第4幕
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[Act 4, Scene 16]
腰を強く打ち付けるように転がり落ちた。
「……ッ」
倒れ込んだ先は平らなコンクリート。瓦礫はない。冷えた路面が頬を冷やす。
腕をついて上体を起こそうとする。けれど疲労と怪我の酷い体ではそれすらもできなかった。咳き込めば血がコンクリートを汚す。吐き気と眩暈と、その他の不快感を耐えるように体を丸める。
ここは、どこだ。先程の場所ではない。霞む視界はフェンスを捉えていた。陽光が差し込んでいる。どこかの屋上だろうか。
「やあ、散々だね」
隣に座る人影。
「元気?」
「……嫌味に答える気はない」
「嫌味じゃないよ、本心本心」
どこまで本心かわからせない明るい声で道化師は笑った。息を詰めて上体を起こす。体を引きずり、男と距離を開ける。
「……何が目的だ」
「目的?」
「君はドストエフスキーの仲間だろう」
「ああ、そういうことね」
世間話をするように彼は人差し指を振った。
「別にドス君の指示じゃない。私が君に用があってね」
「……ドス君?」
「うん、ドス君」
当然と言わんばかりにこくりと彼は頷く。
――経験的な話だ。あの得体の知れない男を奇妙な略称で呼ぶ人間にろくな奴はいない。
あの日曜日のひととき、〈頁〉が使われる直前に見たシグマの嫌そうな顔をなぜか思い出した。魔人ドストエフスキーを妙な略称で呼ぶ人間、それはきっと多くはない。
「……もしかして君がゴーゴリ?」
「うんそう」
「……今わかったことがある。わたしはきっと君と仲良くなれる」
「本当? 最高だね、いえーい!」
片手を掲げられたので、その手へとクリスは自らの手を打ち付けた。ぱん、という小気味良い音が屋上に響き渡る。
「茶番はさて置き、君の要求を聞きたい」
手を打ち合わせる以上のことはせず、クリスは平然と話を続けた。
「わたしに何を望んでいる?」
「望んでいるというほどのものでもないけれど」
クリスの態度に何を思うでもなく、ゴーゴリもまた平然と会話を進めた。
「君と話をしたくてね」
「話? 君達はわたしを利用しようとしているだけだろう、今更何を話すと?」
「まあ普通そういう反応になるよねえ、うんうん、普通。ザ・普通」
ぱちんと片目を瞑り、道化師はおどけて笑う。
「そして私の答えもごくごく普通。――あ、でもこれクイズ形式にしてみようか? その方が盛り上がる気がしない?」
「種も仕掛けもない串刺しマジックでもしてみる?」
「何それ面白そ……わわッ、ストップストップ! ナイフが腕に刺さって痛い! どこから出てきたのそれ! 君手品の才能あるねえ!」
わたわたと慌てるゴーゴリはしかし、どうしてか楽しげに笑っている。「疲れる」という彼に対するシグマの評価も頷けた。一つため息をつき、クリスは隠し持っていたナイフをくるくると手の中で回す。
「……君は何をしても楽しそうにするんだね」
「そりゃあもう。だってその方が楽しいじゃない」
それはさておき、とゴーゴリは「うーん」と人差し指で己の顎を軽く叩いた。
「答えをただ言っちゃうのもつまんないけど、これ以上焦らしたら君に何されるかわかんないし。――君、さっき何をしようとしていたの?」
「君に何の関係が?」
「ドス君が言っていたのと少し違う気がしたんだよ」
片目を覆う仮面を取り、ゴーゴリはそれを見下ろしながら手の内で弄んだ。その姿は先程とは違うように見えた。何が、かはわからない。けれど確かに、その横顔からは笑みが薄れている。
ナイフを回す手を止め、クリスはその横顔をじっと見つめた。また何か罠を仕掛けられているのだろうかと思ったが、その様子は窺えない。笑みの絶えない人ではあるが、以前出会った時とは違い何かを隠している様子ではなかった。笑みは残っている。しかし何かを思い出し何かを問いかけようとしているかのように、その眼差しは真剣な回顧を含んでいる。
笑みで本心を隠し、その奥で共感され得ない寂しさを抱えている男。
――親しいものを、その横顔に感じた。
どうしてか、聞き流してはいけない気がした。
「……僕は鳥に憧れている。君と同じだ。誰に操られるでもない自由を求めている。僕が僕でいられる幸福を求めている。ドス君は君が僕達に同意しこの世界を捨てると思っていた。けれど君は何やら違うことをしようとしている。それが気になってね」
「……確かに、以前のわたしなら迷わず君達の仲間になっていたと思う。きっと《天人五衰》事件の悲惨さも今の比じゃなかった」
嘘ではなかった。誇張でもなかった。
ウィリアムとの思い出も夢も願いも、全てが作り上げられた紛い物だったと知った、あの時の絶望は限界が存在しなかった。どこまでも落ちていける気がした。破壊だとか裏切りだとか、今まで怖くて悲しかったこと全てを難なくこなせただろう。
あの時に、ドストエフスキーと――《天人五衰》と出会っていたのなら。
太宰ではなく国木田ではなく、そこにドストエフスキーが、シグマがいたのなら。
自分は迷いなく”国家の消滅”のために彼らと手を組んでいたのだろうと思う。
「自分で言うのも妙だけど、わたしを味方に取り入れて道具として扱えたのなら世界を思い通りに動かせると思う。ドストのやり方は正しいよ、無駄がなくて確実だ。心を壊し、失われた心の代わりに使命を与える……ウィリアムのやり方と同じだ、非の打ちどころもない」
「それが過剰な評価じゃないのが君らしいね」
「君は何を望んでいる?」
問いかければ、ゴーゴリはクリスが言おうとしている言葉を知っているかのように薄く微笑んだ。先程までの陽気さのない、泣きそうになるのを我慢しているような表情だった。
「わたしは幸福のために物語を終わらせる。……君は自由を得るために、何をする?」
「親友を殺す」
簡潔にゴーゴリは答えた。
「簡単な話だね。感情の先へ行くには感情に抗えば良い。常識に反すれば良い。……きっと君達には理解しようのない、僕だけの自由だ」
「そうだね」
理解はできない。親友と呼ぶ相手を殺す心を、クリスは理解しようとも思えない。
けれど、否定することはできなかった。
この男の抱えている思いは、出会ったばかりの人間がどうこう言えるほどのものではない。クリスが抱えてきたものと同じほどに、それは深く彼の心の奥に根を張っている。
「……きっとわたしのやろうとしていたことも、君には理解し難いんだろうな」
クリスの言葉に、ゴーゴリは「うん」と肯定を示す。
「羨ましいくらいだよ。君達は感情的だ。それへ疑問を一切持たずに生きている。それどころか感情の示すままに自滅を選ぶ」
その声に起伏はない。無理解を当然としている節があった。怒りも嘆きも悔しさも、ずいぶんと長い間忘れてきたのだろう、そう思わせる横顔がそこにある。無感情、無関心、ゲージの中を走り回る小動物をつまらなそうに眺めているかのような虚無。
それを見つめる。
かつての己を、そこに重ねる。
生も死もどうでもよくなったあの時を、海の中に落ちたあの時の静寂を、心地良さを、思い出す。
あの時のまま水底に沈んでしまえたなら、今のこの状況を嘆く心もなかっただろう。探偵社がちりぢりになり、後輩を使われ、《猟犬》に襲撃されたとしても、悲しみも苦しみもなかったのだろう。そちらの方が楽だったに違いない。幸せを求めないでいた方が幾分か幸せだったに違いない。
それでも。
それでも――クリスは顔を前に戻して目を伏せた。
「わたしはそれで良いと思っているよ」
「それが誰かから与えられた君自身のものではない意志だとしても?」
「確かにこれは、与えられた脚本だけど」
胸元を掴む。死期に似たうすら寒い心地が漂っている。
「それを演じようと思っているのはわたし自身だ。だからこれは、わたしの思いだ」
初めは無我夢中だった。死なないために、ただそれだけを考えていた。縋るように追い求めていたそれが偽物だったと知って、小さな足場しかない場所に取り残されたような孤独に気付いて、悲しみに潰れてしまいそうになった。
それでも。
「救いたいと思ったんだ」
あの人のように。
あの人の強さのように。
「人生でただ一度だけで良い、最後くらい、あの人と同じ人間になりたい。……殺すではない未来を選んでみたい。それが今なんだ。だから、これはわたしの選択、わたしの意志だ」
クリスは普通にはなれなかった。探偵社員にもなれなかった。一般市民にもなれず、舞台女優にもなりきれなかった。
けれど、ただ一度だけ。
最後の一度だけ。
確実に――恋焦がれて追い求めた、羨望し続けてきた自分になれる。
「それが君の自由か」
ゴーゴリが呟く。そうか、と数度言い、そして手にしていた仮面を顔に再び着けた。すっくと立ち上がり、上空へと両手を伸ばした「うーん!」と伸びをする。
陽気な道化師の姿がそこにはあった。
そしてそれは、孤独の告白という二人の時間の終わりを告げるものだった。
「はい、どうぞ」
くるりとこちらを向いたゴーゴリが手を差し出してくる。躊躇い、しかしクリスはそれへと手を乗せた。強く引っ張られ、どうにか立ち上がる。
ぐ、と腹部の服を掴む。じとりと血に濡れた布がクリスの手を汚す。
この手は既に汚れている。介入者だとか舞台女優だとかよりも、きっとテロリストという名の方が相応しい。
それでも。
「……君達に会って、わかったことがある」
顔を上げた先でゴーゴリは静かに微笑んでいた。いつ見ても変わらない笑み、不気味なそれを、見つめる。
異能のない世界を創ると言ったドストエフスキー。『家』という自分の居場所を求めたシグマ。誰も理解し得ない自分だけの自由を求めるゴーゴリ。
国家の消滅、戦争がなくなる世界。
「……わたしは、ギルドでもなく探偵社でもなく……《天人五衰》が、一番近しかったんだろうね」
何かに抗う意志、破壊する力、自らの幸福を叶えたいと願う心。
きっと、わたしが本来行きつくべきは彼らの隣だったのだろう。
「それでも君は行くんでしょう?」
「うん」
頷く。迷いなく、頷く。
「行く。わたしの本当の願いを叶えに行く」
「そう。なら君を止めることは僕にはできないね。……ん、もしかしてこれじゃさっき邪魔したの悪かったってことになっちゃう感じ? いやあね、君が死んじゃったら話ができないなあって思ってさ。せっかくこうして同じ世界にいられたのなら、一度はちゃんと話してみたいじゃない?」
「いや、問題ない。むしろ礼を言いたいくらいだよ」
両手を大きく振り回すゴーゴリの大袈裟な仕草に笑いそうになりながら、首を横に振る。
「君があの場から助け出してくれたおかげで、もう一つやりたいことが増えた」
「やりたいこと?」
「ちょっとした余興だ」
「ふーん、そう」
興味なさげな声で――しかし笑みを潜めて言い、ゴーゴリはくるりとその場で一回転した。
「さあって、私は空の上で奮闘中の同僚に会いに行くかなあ! ……あ、そうだ」
ぴたりとクリスに向き直る位置で回転を止め、ゴーゴリは一歩歩み寄ってきた。何事かと見上げるクリスの真正面で、彼は右手で帽子のつばを持ってふわりと持ち上げ、それを己の胸元へ当てる。もう片方の手で外套の端を広げつつ、片足を引き頭を垂れる。
「良き物語を」
歌うように彼は告げた。
「我らが鳥の自由に幸あらんことを」
「……我らが人の自由に幸あらんことを」
片足を引き、ドレスの裾を摘まみ上げるように両手を体の脇で微かに掲げ、背筋を伸ばしたまま膝を曲げて頭を低める。
一対の礼、二つの祈り。
「――これより始まりしは哀れな小鳥の脱獄活劇。天よ我らが舞台をご覧あれ。地よ我らが歌声を聞きたまえ。我らの祈り、叫び、想い、天に散り地へ墜ち全ての人々の心の鐘を鳴らさん。この哀れな小鳥の羽ばたきを末まで見守られんことを」
どうか。
「主よ――我らに真の幸福を与えたまえ」