第4幕
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[Act 4, Scene 15]
一人ぽつんと現れた条野に、しかしクリスは呆然とする他なかった。
《猟犬》。それが何なのかは知っている。彼らは今探偵社捜索をしているはずだ。なのにどうしてここにいる。クリスが墜落したその近くで偶然事件の捜査をしていたとでも言うのか。
とにかく最悪な事態だ。どうやって躱すか。
「……軍人さん、ですか?」
心底困ったような顔でクリスは首を傾げた。初対面の相手へ向ける曖昧な笑みを顔に浮かべる。
「えっと、何があったんでしょう? いつの間にか周囲がこうなっていて……」
「おや、記憶がないのです?」
「ええ。どこかから落ちてしまったのか、何かが落ちてきたのか……」
「それは困りましたね」
ふむ、と条野は自らの顎に手を当てた。考え込む素振りだった。
「あなたにお訊ねしたいことがあったのですが」
「わたしに?」
「ええ」
カツリ、と一歩条野が歩み寄ってくる。知らずのうちに僅かに身を引いていた。逃亡を求める無意識がクリスの中に生じていた。
これは、危険なものだ。
逃げなければ。
早く、早く。
「人を探しているのです」
早く。
「クリス・マーロウという女性をご存じありませんか?」
条野は笑みを変えることなく告げた。
――心臓が大きく脈打つ。
「……いえ」
覚えのないことを警官に訊ねられた民間人のように、クリスは条野を凝視したままゆっくりと首を横に振った。
「知りません。申し訳ありませんが……」
「そうでしたか。どうやら嘘をつくのが上手なお方のようですね」
呼吸が狂う。全身が震える。
怖い。
「……はい?」
クリスは訳がわからないとばかりに呟いた。話題とは無関係の市民そのものに見えているはずだった。クリスの演技力が通用しない相手など、いないはずだった。
なのに。
「あなたがクリス・マーロウですね」
この男は。
「《天人五衰》事件についてお聞きしたいことがあります。ご同行願えますか?」
「な、んのことですか? 《天人五衰》事件って、あの、武装探偵社の事件でしょう? わたしと何の関係が?」
「おや、そのことは記憶していらっしゃると。そうでしょう、あなたは元より何を忘却したわけでもない。私達警察を頼りにするではなく敵視する理由が、あなたにはしっかりと存在している」
条野は笑んでいた。
「どうしてそう言い切れるのかと言いたげですね? お答えしましょう。先程あなたが働いていたという劇団へお邪魔してきました。記録が一切なくとも人の記憶を辿れば真実には辿り着けるものです。そこでリアという女優とクリス・マーロウが同一人物であることが判明しました。情報源が増えれば事実はより明瞭に見えてくるもの。リアの風貌の証言を集めれば、空白は一人の女性の姿へと変わります」
リアとクリスが同一人物だと知る人間は少ない。クリスが劇団で働いていると知る人間も限られている。そもそもクリスのことを知人として覚えている人間がごく少数だ。
なのに、この男は――クリスを探し出してみせた。
これが、《猟犬》。
悪を追い決して逃さぬ国家の番犬。
「……知らない」
後ずさる。立ち上がることさえできないまま、腰を擦るような動きで条野から距離を離そうとしてしまう。
怖かった。
どうしようもなく、怖かった。
今まで向かい合ってきたとは違う恐怖が、確かにここにあった。
知られている。
気付かれている。
――見られている。
「わたしは、そんな名前じゃない。他人の空似です」
「あなたが否定しようが構いません。クリス・マーロウという名に明らかにあなたは反応し、そして私の話に逐一動揺している。全て聞こえています」
「聞こえ……?」
「心音、発汗、関節や筋肉の稼働音。それらを探れば目の動きや顔色といった視覚情報も問題なく受け取ることができます。多少距離があろうともその場の人間の生命音はおおよそ聞き取れますよ」
なので、と条野は何かを予見している余裕を宿したまま肩を竦めた。無言のそれを、クリスは呆然と見――そして気付いた。
条野の背後、誰もいない路地の中、建物の影。
銃口が一つ、こちらを向いている。人差し指がかかった引き金、照準器の向こうからこちらを睨み付けている双眸、視線。
「駄目だ!」
クリスは叫んだ。
「やめろ、ヘカテ!」
警告と発砲は同時だった。銃声、単調な炸裂音。それは火薬が発火したことを告げる音だった。
けれど――弾丸は前に飛ばなかった。
路地に何かが迸る。雷のようなそれは弾丸も銃身も、それを構えた人間すらも切りつけた。宙に鉄の欠片が散る。それに赤が混じる。
「くッ……!」
ヘカテが路地から駆け出す。そして、横から飛び込んできた男へと応戦するように拳を握り込む。しかし顔を狙った右手は首を振って容易く避けられ、みぞおちを狙った左手は手のひらで受け止められてしまった。ならばとヘカテはみぞおちへの一撃を防いだ相手の手首を掴んで引き、空いた脇腹へ蹴りを試みる。
全てが素早い動きだった。急所を的確に押さえている。並みの犯罪者相手なら難なく制圧できただろう。
蹴りは違いなく相手の脇へと的中した。肋骨の下、内臓へ直接衝撃を入れられる箇所。通常ならば息苦しさに一瞬程度は動きが鈍る。しかし相手は全く怯まなかった。蹴撃を避けることなく受け、それでいて平然とヘカテを見遣っている。
無表情。
闘志も敵意もないそれをまとったまま、ヘカテの足を掴み上げる。そして――決して小柄ではないヘカテを腕の一振りだけで投げ飛ばした。
「な……!」
驚愕の声を漏らしたままヘカテが外壁へと激突する。衝撃音、破壊音、粉塵が舞う。
「ヘカテ!」
「お見事です、鐵腸さん」
条野がパチパチと手を叩いた。
「これで証拠が取れましたね」
「政府の人間が政府の人間たる我々を撃つとは」
二人分の軍服がはためく。揃いの軍帽が、軍刀が、彼らが同一の所属であることを言葉もなく告げてくる。
「二人を捕縛してください、鐵腸さん。特務課職員の方は問題ないでしょうが、クリス・マーロウは異能者です。お気を付けて」
「逃げてください! あなただけは捕まってはいけない!」
瓦礫と化した仲でヘカテが叫ぶ。その全身は瓦礫に埋もれ、塞がりかけていた傷と新たに作られた傷とで周囲に赤を塗っていた。
赤。
「……どうして」
どうして、こうなるのだろう。
ただ生きたかっただけなのに。
ただ、幸せでいたかっただけなのに。
また、こうして他の人が赤色を被っている。
「理由など簡単なものですよ」
条野が見下ろしてくる。その顔には笑顔しかない。
仮面に描かれたかのような、単一の笑顔しか。
「彼を殺さなかったからです」
「……わたし、は」
「あなたに関する記録の一切が世界中から消えました。見事なものです、けれど甘い。『空白を追えば辿り着ける』と我々が気付かないとでも?」
空白。
〈頁〉の発動により生じた消失。
それはクリスという存在を隠すことはできても、なかったものにすることはできなかった。空白と化した記録を集め照合すれば、クリスの行動は目に映らないとはいえ浮き彫りになる。
「しかし時間稼ぎには十分でしたね。探偵社を裏切り、本来よりも大規模なテロを起こすための時間猶予……素晴らしく計画的です」
「……なんの、こと」
「あなたが世界を回っていたことはわかっています。何かから逃げるように――何かを仕掛け回るかのように、あなたは世界中を渡っている。《天人五衰》の正体は武装探偵社です。しかし彼らの海外渡航履歴は世界で発生していた《天人五衰》によるものと思われる事件と一致しない。彼らはいかにして海外で活動をしていたのか……答えは明瞭、あなたという協力者が彼らの指示を受けて活動していたのです」
違う、と言いたかった。けれど言えるわけもなかった。この身が国に追われるほどだったから世界を渡り歩いていたなどと、国の人間に言えるわけもない。
クリスは《天人五衰》ではない。けれど、そうであるという証拠が集まっている。
空白という名の――事実が。
「お見事でしたよ。記録の消去、探偵社との関与の隠蔽、別人としての生活……これ以上ないほどにあなたは犯罪者として最上の足場を作り上げていました。ですがもはやそれも無意味です。一人の人間の存在があなたを我々の前に引きずり下ろしました」
言い、条野はそちらを見遣った。クリスもまた、そちらを見つめる。
瓦礫の下で動けないままのヘカテが、苦痛の表情をこちらに向けている。
「彼さえいなければ我々とてあなたに辿り着けませんでした。逆に言えば、彼さえ殺していればあなたはテロを完遂できた。これがあなたの失敗です」
殺して、いれば。
殺してさえいれば。
やはりそうなのだ。殺したくないだとかの甘い感情が、結局わたしを殺す刃に変じる。何があっても殺さなくてはいけなかった。
生かしてなんて、おけなかった。
「ご同行いただけますね?」
条野が微笑む。
逃げられない。
逃げられ、ない。
それでも。
「……駄目だ」
「はい?」
「駄目なんだ」
生きろとベンは言った。君を守るとウィリアムは言った。わたしは彼らに報いなければいけない。決して、この世界に自分を晒してはいけない。
殺したくないなどという思いを潰してでも。
わたしは。
ぐ、と服の胸元を握り締める。染み込んでいた血が僅かににじみ出てくる。
「……あなたの言う通りです、条野さん。わたしは彼を殺すべきだった。わたしはそういう人間です。何を犠牲にしてでも逃げ続けなきゃいけないんです」
だから。
顔を上げる。こちらを見下ろしてくるその顔を、真っ直ぐに見つめる。
「行きません」
告げる。
「強引にでも連れて行こうと言うのなら――あなた方のみならずこの周辺にいる人間全てを殺します」
本当は殺したくなどない。けれど他人の命よりも自分自身を優先しなければいけない理由が、クリスにはまだある。
己の願いより優先すべき使命が、まだある。
「脅し、ですか」
クリスの言葉に「ふむ」と条野は唸り、困ったように顎に手を当てて宙に視線を泳がせる素振りを見せた。それは殺人を予告された警官が浮かべる表情ではなかった。
余裕。
――まだ切り札があるという、絶対的な。
「思ったより難儀な相手ですね。ではこちらも相応のお話をしましょうか」
条野は胸元から何かを取り出した。タブレット型の電子端末だった。それへと数度指を滑らせ、そして彼はその画面をクリスへと見せるように向けてくる。
瞬間。
瞬きを忘れた。呼吸を忘れた。虚勢も覇気も決意も忘れた。全てを忘れたまま、それを凝視する。
言葉が出てこない。声が出てこない。唇はわななくばかりで、目はそれから離すこともできなくて。
泣きたい。叫びたい。呼んで、縋って、もう一度。
「……ん、で」
どうして。
どうして、この世界は、神様は。
わたしをどこまでも追い詰めてくる。
「我々の手元には彼がいます」
白い部屋、開かない窓、一つのベッド。白の枕と白の布団、それらに囲まれた寝台上の男。全身を巻く包帯よりも先に、両手首の先がない異様さが目に焼き付く。
「国木田独歩――彼をあなたとの取引材料として提示しましょうか」
どこかの部屋を映した端末を見せつけながら、条野は楽しげに微笑んだ。