第4幕
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水の中に落ちたことがある。全てが嘘だと知った時、全てが煩わしくなっていた時。太宰に誘われて、海に連れ出されたあの時。
覚えている。水の音、重く大きなものが液体の中に落ちた音。耳元を塞がれたような心地、全身を風とは違うものに包まれ世界の雑音が全く聞こえなくなった数秒。
安らぎがそこにあった。求め続けた静寂が――敵のいない、わたしが誰の作り上げた何でもなくなった喜びが。
わたしがわたし自身にようやくなれた一瞬が。
――そして、そこから引き上げた手があった。
沈むわたしを引っ張り上げて、再びその隣へと導いてくれた手が。わたしが何であっても自分が何であっても何も変わりはしないと言い切ってくれた人が。
あの人はヘリから敵もろとも飛び降りて自爆したらしい。あの人もこうして落ちていったのだろうか。掴んでくれるものも何もない中、ひたすらに落ちていったのだろうか。
あの人は、どんなことを思いながら落ちたのだろう。
死。あるいは探偵社という正義の心を汚されたことへの怒り。己が犯罪者であるという覚えのない事実、行き場を失った絶望。
――違う。
遠くで、近くで、叫んだ己の声を聞く。
違う、あの人は絶望しながら行動はしない。あの人は、国木田は。
決して墜ちぬ希望を胸にいつまでも走り続ける人だ。
「――ッ!」
覚醒、視界が開ける。目の前に広がる青。上から下へと流れる風景、頭部を引き込むような重力。そして――視界の端から迫ってくる赤い殺意。
「【テンペスト】!」
落下速度の衰えないまま叫び片手を伸ばす。銀色が風圧を無視して上昇し、滑空してくる赤い弾丸へと真正面から駆けていく。
国木田は光だ。闇に溶け込もうとするクリスを何度も照らし、何度も苦しめ、慣れない光の中で迷子にならないよう一度も手を離さないでいてくれた人だ。救うとはそういうことだ。相手を苦しめ、それでもずっと隣にい続けることだ。
なら、わたしは。
わたしが今すべきことは。
「君を助け出してみせる!」
落下し続けるクリスの周囲に光が迸る。それは電光ではない、反射光だ。太陽の光そのものだ。
――宙を踊るように水滴の群れが集い、固まり、渦を巻く。
駆けていった銀色もまた水に変じる。鋭い勢いで突っ込んでいった輝く透明なそれは、空の色を透かしたまま血弾と衝突した。赤と青が散る、青の中に赤が混じって色を薄め、やがて全てを空色へと変える。
空気中から生じた水を纏いながらクリスは宙で体を捻る。柔らかな水がそれを支え、浮力でクリスを押し上げる。
体勢を立て直したクリスの上空に人影があった。日光を背にした黒衣。そこから射出される赤い液弾。それへ応えるようにクリスの周囲から水の弾丸が射出される。水弾が血弾と衝突し、溶かし、無色へと変える。それを横目にクリスは足元の水を凍らせ、それを足場に跳躍した。風が体を押し上げる。銀色がクリスに伴う。
水の塊がホーソーンの手足へ纏わりつく。強引に引き千切ろうとするも、水は柔軟に変形するだけだ。それでも赤い粒子は絶え間なく飛んでくる。その全てを水で受け止めて溶かし蒸発させる。幾多もの殺意が宙へと溶け消えていく。
血を溶かした水のいくつかを氷に変え、それを踏んでクリスは上昇していった。宙を駆け上がる。ホーソーンの驚愕の面持ちが近付いてくる。血弾を射出されればされるほど、空中に水滴が浮かび、それが氷に変じてクリスの足場となる。
「わたしは君を殺さない、君にわたしを殺させることもしない!」
ホーソーンの異能は自身の血を消費する。そして、人間の出血量は無限ではない。限界が近付けば動きも鈍くなり、限界を超えれば戦いなどしていられなくなる。
銀色の風がホーソーンの表皮を浅く切る。血が飛ぶ。小さな赤い雫が鋭利な銃弾へと変貌しては、水弾に包まれて掻き消える。
このまま血を消費させれば、死ではない戦闘の終わりを迎えられる。
声は届かない。物語は変わらない。わたしは部外者でしかない。
それでも。
だからこそ。
「これがわたしのやり方だ!」
上昇してくるクリスに、ホーソーンは次々と血弾を浴びせてくる。雨のようなそれらを水の膜で受け止め消し、背後や下方から飛来してくるそれらも防ぎ、ただひたすらにクリスは宙を駆け上がった。
氷を蹴る、手を伸ばす。指の間で険しい顔のホーソーンと目が合う。
――親しさの欠片も浮かばないそれを、睨み付ける。
最後に生じさせた氷を大きく蹴ると同時に、クリスは周囲に熱風を生じさせた。異なる温度の空気が隣接、それがホーソーンへ蜃気楼現象を見せる。クリスの位置を見誤ったホーソーンの攻撃は防ぐ必要もないまま脇へ逸れていった。幻影に惑わされるホーソーンが戸惑うその一瞬のうちに、クリスはホーソーンの腕を掴んで自身の体を引き上げる。
高度が揃う。二人の異能者が、宙で水平に向かい合う。
「はああああッ!」
体を捻り下半身を旋回、右足で回し蹴り。強襲してきた踵をかろうじてホーソーンは腕で防ぐ。その顔が苦痛に歪む。それへと真正面から拳銃を向け発砲、後方へ反って避けた彼の動作は予知した通りだった。クリスは宙で身を返して左足の甲をさらに叩き込む。衝撃と回避でホーソーンはさらに後方へとのけ反る。
ホーソーンの体勢が崩れていく。連続攻撃に耐え切れず、防戦一方になっていく。
これが目的だった。
彼の胴へ水の塊が纏わりつく。重みが増した全身が重力によって地上方向へと傾ぐ。危機を察したホーソーンが血弾を射出させてきた。その全てを水に飲み込み、氷に変え、一歩跳躍――押さえ込むようにその首元を左手で引っ掴み宙へ押し込む。ホーソーンの手がクリスの手を剥がしに来る。男性の腕力に敵おうとも思っていなかったクリスの手は難なく離れた。しかし剥がされた瞬間、クリスはその顔面へ右手の拳銃を向ける。突きつけるような距離の発砲をホーソーンは首を振って避ける。思考をさせない連続的な行動。それ以上のことができるわけもなかった。
「く……!」
ホーソーンはもはや倒れかかっていた。足場から落としてしまえばあとは落下するだけだ、彼は風を操れない。宙に足場を作れるだけなのだ、着地はできれど落下の衝撃を緩和するすべはない。
なら、落としてしまえればそれだけでダメージになるはず。
空中戦においてはクリスの方が有利だ。
胸元を蹴って上昇、くるりと縦方向へ回転。
「はああッ!」
右踵を肩口へ叩き落とす。異能の風圧と気迫を乗せた蹴撃に蹴落とされるように、ホーソーンは足場から足を踏み外した。
「くッ……ぅああああああ!」
水を含んだ黒衣が地上へと小さくなっていく。途中で体勢を立て直す様子もないままに――落下していく。
うまくいった。
ホーソーンを、倒すことなく撃退できた。
「……ッ」
息をつく。ズッと肝が冷える感覚と共に、体が落下を始めようとする。短時間の激戦のせいで呼吸が乱れていた。まずは落ち着いてから地上へ向かいたい。そう思い、足元へ薄氷を生じさせ着地しようとした、その時だった。
グ、と腰が引っ張られる。
氷の足場から足裏が離れる。
ぐわり、と視界が傾ぐ。
「え……」
自身を見下ろす。何かが体に巻き付いていた。クリスとホーソーンの間を繋ぐように、何か長い紐状のものが陽光を反射している。
赤い、文字列。
詩句の鎖。
落下の直前に胴へ結びつけられたのだ。
「しまッ……!」
グイと引かれる。ホーソーンの落下に引きずられるように、クリスもまた青空の中を落ちる。鎖の先でホーソーンが迫る地上を背に腕を大きく振った。抗うこともできない暴力――紐の先にくくられた石のように、振り回された蟲笛のように、鎖の先端に結びつけられたクリスの体は容易く地上へと叩き付けられた。