第4幕
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風が強い。自身を弄ぶように吹き荒れるそれを、クリスは全身に感じていた。普通ならば煽られて足を踏み外していてもおかしくはない。けれどクリスにそれはあり得なかった。
風は常に共にある。
己のそばに、常に。
「……家、か」
ふ、と伸ばしていた手を目の高さに持ち上げ、そこを行き交う不可視の圧を戯れるように指で触れる。慣れた心地がそこにあった。この身を押し、支え、守り、敵を切り裂いてきた親しい武器。
「やっぱり羨ましいな。わたしには一生得られないものだ」
「当然だ。私とお前は違う」
「そうだ。そうなんだ。……ドストはわたしがここに来ることも知っていたんだよね。伝言か何かあるの?」
軽く首を傾げれば、シグマは気まずげに視線を宙へ泳がせた。今の状況を快く思っていない様子の、人を騙し利用するとは真逆の性格がそこにはあった。素直で、純真で、真っ当な――罪悪感を知る普通の人間が、そこにいる。
「……奴の罠だとわかっていてここに来たお前の考えが全くわからない」
「わたしとしては、硬貨爆弾なんてものを大切な『家』に律儀に積み込んでいるシグマさんの真面目さが理解できないよ。そんなもの、捨ててしまえば良かったのに」
シグマが驚きの表情を浮かべたのは一瞬だった。それはすぐさま、呆れの表情へと変わる。
「……調べすぎだ。世の中には知らない方が良いこともある、余計な情報は敵を増やす、お前のそれは祖国どころか全世界の国家を敵に回す勢いだ」
「もはや癖だからどうしようもない」
「言い切って良いのかそれ」
半眼になった目で物言いたげにし、シグマは大きくため息をついた。「こいつ馬鹿だ」と言いたげな顔だった。「失敬な」と頬を膨らませば「お前といいゴーゴリといい最近会う奴は皆疲れる」と愚痴を言われてしまう。ゴーゴリという人が誰かは知らないが褒められているわけではなさそうだ。
「むう」
「むくれられても困る。……それで、なぜここに来た。これが罠だとわかっていたのなら、《天人五衰》に賛同するというわけでもないんだろう」
「賛同するかどうかは君の”伝言”次第だ」
言い、クリスはついとシグマを見遣る。
「やり方次第とも言えるけれど」
腕を上空へと差し出す。上下左右から押し寄せてくる風圧がそれを押し潰そうと躍起になっている。それらを断ち切るように腕を振り下ろせば、クリスを襲っていた風の一切がドウッと吹き飛んだ。弾かれた暴風がカジノの側面へと叩きつけられ、施設全体が微かに傾ぐ。強風にシグマが腕で顔を覆う。彼の背後で重い物が落ちる音。
腕一つ動かすだけで、クリスは空中建築物をも容易く落とせる。
けれど。
「もう誰も殺さないと決めた」
遠くから流れ込んできた風がふわりと頬を撫でていく。
「それを守れないのなら、君達に賛同することはできない。単純な話だ」
「……奇妙な奴だ」
奇妙、か。
そうなのだろう。今まで呼吸するかのように人を殺めてきた。今更そんなことを言って何になるかもわからない。
けれど、そう決めたのだ。
「……それがわたしの望んだものだから」
見つめた先でシグマは眩しいものを見るように目を細めていた。そうか、とその口が呟く。
「……『家』を望んで奴に手を貸した私も、人のことが言えないということか」
危険とわかっていて、その先にある幸福を探し求めに行く。
シグマもクリスも同じだ。誰もがそうだ。
そうやって、人は己の心が求める幸福を得に行くのだ。
「……わかった」
カジノの扉に佇んだまま、シグマが言う。
「ドストエフスキーからの伝言を言おう」
顔を上げる。長髪が風に広がる。毅然とした面持ちがそこにある。
「『ようこそ、《天人五衰》へ』」
シグマは――ドストエフスキーは告げた。
「『あなたにやっていただくことは簡単です。とある人物を殺してください』」
殺し。
「……話は決まった。わたしは君達の仲間にはなれない」
「まだ続きがある。それに、無理だ」
シグマが顔を背け、クリスから目を逸らす。それは、諦めに似た動作だった。
――目の前のものを救うことを諦めた者のする動作だった。
「ここに来た時点でお前は奴の手駒だ。――続きはこうだ。『彼を殺さなければあなたが死にます。頑張ってください』」
彼。
――刹那。
背後に気配。それは、あまりにも突然に現れた。雲の浮かぶ高空、機体なしには辿り着きようもないこの場所に生じた、一つの人影。
それも――懐かしさすらある、殺気。
振り向く。眩しいほどに明るい青空の中、その黒い姿は宙に浮かんでいる。
はためく黒い外套、その下に纏われた牧師風の服、感情の一切を失った双眸。
「な……!」
驚愕している暇もなかった。
ホーソーンの指がクリスを差す。途端、その指先から血弾が射出された。直線的な攻撃、それも人間の胴など簡単に貫けるほどの。
「【テンペスト】……!」
防御壁が眼前でそれらを押し留める。けれどそれで安心することもできなかった。後頭部に近付いてくる殺気――かろうじて首を振り、血弾がこめかみを擦過するに留まる。
助けを求めるようにシグマを見た。しかし彼は、歪めた顔を背けるだけだった。
「私にはこのカジノしかない。このカジノさえあれば良い。だから、お前がどうなろうが関係ない」
「シグマさん……!」
「すまない」
彼が言う必要もないはずの、謝罪の言葉。
「予定通り、世界の転換点になってくれ」
どういうことかと聞くこともできなかった。
血弾が次々に射出される。それは防御壁の弱点を――一点集中の攻撃には脆いという弱点を知っているかのように連続で壁の一ヶ所を抉ってくる。氷の欠片が弾け飛ぶ。宙に亀裂が広がっていく。
舌打ちし、クリスは防御壁の下から転がり出た。あの血弾はクリスを狙っている。しかし下手に避ければ背後のカジノ施設を傷付けかねない。シグマが立っている場所のすぐ奥は施設の心臓部、距離があまりにも近すぎる。
誰も殺さないと誓った。そして――ホーソーンにこれ以上殺しをさせてはいけない。
彼は、元々そういった人間ではないのだから。
「ホーソーン!」
叫ぶと同時に防御壁を展開、今度は蜂の巣状に壁をいくつも並べ、それを数層重ねて宙に生じさせる。集中攻撃を受けても損壊が少なく、壁一つを壊せたところで次の防御壁が血弾を阻害できる。それをホーソーンから守るようにカジノ全面へと拡大させた。数が多いとはいえ全て同じ構造だ、想像は難しくない。
バリアのように広がったそれへとホーソーンは迷いなく血弾をつぎ込んでくる。防御壁の一ヶ所だけが削れ砕けていく。時間をかけてでも防御壁を破壊しようというのか。
「聞け、ホーソーン!」
叫ぶ。叫びながら、腰の拳銃へと手を伸ばす。けれど取り出せないまま、目の前の光景を見つめていた。
戦いたくはない。これがドストエフスキーの罠ならばなおさら。けれど戦わずに回避できるような相手ではない。そして、殺さぬよう手加減ができる相手でもない。
「もう殺す必要はないんだ! ミッチェルは助かった! もう、鼠の指示に従う必要はない! だから!」
防御壁が割れる音。止まぬ攻撃音。宙へと弾ける血。
赤の。
「――もう良いんだ!」
もう良い。殺さなくて良い。傀儡でい続けなくて良い。また、ギルドで聖書を読んでいてくれれば、たまに一緒に昼過ぎのティータイムを過ごしてくれれば、それで良い。
それで、良いのに。
「目を覚ませ!」
お願いだから。
「聞いて……!」
声よ、届け。
「わたしの声を聞いてよ、ホーソーン……!」
ウィリアムを失って呆然自失としていたクリスが、初めて信じて良いのだと思った人だった。死人同然のクリスと向かい合い、常識を教えてくれた人だった。神というものを教えてくれたのも彼だった。ねじ曲がったクリスの内側を正してくれたのが、彼だったのだ。
なのに今、ねじ曲がっているのはホーソーンの方だ。
それを正せるのはミッチェルだけなのだろう。おそらく本来の物語ならばそうなのだろう。その役割はクリスのものではない。
わたしにできることはない。
それでも。
「目を覚まして!」
願うことはできる。
「もうやめて!」
彼が自分の異常に気付いて、この場を去ってくれる奇跡を。
「君にはもう誰かを傷付ける必要はないんだ……!」
再び防御壁が割れる音。ホーソーンは平然と同じ箇所へ違えることなく血弾を射出してきている。声が届いている様子はない。どうすれば良い。殺すしかないのか――否、方法があるはずだ。彼がホーソーンなら、ミッチェルを忘れていない優しいままの彼なら、その心に届く言葉が、何かが、どこかに。
必ず。
徐々に壊されていく防御壁を、その奥に佇む黒衣を睨み上げていたクリスの耳に、遠くから別の音が聞こえてきた。
――破壊音。
それは、ガラスが割れる音に似た。
瞬間、背後から左肩を食い破るように衝撃が叩き込まれた。血が眼前に噴き出す。鉄の臭いが鼻を突く。
背後からの狙撃――否、銃弾ではない、これは。
「そ、んな」
詩句弾。クリスの視界の外でも、ホーソーンは同じ攻撃をしていたのだ。
声は、届かなかった。
痛みと驚愕で思考が止まる。瞬間、防御壁の全てが薄っすらと消えていく。氷を割る勢いでつぎ込まれていた血弾を避けられるはずもなかった。
血飛沫、連続して胴を貫通する何か。肉が裂ける焼けるような痛み。
悲鳴が、上げられない。
「クリス!」
誰かが叫んだ。
足元から感覚が消える。鉄板から体が浮く。風が押し出すように吹き付けてくる。
宙へと体が浮いたまま、クリスは手を伸ばしていた。助けを求めるようなそれの先で、シグマもまた手を伸ばしている。
けれど二人の距離は人間の腕ではどうしようもないほどに離れていて。
かろうじて伸ばした足はしかし、鉄板を踏み外す。踵が宙を蹴る。浮遊、水中のとは違う浮力のない中へ、落下。
叫び一つ上げないまま、クリスは天空カジノから転落した。