第4幕
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嫌だ、と泣き叫びたかった。どうして、と誰かを責めたかった。けれど何もできないまま、瓦礫の中で座り込んでいた。
条野の持つ端末の向こうに、あの人がいる。自爆したはずのあの人が、生きている。
生きて、いる。
敵の手の中で――生きている。
「彼の他にも、与謝野晶子と福沢諭吉を捕らえてあります」
出会った時から変わらない笑みと声音で条野は続けた。
「あなたが我々に同行するというのなら、彼らの命は保証しましょう。従わないというのであれば、彼らを即刻処刑するよう連絡を入れます」
待って。
殺さないで。
わたしから、居場所を奪わないで。
しあわせを、うばわないで。
「どうしますか? これでも、あなたは我々と敵対し万人を殺して逃げ続けますか? 愛した人すらも殺して」
「やめて」
ようやく言えた言葉は短く幼稚だった。
「やめて……ください」
「興味深い音ですね。あなたは先程、何を犠牲にしてでも逃げ続けるのだと言っていましたが……あれは嘘ではありませんでした。そして今のあなたも嘘を言っていない。矛盾していますね。彼らだけは犠牲にできないとでも?」
できない。
できるはずもない。
逆手に持った包丁は、宙に留まり続けているのだから。
「であれば同行していただけますね?」
勝利を確信した笑みで条野は言った。もはやクリスに同意以外の選択肢はなかった。
それは――全ての終わりを意味した。
国に捕縛される。この身を知られる。世界が技術を知る。戦争のための技術、強者が強者であり続けるための道具。それを武装探偵社は保持し続けていた。であれば世間は探偵社を許さない。彼らが無実だとしても彼らがテロを企てていた事実は不変のものとなる。
兵器を擁護するとは、そういうことだ。
そしてそれほどの兵器を一国が手に入れるということは――世界の武力的均衡が崩れるということだ。
本能が、恐怖が、この二人の軍人を殺せと命じてくる。この二人を殺さなければ、探偵社のテロ疑惑は否定できなくなる。この二人を殺さなければ、この異質な人間兵器の存在が全世界の注目を浴びる。
だから、殺せ、と。
けれどその本能に従ってはいけない。直感的に、そう知っている。彼らを殺せばこの物語が変わる。彼らは今後にも必要な存在なのだ。そもそも《猟犬》という著名な名を持つ者を殺したとなればクリスの存在は隠し切れなくなる。
殺しても、殺さなくても、わたしは。
――予定通り、世界の転換点になってくれ。
ドストエフスキーの狙い通り、世界を――結末を大きく変えてしまう。介入者としての本望の達成、クリスがクリスであるが故の結末。破壊者としての、そして兵器としての本能が導く終末。
「……わたし、は」
このままではウィリアムが恐れた事態になる。彼の覚悟が、思いが、全て無駄になる。殺意に応えてはいけない。どんなに恐怖が身を包もうとも、この二人の敵を殺してはいけない。
けれど。
どうすれば良い。
彼らを殺すことなく、国木田達を殺させることなく、世界に知られることなく、この場を切り抜ける。
どうやって。
目の前の男を睨み上げる。赤く汚れ切った服の胸元を強く強く掴む。
――一つだけ、あった。
いつか必ず成さなければいけない使命、それを今、成せば。
「……わかった」
それは誰に対する答えでもなかった。
「わかったよ」
胸元を掴んだまま、目を閉じる。目の前に広がった暗闇の中へ、記憶を映し出す。
ベンが残した手記には、これが「ウィリアムの遺した最後の作品だ」と書かれていた。ウィリアムが書いてきた作品は全て覚えている。その順番も、結末も、全て。
ウィリアムの最後の作品の名前は――「[#rubyあらし_The Tempest#]あらし」。復讐のために魔法を習得し、孤島に復讐相手を難破させた男の話。
そしてその結末は。
――強すぎる力は不幸しか呼ばない。使いこなしてみせても、結局それを求める人達が集まって奪い合いを始めてしまう。もう要らないなら、手放すのが一番だ。
過去を許し、不必要となった魔法を捨てるのだ。
これが「あらし」の名を冠する舞台なのだとしたら、その結末は、そのためにすべきことは。
もう、わかっている。
「手伝って、【テンペスト】。叶えて、【マクベス】」
囁く。応えるように風が頬を撫で、渦を巻き、クリスを取り囲む。そこへ蛍に似た仄かで小さな光が伴う。
光り輝く絹のように、一律に飛ぶ蛍のように、光と風が共にクリスをふわりと巻く。
「わたしは全てを認め、許し、受け入れる。そして全てを手放す」
それが、わたしに望まれた正しい物語。
「全てをここで終わらせる。舞台を終焉へと導く」
「何を……!」
状況を飲み込めないまま条野が手を腰の長剣へと伸ばす。人の体でできようもないほどの素早い抜刀すら、クリスは許さなかった。殴るような暴風が条野を吹き飛ばす。遠くで条野が身をひるがえして受け身を取る。
「鐵腸さん!」
条野が叫ぶ。
「彼女を制圧してください! 彼女は今テロを実行しようとしている!」
「承知」
答えるや否や、鐵腸は既に抜刀していた。銀色の刀身を掲げ、クリスへとその切っ先を据える。
「【雪中梅】」
剣が振り下ろされる。遠くからのそれを、しかしクリスは見守るようなことはしなかった。戦闘開始早々にあの剣を投擲するとは思えない。しかしその距離から振りかぶっては防御ができない。ならば考えられることは、”この剣撃はクリスへ届く”という鐵腸の確信――並みならぬ戦闘手段の所持だ。
立てないまま横へと転がりつつ全面に防御壁を生成。予想通り刀身の届かない距離から斬撃が防御壁を叩き、しかし波打つように数度放たれたそれによって防御壁は難なく破壊された。
「く……!」
刀身が伸びたのを見た。蛇腹状の剣というわけでもない。であれば異能か。あれほどのもの、怪我と異能で思考が乱れているクリスの防御壁数枚では防ぎようもない。
なら、こちらへ攻撃する暇を与えなければ良い。
「【テンペスト】!」
銀風と水弾が飛び込むように鐵腸へと襲い掛かる。同時に上空から氷柱を落とす。少しでも妨げになればと鐵腸の周辺の空気圧を変える。それでも鐵腸はその剣を振り回して全てを斬った。斬られた水弾が彼の眼前へと広がって視界を歪めるも、無尽に宙を走る稲妻は銀色を掻き消し氷柱を打ち砕く。ことごとくが鐵腸に届く前に霧散する。けれど絶えず、クリスは攻撃をつぎ込んでいく。
鐵腸の手を止めておければそれで良い。その隙にこちらですべきことを終わらせる。
鐵腸へと向けているものとは違う、絹のような柔らかな風が周囲をたゆたっていた。それは綿毛を運ぶ春風のように光の粒子を乗せている。それを遠くへと飛ばす。ゆらりと風呂敷を広げていくように、風が光を周囲へ、遠くへ、運んでいく。
あの光は異能力【マクベス】の力そのものだ。あれに触れて初めて再定義の異能が発動する。発動に至っていないそれを、無抵抗異能【テンペスト】を使って全世界へと運ぶ。そうすれば【マクベス】の効果が全世界へもたらされる。この状態ならばまだ反動は発生しない。既にこの体から痛覚は消した。後はただ、思考が追いつく限り異能を使い続けるだけだ。
「リア!」
ヘカテが警告の声を発した。
「後ろです!」
その声と同時に、背後の気配に気付く。振り返るより先に体を傾け、襲い掛かってきた切っ先を避けた。首を狙ってきた条野の軍刀はしかし、クリスの肩口を斬り裂く。
「く……!」
血が飛ぶ、衝撃が全身を叩く。しかし、鐵腸を襲う異能と世界を渡ろうとしている異能、両方への意識は途絶えさせずに済んだ。
クリスの異能は想像力が鍵となる。想像さえできればあらゆることができる。けれど、鐵腸という《猟犬》部隊隊員の足止めと世界中への【マクベス】の光の運搬、それだけでもかなり思考は奪われていた。条野の相手をする余裕はない。
「やめてください」
転がりつつ体勢を整え、腰から拳銃を引き抜く。視界が歪み霞んでいるが、戦闘なしでどうにかなる状況ではない。
「テロを起こすわけじゃない。これはあなた方には関係のないことです」
「けれどあなたは同行を拒絶しましたね」
軍刀が薙いでくる。それを銃身で受け止め、滑らせ、弾き飛ばす。
「取引は不成立。探偵社員はあなたのせいで死にます。それで良いと?」
「殺させません」
突き。鋭い切っ先が突っ込んでくる。けれどクリスの目はそれを視認できた。銃弾の視認すら可能になっていたのだ、その程度他愛ない。クリスの身体能力は着実に兵器として成長していた。
胴を狙ってきたそれを、左半身を下げるように体を捻って回避、その流れを利用して右手の拳銃を条野へ突きつける。
そして――引き金は引かなかった。
「――本部と連絡を取る時間を与えなければ良いだけのこと」
「奇妙な方ですね、あなたは」
軍刀をクリスの首へ添えながら、条野はクリスと向き合う。先程までとは違う表情が条野の顔にあった。笑みではない、相手に興味を持ち観察している気配がそこにあった。
「殺しに躊躇いがない、なのに私達を殺そうとしない。あなたは一体何者でしょうか」
「ただの人間ですよ」
クリスは微笑んだ。それを口に出すことを喜ぶかのように、笑みを零した。
「幸せを求めているただの人間です」