第4幕
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国木田のいる部屋よりも遠く離れた場所、国木田がいた部屋と同じ内装の部屋に少女はいる。入ってきた条野へと振り向き、彼女は弱々しく微笑んだ。
「伝言ありがとうございます、条野さん」
「これで良かったんです?」
「同じ建物にいられるというだけで十分です。直接会ってしまったら、喜びと悲しみとで混乱してしまいそうですから」
彼女が手にしていた液晶画面には国木田の部屋が映っていた。条野が彼女を脅した時に使った代物だ。彼女はそれ越しに国木田の様子を見ていた。捕縛する時に彼女が出した唯一の条件だった。
「それで、これから何を?」
「お話を聞こうかと思います。取調室がありますから、そちらへ移動しても?」
「……ここではいけませんか?」
ぐ、と彼女は手放すのが惜しいとばかりに端末を握り締めている。その表情が疲れ切り、しかしどことなく安堵しているようであることを、条野は見えないながらも知っている。
戦闘時とは違いすぎていた。確かに端末越しに国木田の姿を見た時の彼女はこれ以上なく動揺し失望していたが、今はそれの比ではない。抵抗する気がまるでないのだった。隙を探っている様子もない。元より条野のそういった隠し事や探りは無意味なのだが、この少女は相手が条野でなくとも問題がないのではと思うほどに敵意がなかった。
死を待つ死刑囚のようだ。ただ呆然と、檻の中で時を過ごそうとしている。
「……構いませんよ」
逃げる気がないのなら何も問題はない。それに、逃げるという行為はこの場所では不可能だ。軍の施設、それも危険異能者を留置しておく施設なのだから。国木田もそうだったが捕虜は皆体の一部を鎖で繋がれ、そうでなくとも出入口には高性能の電子錠が設置され、加えて廊下のあちらこちらに監視カメラが設置されている。勤めている職員の人数も多く、そのほとんどが異能戦闘訓練を受けていた。
ここは決して出ることのできない檻だ。
条野の言葉に少女は安堵したようだった。「ありがとうございます」と呟くように言う。その手首についた鎖が擦れ合う音を立てた。
――違う。
耳をそばたてる。
今の鎖の音は、手首に繋いだものがぶつかり合った時の音とは少し違う。二つの鎖を合わせて持ち、ただ揺らしただけのような。
気のせいだろうか。異能犯罪者を繋ぐ鎖は簡単に切れる代物ではない。何より彼女から聞こえてくる音の一切に反抗の兆しが全くない。気のせいだろう。
「……条野さんは素晴らしい方ですね」
少女がふと柔らかな声で笑った。病気か何かで死が近付いているような、儚い少女を思わせる声だった。
けれど。
「全て予定通りです」
――その言葉を聞くや否や、全てが変貌した。
少女が立ち上がる。先の切られた鎖が床に投げ捨てられる。ぶわりと風が全身を圧してくる。おかしい、風など入ってくる余地などこの部屋にはないはずだ。ではこれは何だ。この闘志を孕んだ暴風は。
なぜあの路地で彼女と戦った時と同じものが、この場に生じている?
「ありがとうございました」
少女が笑う。それは儚さなどない、朗らかなそれだった。
「ちょっとした余興だったんですけど、楽しかったですよ」
そこにいたのは捕虜ではなかった。少女でもなかった。絶望に打ちひしがれ愛しい人のために逃亡を諦めた人間ではなかった。別人だ。心音も呼吸も、人の意志では変えようもないはずの人間の音全てが――何もかもが、違う。
クリス・マーロウ。
港街の小さな劇団の舞台女優、得体の知れない異能者。
人体が発する全ての音を聞く条野に対し、体内音の全てを別人同然に”演じて”いたというのか。
――アンタらには無理だよ。
女医の笑みを、国木田の呆れ顔を思い出す。福地が悩むように顎を擦りながら『福沢がな、妙なことを言いおって』と報告してきたその言葉も。
女医は、社長は、国木田は、何と言っていた?
――貴様らには無理だ、《猟犬》。何せ彼女は――
「馬鹿な……!」
条野は呻いた。
「私が”聞き”間違うわけが……!」
「わたしのことを調べたのなら、知っているはずですよ」
クリス・マーロウが笑っている。条野が国木田へとしたように、ほくそ笑んでいる。
楽しげに、目を細めている。
「リアの演技は神をも魅了するんですから。あなたの耳も騙せなくては”稀代の名女優”は名乗れません。ふふ、これは余興というよりも意地だったのかもしれませんね」
暴風が条野を圧する。何を言うこともできないまま、受け身さえも不十分なまま、壁に激突する。
「ッ……!」
焦りを押し留め思考する。
この女を逃がしてはいけない。早く救援を呼び、昏睡ガスで大人しくさせなければ。
――そう思考していた、最中だった。
風が止む。条野を吹き飛ばしたそれは、条野を突き飛ばしただけですぐに消えた。それ以上の敵意がない。戦闘する気がないのか。
否、と条野は現状を知る。
何も聞こえない。人の発するべき音がない。条野の分しか、この部屋に存在していない。
クリス・マーロウが消えていた。
出入口の電子錠を確認する。壊れてはいない。しかしこれは特定の人間以外には開閉できない。つまり、この扉は条野が部屋に入ってから一度も開けられていない。窓ははめ殺し、ガラスを割る音も壁を崩す音も聞こえなかった。
消失。
少女が一人。
「……一体何が」
状況がわからない。けれど唯一わかっていることは、捕虜が一人行方をくらませたということだ。急いで探さなければ。
条野は懐から連絡機器を取り出した。と、ふわりと柔らかな何かが頬を擦過する。布を思わせる風だった。それが何かを考える前に、条野は緊急事態を通話口へと伝えようとする。
条野の目が光を見ることができていたのなら、部屋を満たすように灯る小さな光の粒子達に気付いていたことだろう。