさを発揮している。
彼女の背景に花が咲いているような気がした。ついでにキラキラとした効果も見える。
気が狂いそうだった。
「……ん」
口足らずな声で、彼女は小動物のように俺の首元にすりすりと頬を寄せてくる。これ以上ないほど全身が硬直した。花に似た芳しい香りが鼻先を突く。俺を何かと勘違いしているのだろうか、そうに違いない、そうでなければこのような愛くるしい仕草を俺に向けてするわけが。
「……くにきだ、さん」
――耳元から聞こえてきた甘えた声に思考の一切が停止した。
ああ、駄目だこれ。
「……ま、待て、待て、待て待て待て、頼むから待ってくれ」
「くにきださん」
「待ってお願い」
「……ゅき」
「それだけは言わないで」
「えへへ」
「笑ッ……距離を考えてくれ近すぎるから頼むから……!」
どうすれば良い。どうすれば良い。考えろ国木田独歩。お前ならできる、この状況の理想的な対応策を思いつくことくらい簡単に。
――軽いリップ音と共に柔らかな感触が頬に接したのを感じ取った国木田は、思考することをやめた。
「……国木田、今日一日休みをいただきます」
四月早々、予定が千々に乱れた国木田の帰宅姿は、太宰曰く「喜んで良いのか悲しむべきなのかわからないままクリスちゃんのこれ以上ない素直な愛情表現に数多の感情を湧き上がらせながら歩く、燃え尽きた白い灰のようだった」らしい。