第4幕
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[海の片隅、微睡みの夢]
海に行く話。
天人五衰事件直前くらいしか日常回を入れられる時間軸がなかった…
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それはいつも通り探偵社に出勤したある日の出来事だった。
「海に行くよ」
与謝野が言う。それは今し方扉を開けて「おはようございます」と声をかけた国木田へと容赦なく発された。
「……海?」
「海」
「……どういう意味ですか」
「海だよ、海。夏なんだから良いじゃないか」
「そうではなく」
国木田の抗議を気にすることなく与謝野は「そういうことだからよろしく」と話を終えてしまう。一体何が何なのだ、と国木田は室内を見回した。外は夏の盛り、蝉の声が近くの街路樹から響き渡っている。効きの悪いエアコンが息切れのような音を立て、それを横目に社員達が小型扇風機や団扇でどうにか涼を取っていた。かく言う国木田もこのところ汗を拭うハンカチの常備が欠かせない。車のエンジン音を聞くだけでむさ苦しい車の熱気がそばにあるような錯覚に陥りそうになる、そんな夏の一日。
ただそれだけだ。今日という日は特に何があるわけでもない、通常通り仕事を行うべき平凡な――かつ理想的な日、ただそれだけだ。なのに海とは何だ。海に何かあるのか。事件か、それとも犯人か。犯人が海に沈んでいるのか。そんな太宰のようなことがあってたまるものか。
「おはようございます」
与謝野からの突然の宣告に立ち尽くしている間に、後ろから明るい声が上がる。おはようございます、と返したのは配達物を社員の元へと配っていたナオミだった。
「あら、今日は国木田さんとご一緒ではなかったんですの?」
「うずまきに少し用があったので、先に行ってもらってて。……どうしたんです、国木田さん。こんなところで立ったままなんて。珍しいですね」
何かありましたか、と国木田の後を追うように出社してきたクリスは首を傾げた。亜麻色の髪が絹のように揺れる。水面を思わせるその青い目から思わず顔を逸らしかけ、踏みとどまった。
「……いや、気のせいだ。気のせいに違いない。さすがの奴とはいえ海に沈んで海藻ごっこをするほど阿呆ではあるまい」
「何の話ですか?」
「海の話だ」
「……海?」
クリスは先程の国木田のように呟いた。さすがの彼女にも予想できない単語だったらしい。何はともあれ、まずは出社後の作業をしなければ。「気にするな」と言い残し国木田が席へと向かうと、クリスも我に返ったかのように慌てて自らの仕事場へと向かおうとした。
クリスが探偵社で働くようになって数日になる。当初懸念されていた彼女の精神状態はかなり安定していて、今や他の事務員と遜色ない仕事ぶりを見せていた。元々機械に強いこともあり事務仕事に抵抗はなかったようだ。それどころか昨日は敦と共に外回りもしており、調査員補佐としても申し分ない。補佐という立場が彼女の実力に合っているかどうかかはさておき、クリスにとっても探偵社にとっても悪くはない状況だろう。
そんな彼女が事務室へと向かいかけた時、机から立ち上がった与謝野が「おはようクリス」と片手を上げた。
「海に行くよ」
――先程のあれは聞き間違いではなかったらしい。
「……はい?」
「海だよ。わかるだろう?」
「……まあ、わかるかと聞かれたらわかりますと答えますけど」
「そういうことだ。じゃあ行こうか」
「待て、待て待て待て」
椅子に座りかけた腰を上げ直して国木田はそちらへと口を挟んだ。
「今からなのか、それは今からの話だったのか」
聞いていない、否聞いてはいたが今日だとは微塵も聞いていない。抗議を込めて言うも、与謝野はきょとんと目を瞬かせた。
「勿論」
「な、んだと……」
「今日は休業日だよ。で、皆で海に行こうって話になったじゃあないか」
全くもって聞いていない。どういうことだ。昨日は誰も彼もが当然のように「それじゃまた明日」と帰宅していったではないか。今日の仕事は、予定はどうなる。
何から考えれば良いのかわからないまま、国木田は「いやでも」と呟いた。
「しゃ、社長は」
「今乱歩さんと社長室に」
与謝野の言葉は途中で掻き消された。もの凄い勢いで社長室の扉が開かれたからだ。
「よおーッし、海に行くぞお!」
乱歩がこれ以上ないほど大きな声で宣言した。その服装はいつものものではない。水着パンツにビーチサンダル、シャツを肌の上から羽織って終いには麦わら帽子。その後ろから姿を表した福沢もまた、柄物のアロハシャツをまとっている。
完全に海へ行く格好だった。
「車の用意がもうすぐできそうです」
探偵社の出入り口から顔を覗かせて同様の服装の谷崎が言う。
「賢治君と敦君が荷物積んでくれてます。冷房効くまで社内で少し待っててください。……あ、国木田さん、クリスちゃん、おはようございます」
「おはようではない、何だ、何なのだこれは」
何が何だかわからない。わかってはいるものの納得できていない。
国木田の問いに谷崎はやはりきょとんとした。
「昨日、乱歩さんが決めたじゃないですか。『明日は海だ、各自準備しろ』って」
「俺は知らんぞ!」
「……もしかして昨日の午前中ですか」
ぽん、とクリスが手のひらに拳を打ち付けた。
「敦さんと私が外回りして、国木田さんが来客対応していた時お話していたのでは?」
「あ、そうかも。敦君には鏡花ちゃんが伝えるって言ってたから大丈夫だと思ってたけど……」
谷崎に当然のように引っ付いたナオミが、その顔を見上げる。
「そういえば誰も国木田さんにそのお話をしていないような?」
「国木田さんがクリスちゃんに伝えてくれると思ってたから……」
つまりこれは。
「伝達ミスではないか!」
会社という組織にあるまじき失態の代表例そのものだ。
「こういったことは必ず回覧か共有スケジュールに書き込めと何度も言っているだろう! これが重大な事件の調査だったらどうする! うちの社員達はただでさえ奔放なのだ、そういった類のミスは大事に繋がりかねんのだぞ!」
「す、すみません」
国木田の怒鳴りに谷崎が身を縮めた。それを見、国木田は一息ゆっくりと吐き出す。このミスは谷崎だけのせいではない。彼一人を責めるのは違うだろう。
「全く、武装探偵社社員非常時連携パターンを見直さねばならんではないか」
「それって、何が起こったら何をどの順番で何秒以内に行うことを1ポイントの文字でびっしり書かれた5枚の資料でしたっけ。正直、ボクみたいなのには全然実行できそうにないものですし……実行できそうなの国木田さんくらいなんですけど……」
「何だと? あれはお前達の行動パターンをも組み込んで記述してあるのだ、読めば誰もが効率的かつ理想的な行動ができるようにした。俺とて無闇矢鱈に無茶を押し付けはせん」
「そもそもあれを読むの国木田さんくらいですよ……」
「通販サイトの利用規約とプライバシーポリシーを読むより簡単だぞ」
「あれ読むんだ……」
谷崎とナオミが困惑を顔に浮かべた。何故かよくわからないままぐるりと顔を向ければ、クリスと目が合う。彼女はというとにこりと見慣れた笑みを向けてきた。
「まあ、無理でしょうね。何と言ってもここは武装探偵社ですから」
……解せんぞ。
谷崎兄妹の曖昧な笑みとクリスの完璧な笑みを前に言葉をなくした国木田へ、与謝野が「何はともあれ」と腰に手を当てた。
「乱歩さんが決めたんだ、それも昨日突然言い出したのをどうにか宥めて今日にしたんだよ。諦めてさっさと準備しな。クリスも出かけるよ」
「で、出かけ……?」
「水着。ないんだろう? 買いに行くよ」
これまた話の展開が早すぎる。クリスはというと彼女らしくなく視線を泳がせて「いや、でも」と口籠っていた。何かを隠しているようだが、その詳細は国木田にもわからない。
「う、海はちょっと、あの」
「大丈夫だ、妾と一緒に選ぶからね。というわけで十時に出発だ。後は準備よろしく」
言うなり与謝野は引きずるようにクリスの腕を引いて行ってしまった。助けを求めるようにクリスがこちらを見遣ってきたが、なぜかすぐに逸らされてしまう。その仕草は誤魔化しきれない隠し事がある時の彼女の癖だった。
また、何か抱えているのだろうか。
それはきっと、彼女のこれからに関することで――そこまで考えて、国木田は一つの可能性に気が付いた。情報収集能力の長けたクリスが全く知らなかった今日の外出。つまりそれは、彼女のために意図的に隠されていたからだろう。それを踏まえればこの突拍子もない話にもおおよそ筋が見えてくる。
「……なるほどな」
国木田は一人呟いた。それに思い至るようになってしまったことが、素直に喜べなかった。
***
クリスと与謝野の帰社の後、社員は車に乗り込み近くの海水浴場へと向かった。八人乗りの車と五人乗りの車とに分かれ、それぞれを谷崎と国木田が運転する。あの後予定を乱された呆れと怒りを押し殺して国木田は準備をした。海というからには万全を機しなければならない。海で何をどのような順番でするか等のスケジュールを数分で作り上げ、一旦家に戻って服も着替えてきた。これぞ夏の海を満喫するための序章、どのような事態にも柔軟に対応する理想の鑑である。
がしかし、やはり全てが上手くいくわけもなかった。
海水浴場に着いた途端、乱歩が「かき氷!」と勝手に飛び出して行った。そちらは福沢が面倒を見ると言っていたので何ら問題はないだろうし、もはや乱歩の奔放な行動は予測済みである。問題は他の社員だった。
「ああん兄様、水着姿も素敵……! こことか、こことか、いつも見えていないところが見えていてとても……うふふ……」
「待、待ってナオ、ナオミ、待って脱げる脱げる!」
いつも通りのやり取りをしながら例の公然破廉恥兄妹は二人で浜辺に行ってしまった。後で回収せねば探偵社の名が落ちかねない。そうは思ったものの、国木田が目を離せない同僚はまだいる。
「おい敦」
車からビーチボールやらパラソルやらを取り出していた敦と賢治へ、国木田は周囲を見遣りながら訊ねた。
「太宰はどうした」
「それが、連絡がつかなくて……他の人にも訊いたんですけど、『あの太宰のことだから行けば海で会えるんじゃないか』って皆に言われてしまって」
「まあわからなくもないが……」
もはや川を延々と流れた挙句海に辿り着いていそうではある。あれは人が為し得ぬ事柄を平然と行う男だ。とはいえ放置はよろしくない。あの奇想天外がいつどこから国木田の予定を乱してくるか――既に予定が乱れに乱れているじゃないかという話はしないことにする――それを把握していなければ、あの男の思うがままに一日を終えてしまう気がしてならない。それは理想主義に反する事態だ。仕事であれ休暇であれ突然沸き起こった社員総出の海であれ、何事があろうとも予定を遂行するのが国木田のすべきことである。
「敦、太宰を見つけたら近付かずに俺に連絡しろ。賢治もだ。触ったり声をかけたりするなよ」
「まるで不審物みたいですね」
「変わらんだろうが。むしろ爆弾より厄介だ、いつ何が起こるかわからん」
「太宰さんも国木田さんも相変わらずですねえ」
にこやかに賢治が笑う。断じて笑い事ではない。
荷物を車から下ろし終わった後、八人乗りの方の車の後部座席を完全に倒して人が横になれるようにする。万が一暑さで倒れた場合に休めるよう場所を作っておくのだ。昨今の日射を考慮すると風通りの良い日陰で休むだけでは足りない。十分な水分補給と完全なる冷房空間が必要だ。飲料水も大量に積んである。準備は万端だ、これで誰が倒れても問題はない。
敦と賢治に清涼飲料水を手渡し適宜飲むよう指導していた時、ふと敦が顔を上げた。
「あ、来た!」
誰が、とは聞くまでもない。更衣室で着替えていた女性陣だ。見れば赤い水着の与謝野を中心に鏡花とクリスが歩いて来ていた。鏡花はその年に似合う可愛らしさの主張されたもの、そしてクリスは――ショートパンツに丈の長い薄手のパーカーを合わせた、かなり露出を抑えたものだった。
それでも。
「あまり見るもんじゃないよ」
与謝野の囁き声で我に返る。そして、その声に同音量で返す。
「大丈夫なんですか」
「注意点は言ってあるよ。とは言っても水分補給を欠かさないこと、休憩を挟むこと、体調が悪くなったら言うこと、そのくらいさ。日焼け止めも渡してあるし」
「……なぜ彼女を連れて来たのか伺っても?」
「わかってるんだろう? アンタも」
与謝野はその目元を細めて笑うだけだった。国木田がそれに思い至らないはずがないと言わんばかりだった。そしてそれが、何よりも簡潔な答えだった。
「あ、あの」
声が上がる。遠慮がちなそれは、いつもの彼女のものよりも小さく弱かった。そちらを見遣る。体を縮こまらせた少女が、それでも顔を上げて国木田を見つめ、しかし逃げるように視線を泳がせていた。よく見れば鏡花と同じ白い花の髪飾りで髪を後ろにまとめている。普段は気にならない首筋の線の細さが際立っていた。
「あ、の」
「どうした」
「……その、ええと」
ぐ、と胸に当てられていた両手がさらに握り合わされる。その中に何かが握り込まれていることにようやく気付き、国木田は硬直した。
足に、そしておそらくパーカーで隠れている箇所にもあるであろう戦闘による傷痕。腹部にあるという手術痕。普通の少女にはなれない彼女は、普段は動きやすさを重視し武器や毒物等を持ち歩いている。けれど今のクリスは護身用ナイフも何も持たないまま立ち竦み、唯一頼るように――ピンク色のクマの防犯ブザーを両手で持っていた。
国木田があげた、量販型の玩具のようなものだ。
「……ど、どうですか」
言い、クリスは俯いた。軽く身を捻り、身に付けた薄手のそれを見せてくる。
「ビキニはちょっと、諸事情あって見せられないんですけど……でも、あの、与謝野さんと一緒に選んで、あと鏡花さんに髪も結んでもらって、だから、その」
どうですか、と彼女は小さな声で再度訊ねてきた。その姿は、一人の少女のものだった。
普通の、ごく普通の、相手の様子を窺う少女の様相だった。
「……ああ」
感嘆めいた呟きが漏れる。しかしそれ以上どう言えば良いのかわからないまま、言葉を探す。露出した素足、夏らしい模造花が咲いたビーチサンダル、傷痕こそあれ女性らしい曲線を描いた太腿。パーカーで腰元や胴の輪郭が隠されてはいるものの、それが逆に彼女の細身を思わせる。線の細い首元に後れ毛が落ち、束ねた亜麻色の髪に白の花が映え、彼女を海辺の乙女にしていた。
どうか、と訊かれたら答えは一つだ。
「……肌を出し過ぎだ」
眼鏡を押し上げる。
「良いか、夏というには確かに体温を下げる格好をせねばならん。どこぞの包帯男のように肌の表面をほとんど隠すなどしたらすぐさま倒れる。だが限度というものがあるのだ。上半身は良い、首元にスカーフでも巻いておけ。問題は下半身だ。もう少し丈の長いものはなかったのか、さすがに膝丈くらいにはしておいた方が良い。何ならタオルを巻くでもォぶほッ!」
与謝野の拳が腹部に飛んで来た。一瞬、目の前が真っ白になった。
「全く予想を外さない男だねェ」
チカチカと点滅する視界の中で与謝野が呆れた顔をしている。敦が苦笑し賢治が見守るような笑みでこちらを見ている気配。
「素直に言えば良いところだろうに」
「……腹部はやめていただきたい、一応、鍛えてあるとはいえ、人体の急所の一つで」
「当然力加減はしてあるさ」
「そういう問題ではなく」
「……ふふッ」
笑い声が上がる。そちらを見れば、クリスが耐え切れないとばかりに口元に指を添えて笑っていた。
「あははッ、国木田さんって、やっぱり国木田さんですね!」
「どういう意味だ」
「いいえ、別に。……よおし、じゃあ行きましょうか!」
国木田の問いに答えることなく、クリスは敦や賢治へと満面の笑みを向けて明るい声を上げた。
「海に!」
***
季節とあって海水浴場の浜辺は多くの人で埋め尽くされていた。その中でかろうじてスペースを確保し、国木田の厳密なるスケジュールは幕を開ける。まずは敦と賢治へ海に入るに当たっての注意事項を教え、準備体操をさせ、そして彼らが安全に海を楽しむ様子を見守る。十分に楽しんだら次はビーチバレー、そしてスイカ割りだ。海の家で食べ物を買う時間も設けてある。海というものを満喫する最高最上の予定がここにはあった。
あったはずだった。
「国木田さん国木田さん! 海です、海ですよ!」
「わかった、わかったから引っ張るなクリス! 落ち着け!」
「ふふ、何度嗅いでも不思議な匂いです……潜ったらお魚いますかね? いたら捕まえて食べましょうか」
「それは駄目だ、この周辺は魚を獲るための許可が必要な場所だからな」
「バレなきゃ良いんですよそんなの」
「良くない!」
「ぶう。……あ、波が近付いて来ま……わッ、意外と冷たい……!」
「転ぶなよ。というか入る前に準備体操を」
「とりあえず入ってしまえば慣れますよ。そりゃ、えーいッ!」
「いきなり海水を掛けるな!」
「あははッ! そおれ、国木田さんの眼鏡に集中攻撃です! 錆びちゃえ!」
「やめろ!」
だとか。
「与謝野さん! 社長の持ち金がなくなったから焼き鳥買って!」
「おや、珍しいこともあるもんだねえ、社長」
「……申し訳ない。まさか乱歩が金銭を持っておらぬとは思わなかったのだ」
「だってめんどくさかったし」
「乱歩さんらしいねえ。で、焼き鳥は何本買うんだい?」
「両手で持てる分! 与謝野さんも買って良いよ!」
「妾のお金なんだけどねえ。じゃあ国木田、妾はこっちに行くから後はよろしく」
だとか。
「兄様! 海面がキラキラして綺麗ですわ!」
「そうだねナオミ。入りに行く?」
「ええ、行きましょう! 海の中は冷たくて心地良いですもの! 水中なら人目にもつきませんし、国木田さんから怒られることもないですわ」
「いや、海って時点で人目がある気がする……」
「あら、ご不満? ご安心くださいまし、ナオミさっき誰の目にも入らない場所を見つけましたの。そこでさっきの続きをしましょうね」
「わかった、わかったから服の下まさぐらないで……ひゃうん!」
だとか。
「キラキラです! キラキラしていますよ敦さん!」
「そうだね賢治君。鏡花ちゃんは海は初めて?」
「写真で見た」
「僕も写真でなら見たけど、こんなに大きいんだね。人がたくさんいるし……凄い、見て鏡花ちゃん! 遠くで板に乗ってる人がいる!」
「あれはサーフィンですね! 海のスポーツの一つです!」
「へえ、あれが……浜の近くで遊んでる人もいるね。僕達も一緒に入りに行こうか」
「行く」
「見てください敦さん、こんなものが落ちていました!」
「瓶? ラベルの文字は……日本語じゃないみたいだ。変な色の液体が入ってるし……」
「開けてみましょうか!」
※海に落ちている瓶類は触ってはいけません。
だとか。
「やあそこのお姉さん方。可愛らしい水着だねえ、とてもお似合いだ。その手にあるのはビーチボールか、ということは今から海に入るのかい? なるほど楽しそうだ。もし良ければ私も同行して良いだろうか。私かい? 私はね、君達の海にも勝る美しさに惹かれてしまった名もなき男だよ」
だとか。
とりあえず手近にいた太宰を張り倒して女性達から引き剥がした後賢治達から瓶を取り上げ厳重注意し、ようやく国木田は息を吐き出した。
「……わかってはいたが、せめて一箇所でまとまっていてくれ。このだだ広い海水浴場の隅と隅で何かしようとするな、頼むから」
「苦労してるねえ国木田君」
「お前が言うなお前が。そもそもいつの間に来ていたのだ」
「さっき川から流れてきた」
「……もはや驚きもせんな」
だがしかし太宰はというとやはり包帯で全身のほとんどを隠している。訊けば「防水性だから」とのことだった。防水性の包帯などというものがあるとは知らなかったが、訊きたかったのはそれではない。
「ならなぜアロハシャツなのだ。いつもと違うではないか」
「そりゃもう海に行くからだよ。私ほどになればこの程度の準備は万端さ」
「川流れを海への交通網にするな!」
「ところで国木田君、君一人ぼっちになったのだね」
「登場して早々にあたかも初めからいましたみたいな口調で痛い所を突くな。……何?」
そこで初めて、国木田は周囲を見回した。色褪せた砂、遠くまで広がり日光を受けて輝く海面、散りばめられた星のような数の人々。
いない。
そばで海にはしゃいでいたはずのクリスの姿がない。人が多いからはぐれるなと伝えてあったのだが、彼女にとっても海は珍しい、何かを見つけて勝手にどこかへ行ったのだろう。
「……はあああああ」
大きく大きくため息をつく。訳知り顔で肩を叩いてくる太宰をどのように締め上げようかと考えた。
***
クリスにとって海は初めてではない。各国を行き来する生活の中で幾度もその上を行く船に乗り込んできた。けれど海辺で遊ぶというのは初めてだ。なぜなら用がなかった。海は時期によっては人目が多すぎるし、時期によっては一人立っているだけでも目立つ。隠密を主とする諜報員としても、街を破壊し治安を乱す戦闘員としても、海は不都合な場所だった。
クリスにとって海は往来の途でしかなかった。
それを、まさかこの街で彼らと共に楽しむことになろうとは。
「わあ……!」
共有施設の屋根に並んだ海鳥をクリスは見上げた。翼を真っ直ぐに伸ばして滑空していたそれを追いかけてきたのだ。鋭い嘴に、丸く見張られた目。見上げてくるクリスを不思議そうに見返し、クァ、と籠った鳴き声を上げる。
ふと一羽が屋根から降りてきた。軽く翼を広げたそれは、すとんとクリスの足元へと降り立つ。驚くクリスへと歩み寄り首を傾げてきた。しゃがみ、その小さな顔を見つめる。餌を求めているらしい。
「……何も持ってないよ?」
言うも、海鳥は首を傾げるだけだ。
ふと思い至って、クリスは手をそっと彼へ差し出した。指先に軽く風を起こす。すると海鳥は驚いたように数歩下がった後、そろそろと首を伸ばしてクリスの手へと顔を寄せてきた。
風は彼らにとって馴染みのあるものだ。クリスのことを同朋だと思っているのだろうか。
「……私は鳥じゃないよ」
言葉は鳥に届かない。そっと伸ばした指先で鳥の顎下を撫でる。
「……君達なら」
呟く。その問いに答えてくれる者もいない。
突然海鳥が翼を広げて飛び立った。屋根の上にいた海鳥達も一斉に飛び立つ。逃げるようなそれの後、クリスは背後から来た気配に立ち上がって振り向いた。
「やあ、クリスちゃん」
見慣れた蓬髪の男だった。
「……やっぱり来たんですね」
「一緒に車に乗り込んだら国木田君にいろんな手伝いをさせられそうだったからね、別ルートでこっそりと」
「別ルート? バスか何かですか?」
「川」
「……川」
「そう、川」
川、と再度復唱する。川、川が別ルートとはどういうことだろうか。船で来たということだろうか。
返す言葉を失くしたクリスへ、太宰は変わらない笑みで言った。
「国木田君が探していたよ。戻らないと」
「あ、そうか。怒ってました?」
「そこまでじゃないよ。呆れてはいたけど」
ならそこまで酷く怒られることはなさそうだ。
わかりました、とクリスは笑んだ。そして太宰の横を通り抜けて海辺へ戻ろうとする。
けれど。
「クリスちゃん」
太宰のいつもと同じ呼び声に、足が止まってしまう。
「……何ですか?」
振り向き首を傾げる。けれど太宰は目を細めて、微笑むだけだった。
何かを促しているようだった。
きっとそれは優しさなのだ。クリスがクリスでいられるようにという配慮なのだ。
だって、今日のこの外出は。
「……どうしてですか」
呟く。明るい声など出ようはずもない。笑みを形作っていた頬も言うことを聞かなくなっていく。
「どうして、わたしを海になんて連れ出したんですか」
「臨時とはいえ一応社員になったからね、歓迎会のようなものだよ」
「そんなことをしても何にもならないじゃないですか」
笑みが浮かべられない。唇を引き結び、震えを堪える。胸に手を当て、それでも足りずに胸元を強く握り締めた。
「どうせ、皆……いつかわたしのことを忘れるのに」
太宰の笑みは変わらない。それから顔を逸らして、クリスは強く目を閉じた。
そうしないと何かが溢れてきそうだった。
「こんなの……何の意味もない。わたしはいつかここから消えるんです。存在しなかったことになるんです。ウィリアムがそう仕向けた……ならいつか、わたしはそれをしなくちゃいけない。それが脚本でありわたしの結末です。なら、もう要らないじゃないですか、こんなの。こんな……」
「思い出なんて必要ない、と」
太宰の声は柔らかい。
「そうだろうね、クリスちゃん。君は既に消失が決定されている。なら君との思い出作りは誰のためにもならないのだろう。私達は君を忘れ、君は体ごと塵と化す。この世界に残るのは『いつものメンバーで海に行った』という事実だけだ」
クリスには未来がない。未来が許されていない。それは誰のせいでもなかった。強いて言うならば、クリスが存在してしまったせいだった。
介入者。夢見る乙女と等しい、本来そこにいるはずのない、物語に何ら関与しない余計な存在。それが物語を崩壊させるほどのものとなるならば、クリスという存在は消えて然るべきなのだ。
いつかその時が来る。それを、太宰も与謝野も、国木田も、知っている。クリスが決め切れていないだけで、それはいつでもやってくる。
なのに。
「……もう良いじゃないですか。わたしがいてもいなくても、あなた方の記憶や知識には何の影響もない。誰かが悲しむこともない。ただ、わたしがこれからのことを思ってつらくなるだけで……なのに何でこんなことをするんですか。どうしてわたしを大切にするんですか。いつか記憶ごと消えて、わたしのことなんかどうでも良くなるのに」
溢れ出るように言葉が止まらない。その声音は刺々しく、それでいて震えている。
せめて隠していようと思った。こんなことをしてくれる優しさというものに報いようと、せめて彼らが己の優しさに自信を持てるように喜んでいる振りをしていようと。けれど太宰はそれをしなくて良いと言った。口には出していないが、我慢しなくても良いと伝えてくれた。それがなければずっと笑顔を演じられたのだ。「誘ってくれてありがとう」と、「この日をずっと忘れない」と、よくある台詞を吐けたのだ。
この人達は優しすぎる。クリスに隠し事をさせず、それでいて喜ばせようとしてくる。無茶苦茶だ。
「全然、嬉しくなんかない」
わたしは彼らの優しさを傷付ける。
「もう思い出なんて要らない。どうせ消えるなら空っぽの方が良い。余計なことをしないでください。もっと……つらくなるじゃないですか。消えたくないって思ってしまうじゃないですか。叶わない願いを、ずっと抱えながら、消えなきゃいけなくなる……そんなの」
瞼の端が濡れる。顔を上げて太宰を見るだけで、雫が頰を落ちていきそうになる。強く瞼を閉じ続けた。
「そんなの、嫌だ」
さよならなんてしたくない。
「笑ってさよならを言わせてください」
忘れられたくなんかない。
「意味がないとしても、最後くらい笑顔でいさせてください」
ずっとここで生きていきたい。
「わたしを、幸せなままでいさせてください……」
全部、全部、叶わない。
知っている。こんなことを言っても舞台の結末は変わらない。例え今日の外出を拒んで一人部屋に篭っていたとしても、この悲しみは少しも和らがなかったのだ。
「だからこそだよ、クリスちゃん」
知っている。だからこそ、彼らはこの外出を企画してくれたのだと。
「思い出は消えるかもしれない。君は消えるかもしれない。けれど、今この時の思いは必要なものだ。今、君は生きている。存在している。それが重要なのだよ。未来でも過去でもなく今、一瞬一秒が積み重なり経過している今という時間、そこに生まれ続ける感情――それが心であり君が一人の人間たる所以だ。私達は君を生かす。君が消えるまで、君をクリス・マーロウとして生かし続ける。それが人の営みだ、君が人であるが故に行えるものだ」
知っている。彼らがクリスに与えようとしているもの、それが何なのかを。
知っている。知っていた。けれど、わたしは。
隠し切れなかった雫を指で押さえるようにして拭う。
「……ごめんなさい」
笑う。今度は上手く笑えた気がした。
「わたしは、あなた方の優しさも全部なかったことにします」
「それで良いのだよ」
太宰も笑った。それは、子を見守る親鳥によく似ていた。
***
太宰と共に国木田の元に戻れば、案の定国木田は「人の言うことを聞けとあれほど」と長々と怒鳴ってきた。太宰が「酔ったハイテンションの男女に囲まれて攻撃することもできずにいたので助けた」と適当すぎる嘘で誤魔化したせいもある。この点に関しては後で太宰を締め上げなくてはならない。酔ったハイテンションの男女に絡まれたのなら調子を合わせた上で財布から金を抜き取るのが妥当だろう。
そして今はというと。
「降ろしてください」
「駄目だ」
「……いやほんとに大丈夫ですから、だから、あの!」
「あなたのそれは信用ならんと既に学んでいる」
「酷い……!」
「自業自得だ」
――国木田に横抱きに抱えられながら駐車場に向かっていた。
なぜか。国木田の元に戻ったクリスが突然の目眩にしゃがみ込んだからである。
「このくらいいつものことですから! だから、その、ねっつ……ねっつぅ、ねっ、ちゅう、しょー? ではないですから!」
「残念ながら与謝野先生のご判断が熱中症だ。日向に長いこといたな? 水分も摂らずに。与謝野先生から注意されていただろうが、あなたは他の人より体調が悪化しやすいのだから気を付けろと。……それと、熱中症をゆっくり発音するな」
「ねぇっちゅううしよぉお?」
「わざとだな?」
「勿論」
「やめろ」
「むう、どうしてです?」
「……日本語の問題だ」
「どういうことですか」
などと訳のわからないやり取りをしつつ、国木田によって運ばれていた。一歩歩くたびに視界が揺れ、頭が揺れる。それがさらに吐き気を呼ぶようで、クリスは体を縮めて国木田へと顔を寄せた。その胸元をそっと掴む。普段より身に付けている服が少ないせいか、いつもより体温が近い。
熱い。
「……う」
この熱さが夏のせいなのか思いのせいなのか、わからなかった。
「渡した飲料水はどうした」
「……敦さん達の分と一緒に……浜辺に……」
「持ち歩かずにカモメを追いかけたのか。全く……五歳児並みの行動だぞ」
「花も恥じらう乙女です……」
「ああそうかそうか」
「酷い」
ぐ、と抱え直される。さらに鼓動が近くなる。それへと耳を寄せる。
「……カモメは、綺麗でした」
「そうか」
「ずっと真っ直ぐに空を飛んでいて……目の前にある何にも見向きせずに……」
国木田さん、と名を呼ぶ。
「お話、したんです。カモメと、少しだけ」
「……そうか」
「カモメは、わたしを」
――わたしを、覚えていてくれるでしょうか。
口を噤む。それ以上を言ってはいけない気がして、痛んだ胸を宥めるように国木田へと頰を擦り寄せた。
「……少し、はしゃぎ疲れました」
「そうだろうな」
「楽しかったんです。他の人と同じことを、わたしも、同じ場所で同じ時間にできて、だけど」
何を言っているのかわからないまま言葉を続けた。
「なかったことに、なるのかなあ……」
国木田は何も言わなかった。クリスもまた、自分が何を言ったのかわからなかった。
駐車場に着き、国木田はクリスをそばの日陰に降ろして車のエンジンをかけた。クーラーボックスに入っていた飲料水を手渡され、少しずつ飲む。水に似たそれは、熱中症に効果のあるものらしかった。
「美味しいです」
「それは重症だな。経口補水液というものは普段飲むと不味いものだ」
「そうなんです?」
「後で飲んでみろ」
車の冷房が効いてきたからと国木田に車内へ誘導される。あらかじめ倒してあった後部座席へ横になれば、ぐわりと不快感が全身を巡った。横向きになり、こめかみを座席へ擦り付ける。
「うわあ……」
「しばらく横になっても体調が変わらんのなら言え。与謝野先生は外科医だからな、それ以上は病院で手当せねばならん」
「国木田さん」
「何だ」
「あれ」
朦朧とした頭で手を差し出す。何のことかと国木田は眉を寄せた。
「何だ」
「あれ、取って」
「あれ?」
「あれ」
「……ああ、あれか」
ようやく「あれ」が何を指しているのかわかったらしい、国木田は車の隅に置かれた荷物の山からそれを取り出した。
「そんなにこれが大事か」
「勿論」
差し出されたそれを受け取り、胸元に抱く。海に持っていくと壊れるからとしぶしぶ車内に置いていった、ピンクのクマの防犯ブザーだった。
「わたしの唯一です」
「……そうか」
国木田は困ったような顔をした。大方、もっとマシなものを渡せば良かった等と思っているのだろう。だがこれで良かったのだ。手の中のそれへと顔を寄せる。
これだから良かったのだ。宝石も服も、何もがこの玩具めいた大量生産品には敵わない。
困りきった顔のまま、国木田はクリスの横に腰掛けた。そして何を言うこともできないまま、クリスを見下ろしてくる。
沈黙、けれど気まずくはない静寂の中、エンジン音と冷房の音が二人を包んでいる。
「……国木田さん」
もう何度口にできるかわからない名を、クリスは呼んだ。
「……また、海に来たいです」
その一言は嘘ではなかった。
「……なら体調管理に気を遣え」
国木田が言葉を返してくれる。それは叶うことなのか、などという無粋なことを胸にしまったまま、答えてくれる。
「毎度倒れられたら困るぞ」
「そうですねえ。あ、そうだ。水着、一応下に着てるんですけど見ます? 見えないところもお洒落にするのが女だよって与謝野さんに言われて、可愛いの買ったんですよ。ほら」
「やめろ捲るな!」
「あはは、冗談ですよ。人に見せられる肌じゃないので。国木田さんって女の人の水着見るの下手ですよね」
「な、何のことだ」
「目を逸らしすぎです。逆に気になります」
「やかましい」
「夏とかどうしてるんです? 皆薄着でしょう?」
「知るか。気にしたこともない。そのようなことで仕事を怠る俺ではないからな」
「とか言って、あれですよね、着物の女性のうなじ見ちゃうやつ。男の人はそういうところを見るんだってネットで見ました」
「不健全なものを見るな! 一応未成年だろうが!」
「むう、健全ですよ。超健全です。その程度で不健全って言っているとウブなのがバレますよ」
「ななな何のことだ」
「ははは、凄く動揺してますねー」
「動揺してなどいない!」
ふいッと国木田が顔を逸らす。その仕草が面白くて、また笑った。「全く」と国木田がため息をつく。それを見、そして視線を落とし、手の中で防犯ブザーの形を覚えるかのように触る。
このやり取りも無意味なものなのだろう。この玩具のような代物も、この手の中から消えるのだろう。今まで触れてきた悲しみも、苦しみも、喜びも、心地良さも――恋慕も、全て消えてしまうのだろう。
ぐ、と防犯ブザーを掴む指に力が籠る。例え全てが消えるとしても、手の中にあるこの形と胸に宿る心地は忘れないでいたかった。
「……夏は海だけではない」
ふと聞こえてきた声に、クリスは目線を戻した。
「花火もある。山も良い。秋には紅葉が落ち、冬には雪が降る。太平洋側はあまり降らんがな。春になれば桜が咲き、また夏が訪れる」
「日本は景色の色合いが変わりゆくので飽きません。素敵な場所です」
「まだあなたが見るべきものはある」
国木田が背を倒し、クリスと同様に後部座席に横になる。けれど顔は天井を見つめたまま、国木田は続けた。
「まだあるのだ。今回だけではない。だから、行くな」
行くな、と国木田は言った。
「どこにも行くな。まだ、行くな」
見つめる先で、その眼差しがこちらへと向けられる。悲しみも憂いもない、ただ目の前を見るだけの強い輝きがそこにある。
それに射竦められるだけで安心した自分が確かにいた。
「……はい」
答える。これも嘘ではない。
嘘にしたくはない。
防犯ブザーから片手を離す。伸ばしたそれを、国木田の手が拾うように掬い取る。二人の間で二つの体温を宿した手のひらが合わさる。自分のものより大きな手のひらを縁取るように触れていると、その指先が応えるように指を絡めてきた。胸が痛む。けれどそれは悲しい痛みではなかった。思わず笑みを溢してしまうような、優しくあたたかな痛みだった。
朦朧とした、けれどあたたかい心地の中でクリスは目を閉じる。どれほど微睡みに沈もうと、ぬくもりがクリスの手の中から消えることはなかった。
***
車内で手を繋ぎながら眠るクリスとそれを柔らかな微笑みで眺める国木田の様子を激写した隠し撮りは、国木田の預かり知らぬところで社員達に共有されたという。