第4幕
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ふわりと光が宙を漂っていた。降り注ぐ陽光のように生じたそれを、太宰は手のひらでそっと受け止める。しかしその光は太宰の手に触れると同時に雪のように消えてしまった。微笑み、太宰は目の前の男へと顔を向ける。
箱型の檻房、宙に浮く絶対不可侵の檻。向かい合った二つの箱の中で、二人は数日を共に過ごし、互いの思考を読み、互いの思惑を掻き乱そうとしていた。
全ては己の目的のために。
「君らしい手だ」
太宰が声を上げる。対面の檻の主が顔を上げる。血色の悪い顔は微笑みを浮かべていた。
「根性が悪い」
「ええ」
ドストエフスキーがゆったりと答える。
「悪意こそ神がヒトに与えた最高の果実です」
「すこぶる同意見だね」
太宰が指で宙を指す。口でチェスの駒の移動を発言すれば、ドストエフスキーは「おや」と小首を傾げて物珍し気に思考した。
「クイーンを戦場に? 大胆ですね」
「君が相手ではね。使える駒は全て使わないと」
「あなたのクイーンはモンゴメリさんですね?」
唐突とも言えるドストエフスキーの指摘に、太宰は微笑む。その言葉さえ予期していたと言わんばかりの様子に、しかしドストエフスキーも驚くようなことはない。先読みの先を読む――人の思考など追いつきようもないほど膨大な思考戦を、二人は己の頭脳だけを基に行っていた。
「まあ、読まれているとは思ったけれど。――そういえば、君の例の駒はどうしたんだい?」
「例の駒?」
「色のなかった駒さ」
ふわりと太宰は片手を広げた。その動作には優雅ささえあった。
「君が私から勝ち取った駒だよ。本来この世界に存在しなかった異物、我々と仲良くするではなく破壊を目的とした異端の介入者。彼女と〈本〉の性質を利用され私は彼女についての記憶を失った、そして君は見事に彼女を手中に収めてみせたじゃあないか」
ドストエフスキーは考え込むように太宰を見つめていた。無表情に近いそれはやがて、驚愕に満ち、徐々に目を見開いて目の前の現状を把握していく。対して太宰は笑みを深めていった。嬉しげに、満足げに。
――目の前の光景を楽しむかのように。
「……それは」
ドストエフスキーが声を零す。
「誰のことを……言って、いるんです?」
「君が目をつけた駒のことだ。話してくれただろう?」
腕を組み、太宰は朗々と告げた。
「本来彼女はこの物語を破壊するために生じた。従来ならば介入者にそこまでの影響力はない。夢見る少女と同じ、我々と共に時を過ごす程度の、あってもなくても変わらない存在。それが”夢の主”たる者の本来の特徴だ。けれどクリス・マーロウだけは違ったのだよ。彼女は実験体だった。『夢の主が世界を脅かすほどの存在であったのなら物語はどうなるか』という実験だ」
簡単な思考実験だね、と太宰は笑う。
「彼女が物語に介入したのなら、敦君はギルドに引き渡され、あるいはギルドがヨコハマを手に入れ、あるいは英国の爆撃機が日本を焼き尽くし、あるいは森さんと社長が死んだ。それは”本来あってはならない結末”だ。そしてそれは、”舞台の外へも影響する”。けれど実験は失敗に終わった。物語の中に存在したかもしれない研究者がそれに気付き、物語の破壊を防ぐために彼女に”脚本”を与えたからだ。彼女が何を壊すこともなく終焉を迎えるための脚本だ。それのおかげで彼女は世間を恐れ世界から逃げるようになった。壊すでもなく協力するでもなくね」
ドストエフスキーの表情に変化はない。ただ、黙って太宰の言葉を聞いている。聞きつつ、思考を重ねていた。太宰が言うよりも先、言葉にされなかった事象すら把握し、組み立てていた。
「そして」
その色の悪い唇が動く。
「ぼくは彼女に”世界へ接触する”ように誘導した……」
「彼女の存在は《天人五衰》の、君の駒としては最適だった。仲間として使うでも、陽動として利用するでも良い。彼女と彼女の友人達とのやり取りも手記の内容も、君には一切関係なかった。とにかく彼女を動揺させ選択を誤らせ、彼女の異常性を世界に晒し世界を変動させられたのならそれで良かった。――そうだろう?」
「そしてあなたは――それを防ぐではなく、その先のために行動していた」
「さすがに理解が早いね」
「わざとぼくと彼女を接触させましたね?」
目を細め、ドストエフスキーが顎を手で覆う。現状を理解した険しい男の顔がそこにあった。太宰がそれへと微笑む。対照的な表情が向かい合う。
「彼女にそれを実行させるために。――その上で、彼女がぼくの案に乗らないように……同僚を使ったと」
「結局のところ彼女の友人の計画した解決策が一番だったのさ。世界を救う上でも、彼女を救う上でも。ただ、君が相手では不安があった。当時の私には手記という存在について存在すら知らなかったからね。感情的な彼女が今後どう行動するか、予測が難しかった。だから彼女にそれ以上の感情を知ってもらった。安らぎと、好意だ。結果彼女は友人の思惑に従い、世界を元に戻す方を選び実行した」
とんとん、と指でこめかみを叩く。
「ここだ、脳、記憶だ。全世界の人々へ記憶の消去を実行する――要は脳内の電気信号への介入、クリス・マーロウに関するデータの消去だ。これで彼女は世界から消えた。記録もない、記憶もない、存在もしない。いなかったことにはならないとはいえ、これで世界は本来のものとほぼ同一となる。正しい物語の再来だ」
「故にぼくに彼女の記憶はない。記憶にない人間を駒として使用することはさすがのぼくにも不可能……盤上から彼女という駒は消えてしまった」
「そして彼女の行った記憶消去は”異能”だ、私には通じない。つまり私だけが、先日君から聞いた彼女についての情報を保持している。予定通りだ、彼女のことを忘れる前の私のね。――さて」
太宰は眺め見るようにドストエフスキーを見遣った。口元に微笑みを宿し、ゆったりと寝台に座って胴の前で両手の指を絡める。
「”勝負だ、ドストエフスキー”。白と黒しかない、天空カジノという正しいチェス盤でね」
「……ふ」
ドストエフスキーが微笑む。先程までの険は失せ、眼前の敵を楽しむように目を細める。
「ふふ……良いでしょう。”こんな地下でチェスの相手に恵まれるとは”」
笑みが二つ交わされる。二人の指が宙を指差し、二対の眼差しが不可視の盤上を見つめる。
――空に浮かぶ娯楽施設、天空カジノ。
そこで、太宰とドストエフスキーの戦いが――そして敦達の戦いが、一人の少女を失った世界で始まろうとしている。
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第4幕 完
次章「第5幕」は準備中。
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