第4幕
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[Act 4, Scene14]
天空カジノ、その客室天井、水平に広がる鉄板の上。頭上にも足元にも広がる青。たゆたう雲は輪郭がなく、単調な青に柔らかな装飾を与えている。
それらを背景に、クリスはシグマと対峙していた。
「……来たか」
カジノ施設内と外を繋ぐ扉の奥、壁に設置された手すりに捕まり風圧に長髪をなびかせながら、シグマが呟く。
「久し振り、シグマさん」
言い、クリスはそちらへと歩き出した。白鯨の中を歩いた時と似た心地が足元にある。揺れ動く大地を歩行しているような、重力方向を見失い今にも転んでしまいそうになる感覚。けれど転ぶようなことはないまま、ゆっくりと歩を進める。
互いの顔と声が認識できるような距離で、クリスは立ち止まった。
「……君に聞きたいことがある」
「なぜ来た」
睨むような顔で、しかしそこに苦渋をにじませながらシグマは口を開いた。
「これで全てが予定通りだ、介入者。これがあの男の……ドストエフスキーの罠だとなぜ気付かなかった」
「わかってるよ」
平然とクリスは答えた。
「……奴は初めからそういうつもりだったんだ。全てが脚本のように……美しい織物のように、先行きを予見した上で組み込まれていた。わたしは結局、奴の言う通り、目の前の幸福を捨て去ることができないんだ。けど」
ぐ、と胸元を握り締める。そこにある何かを感じ取ろうとするように、目を閉じる。
「……幸福を求めることは悪いことじゃない。理想を求めることも、それが決して叶わないものだとしても、それが誰かを救うものなら何も悪くはないんだ」
「何が言いたい」
「君はあの時、『《天人五衰》の目的に同意するのなら会いに来い』と言った。君達が成す事の一つに、国家の消滅があると聞いた。その詳細を聞くために君に会おうと思って、君について調べた」
目を開ける。眼前に佇む一人の男を見つめる。
笑みもなく。
乞いもせず。
憐れむでもなく。
ただ――見つめる。
「君の記録は三年前からしかなかった。そして君とわたしは同じだと君は言った。それで、君の過去もわかった。……君も知りたがったんだろう? どこから来たのか、どうして生まれたのか、何を望まれているのか。この世界の異物として、どうやって生きていけば良いのか。そして君はこの場所に辿り着いた」
「そうだ」
呻くようにシグマは言った。それは空腹に飢える獣のようでもあり、悲しみを前に立ち竦む人間のようでもあった。
「どこから来たのか、どうして生まれたのか、何を望まれているのか……結局答えはどこにもなかった。ならば作れば良いと思った。ドストエフスキーと手を組んだのはそのためだ。私の幸福のためだ。私のためだ。私は、何者でもなかった私にカジノ支配人という価値を与えた。……確かに私とお前は同じだ。この世界の異物、あるはずのなかったもの、人間と呼べるかもわからないもの。だがお前は破壊という価値を、才能を元より与えられていた。私とは違う。私と同じものなど……このカジノ以外、どこにもない」
羨ましかったのだとシグマは泣き出すかのように吐露した。
「お前の話を聞いて……悔しかった。なぜ私にはないものをその女は持っているのかと……疎ましかった。そんなことをしても仕方がないとわかってはいても、憎まずにはいられなかった。せめてその女が持っていないものを私が持ってしまえば……お前を嘲笑えると思った」
「わたしも君が羨ましかった」
「何……?」
怪訝な様子でシグマがクリスを見つめる。その視線へと、微笑む。
嘘ではない。本心だ。シグマのことを調べて、そして思ったことだ。
――どうして彼は偽物ではない居場所を持ち、笑顔に囲まれ、それを失う必要もないまま享受しているのだろう、と。
「消えることもなく失うこともない君の永久の幸福が、妬ましかった。……でも、わかったことがある。君が君である以上、わたしがわたしである以上、他の誰にもなれないんだ。羨ましがったって真似をしたって演じたって、自分自身の全てが別物になるわけじゃないんだ」
だけど、とクリスは片手を差し出した。何も持っていない、ただの手だった。
「――他人を羨ましがり、幸福を求める。それが心だ。君にもわたしにも、この世界の誰もが持っている心だ。人間である証拠だ。なら、わたし達もただの人間であるということになるんじゃないかな」
わたしがわたしでなければ、と何度も思ってきた。
わたしがわたしでさえなければ、と何度も願ってきた。
けれどそんなこと、あるはずもないのだ。わたしが普通でないというのならそうなのだろう。異物だというのならそうなのだろう。破壊者であるというのならそうなのだ。
けれど、それらの事実は――国木田の前では大した意味もなかった。
彼の、理想を突き詰める生き方に何の影響も与えなかった。
あの強い心に、クリスの正体などというものは微塵も関与しなかった。
ならばそれは。
別段気にする必要もないことなのではないだろうか?
「現状と心は別物なんだ。だから、わたし達が何であったにしろ、わたし達に心があるのなら――幸福を求める思いがあるのなら、それだけで十分だったんだ。手元に何もなくても、手元から全てが消え去るとしても、その思いがわたし達を人間であると証明してくれる」
差し出したクリスの手を、シグマは呆然と見つめていた。張り詰めるように敵意を表現していた表情は既に形を失い、彼の本来のものであろう困惑した面立ちがそこに現れている。
「自己紹介がまだだったね」
にこりとクリスは笑った。演じているわけでもない、普通の笑顔だった。
「クリス・マーロウ。既存の物語を変えるために英国で生まれ、兵器として育ち、逃亡者として世界を渡りながら罪を犯し続けた。この世界に生まれるはずのなかった異物、己の幸福を求める一人の人間。君は?」
呆然とした顔は覇気を取り戻せないままクリスを見つめている。その面持ちのまま、シグマは口を開いた。
「……シグマ。三年前に砂漠にいて、奴隷となり、犯罪の片棒を担がされ……『家』を得るために最後の犯罪に与したカジノの支配人。この世界に理由もなく現れた異物、そして――」
その声は段々と明瞭さを帯びていく。その目に強い眼光が灯っていく。
「――己の幸福を求める、一人の人間だ」