第4幕
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***
武装探偵社がテロリストだったという事実は、ヨコハマという街を暗く覆っている。彼らと同じ街で過ごし、彼らが平和のために駆け回っている様を見続けてきた市民がほとんどだからだ。信じ難いという感想を持つ人間の方が多い。けれど何らかの証拠と確信を持って行動するであろう正義の権化たる警察が彼らを犯人だと断定している以上、事件の詳細を知らない一般市民が反対意見を言えるわけもない。
そうした中で市民ができることといえば、探偵社がテロリストだったという話題に対して「気付かなかったねえ」「巻き込まれなくて良かった」等の他愛ない世間話を続ける程度なものだった。
「それにしても例のテロのせいで客が半減だなあ」
ったくよお、と控室でヨリックが頭を掻いた。へえ、とヘカテは衣装の袖のしわを伸ばしつつ、こともなげに相槌を打つ。
「減っている気はしてましたけど、テロのせいだったんです?」
「ヨコハマに来る観光客が全体的に減ってるらしい。あの武装探偵社があった街だからな、本人達がもういないとはいえわざわざそこに近付こうとは思わんだろ」
「それもそうか」
「ま、一番はリアの不在だな」
大きなため息の後、ヨリックはちらりとヘカテを見遣ってきた。あからさまに好意を寄せていた先輩が突然いなくなったことに対して、ヘカテの様子が気になるのだろう。その期待に応えるように「そうですね」とヘカテはかなり大きく肩を落とした。
「元々この劇団はそういう場所ですから……覚悟はしてましたけど、こう、いざいなくなられると心にきますね……」
「租界でたむろしているような輩に仕事を与えるっていう名目で始まった劇団だからな、ここは。素性は聞かねえ、突然の休暇も有り、その分報酬は実力主義の日払い。マフィアが闊歩しているような港街じゃないとなかなか設立できようもない、お人好しの劇団だよ」
「その分助かっている人は多いですよ。でも、リアも普通の劇団に入れるような人ではなかったってことですもんね……」
「むしろお前が入団できたのが不思議でならねえよ、ヘカテ」
「え?」
きょとんと見上げた先で、赤の派手な衣装を着たヨリックは肩を二、三度大きく回した。服を体になじませるかのような動きの後、大きく脱力する。
「俺もだが、お前も租界とは無縁だろう」
「……どういうことですか?」
「俺は妻がそういう方面だったからな。もう足は洗ったが。……見りゃわかる。お前は盗みも野宿も経験してねえ。むしろそれを疎む側の、正義の側の人間だ。この劇団をわざわざ選ぶ必要はない。けど座長はお前の入団を認めた……演技の実力だけじゃないだろうさ。座長の目は神がかってるからな、素性を話されなくとも”視える”って人だ。その座長が入団を許可したんなら俺にゃあ文句はねえし、お前を疑うつもりもない。ただ、ちっとばかし不思議に思ってるだけだ」
ヘカテは呆然と年上の同僚を見上げていた。心の底から、驚いていた。ヘカテは潜入捜査官だ。それなりに嘘はつけるし、過去も隠せる。クリスほど完璧に別人を演じているわけではないけれど、「明るくて無邪気で、劇団の詳細を知った上で入団した後輩」を演じているつもりではいた。
けれど、まさか一般市民でしかない同僚に「正義の側の人間」であることを看破されるとは思ってもみなかったのだ。
「ま、俺の独り言だ」
ポンとヘカテの頭を軽く叩いて、ヨリックが控室を出ていく。ヘカテもその背と共に舞台へ向かわなければいけなかった。任務対象がいなくなった今も自分はまだ劇団に所属している。観客は減っても公演はある。憧れの先輩がいなくなったとしても、その人が残していった台本がある。
クリス・マーロウではない別人の名前が記された脚本が。
それは友人の名なのだと彼女は言っていた。恩人なのだと言っていた。無念のうちに死んでしまった彼が残したものをこうして形にして、演じて、有名にしたいのだと。
――内緒ですよ、と彼女は懐かしむような顔で囁いてくれた。
『ヘカテにも手伝っていただきたいんです。そうしてくれたら、あの人だけじゃなくわたしも嬉しいですから』
控室に一人きり、ヘカテは立ち尽くしていた。そっと両手を持ち上げ、その手のひらを見下ろす。切り傷やタコの多い手がそこにあった。演劇で得られるはずのない、歪な手。
クリスと――リアと同じ手だ。
けれど彼女ほど綺麗でもない、未熟な手だ。
「……守らなきゃ」
ぐ、とそれを握り込む。
「守らなきゃ」
あの日、擂鉢街でクリスと会った日、ヘカテは殺されるはずだった。けれどクリスはヘカテを殺さなかった。その後街中で会った時も、クリスはヘカテを殺さなかった。
それどころか。
『良いよ、言わないで』
本名を告げようとしたヘカテを、彼女は笑って止めた。
『わたしの中でヘカテはヘカテだから、それ以外の何者でもないから。これからもずっと』
あの言葉が嬉しかった。裏切ってきた相手へ向けるにしては優しすぎるあの言葉が、危険なものとして追われる人間にしては優しすぎるあの心が、好きだった。
好きだったのだ。
なら、今の自分にできることは政府の人間として彼女を追い詰めるではなく、彼女の後輩としてこの劇団で彼女の残した作品を演じること。
――彼女がいつか戻ってきた時に、また、あの日々へ戻れるようにしておくこと。
そのためにヘカテは舞台に立ち続ける。
握り締めた拳をそのままに、ヘカテは控室を出た。舞台袖へ向かわなければならない時間だ。また一つ、誰かの人生の一部をヘカテは演じる。本に書かれた文章でしかなかった物語を、この体で具象化する。
それが演劇だ。
これが舞台だ。
彼女が愛した世界、彼女を愛した神が愛でた世界。
自分はそこにヘカテとして立ち続けよう。彼女が帰って来れるように、彼女が愛した場所が残り続けるように。
おそらく自分は探偵社員ほどにはクリスについて詳しくはない。それで良いのだ。自分にとって彼女は舞台の上の少女であり、劇場の中の先輩でしかない。きっとクリス自身もその程度の認識でいることを望んでいる。ならば、あとは愛すだけだ。
ヘカテの中のクリス・マーロウを――リアという少女を、愛すだけだ。
控室を出、舞台袖へと向かう。見慣れた通路、見慣れた景色。しかし目的地へ近付くにつれ、奇妙な感覚がヘカテを包み込んでいく。
ぞわり、と肌が粟立つ錯覚――客席の冷房が効きすぎている時のような、漠然とした寒気。それは不快さを帯びていた。肌ではなく内臓、肺や腸が粟立っているかと思うほどに、内側からそれは忍び寄ってくる。急いで原因を探したい一方、それを知りたくない気持ちもどこかにあった。結果、いつも通りの足取りのまま、ヘカテは舞台袖へと繋がる両開きの扉へと辿り着いていた。防音性のそれは分厚く重く、それ故に劇場独特の重厚さを演出している。銀色の細長い取っ手を掴み、腕に力を込めて引いた。音もなく扉が動き、舞台袖の様子をヘカテへと晒す。
人がいた。見慣れた同僚達だ。けれど座長もいる。普段は観客席の方から異常がないか見回っているというのに、珍しい。
珍しい光景はそれだけではなかった。
「あなたがヘカテさんですか」
見知らぬ人間が二人いた。軍帽、軍服、軍靴。腰に洋刀風の長剣。うち一人が薄っすらと閉じられた目でこちらを見、悠々と微笑む。
ぞくりと悪寒が増大する。
これが先程からの寒気の正体だと直感する。
「これで揃いましたね、座長殿」
「そうですが……条野様、一体何を?」
いつもは大らかな座長が、突然の事態に肩を縮めている。それもそうだろう、二人きりとはいえ軍の人間が舞台裏に来るなどという状況、怖気付かない方がどうかしている。
「ご心配は要りません。数分で済みます」
条野と呼ばれた軍人は形の良い微笑みを浮かべた。
「クリス・マーロウという者を探しています。ご存じの方はいらっしゃいませんか」
――唐突だった。
ざわり、と舞台袖がざわめく。それは「何のことか」と戸惑うものだった。それもそのはず、この劇団の人間は座長含め彼女の本名を聞いたこともない。
ただ一人を除いて。
「知っていますね」
迷いなくその顔がこちらを見る。閉じられているはずの眼が射竦めてくる。
条野はヘカテを見定めていた。
「……いえ」
悩んだ後、首を横に振る。困ったように眉をひそめる。
「残念ながら……えっと、どなたかお探しなんですか?」
「隠さなくても結構ですよ」
カツ、と軍靴が音を立てる。よくある靴音に心臓が大きく跳ね上がる。
「明らかに動揺したのはわかっています。心拍数の上昇、発汗、呼吸も変わりましたね。他の方は無反応でしたが。この劇団で働いていたというのは間違いなさそうですね。この劇団も彼女の詳細を知らないようですが、一応ということもあります。捜査を入れますか」
「条野」
ふと無口のまま控えていた軍人が口を挟んできた。
「この劇団は以前より犯罪者擁護の嫌疑がある。とはいえそのほとんどは国籍の未取得や住民税等の脱税といった生活困窮による所業。彼らの詮索は今回の任務ではない。特務課から証拠を消していた人間がこのような場所に証拠を残しているとも思えぬ」
それに、とその無表情を固めたような顔がヘカテを見つめた。
「――この程度の施設、一分もかからず制圧できよう」
「急がずとも、ですか。悔しいですが正論ですね、鐵腸さんでは捜査どころか斬ることしかできないでしょうし」
「斬れば出てくる」
「竹や桃じゃないんですから黙ってください」
ほかの調査員が一緒の時にしましょう、と世間話のように言い、条野は腰の柄に手を伸ばした。
「まずはあなたです」
思わず後ずさる。陽気な若手俳優を演じるために尻餅をつこうとしたが、叶わなかった。ただそのまま、足を引く。まるで全方位から掴まれているかのように、必要以上の動きができない。
「特務課、という言葉にも反応しましたね。本来であれば知る由もないはずの単語です、どうしてそれを知っているのですか?」
「何のことですか? さっきから一方的に」
「おや失礼。そうですね、反論の余地もない。それは反論の必要があなたにはないからです。――あなた、ただの俳優ではありませんね」
ポン、とその手が腰の柄頭を軽く叩く。
「あなたは今思考している。今この状況でそれができるのは場数を踏んだ人間にしかできないことです。それも、その血流の動き、筋肉の構え方……反撃の余地を探していますね? おそらく私の抜刀を読み、避けようとしている」
「……そんな、ことは」
「あなたの読み通り、私はあなたの足を狙っています」
ヘカテの言葉を聞こうともせず、条野は続ける。
「足首です。歩けなくしてしまえば逃亡は防げる。それを予測するとは素晴らしい判断力です、舞台俳優にしておくには惜しい。筋肉の付き具合からして銃器も手慣れたものでしょう。先程から手首を気にしているのは、そこに通信機を隠しているからですね。となると現役、こういった場所にいるということは潜入捜査でしょうか」
「軍人さん」
遮るように声を上げた。それ以上言わせるわけにはいかなかった。この場には劇場の関係者が全員集められている。この軍人はわざとヘカテの素性を口に出し、ヘカテの動揺を煽っているのだ。であればそれに耐えたとしても次に来るのはクリスへの言及。彼らを止めなければ、ヘカテのことはおろかクリスのことも同僚達に知られてしまいかねない。
それだけは避けなければ。
彼女だけは、特務課の人間として、彼女の後輩として、「舞台女優」のまま守らなければ。
「……お部屋に案内しますよ」
にこりとヘカテは笑いかけた。
「このままでは公演が始められませんから。せめて、舞台が終わるまで待っていただけませんか?」
「であれば我々も観劇しても?」
ヘカテの内心もわかっているだろうに、ぬけぬけと条野は微笑む。
「このところ仕事続きで、落ち着いて座る時間もないのです」
「構いませんよ。――座長」
席はあるかと目で問うたヘカテに、座長は慌てて大きく頷く。公演中に逃げられないように見張ろうというのだろう、しかし一向に構わない。元より公演中に逃げるつもりはない。公演中に劇場内を漁られる心配がないのならこちらとしても願ったりだ。
「どうぞお楽しみください」
笑いかければ、条野もまた似たような笑みを返してくる。背筋だけ冷凍庫に入れられているかのようだ。けれど、心は定まっている。
彼らが軍人であろうと何であろうと、こちらは特務課の人間だ。独自の連絡手段を持ち、既に上司に連絡を入れている。拷問でも何でもすれば良い、非人道的な方法を取れば取るほど特務課にとって手札になる。
座長に案内され客席に向かう通路へと出て行った二つの背を見送る。それを睨み付ける。
――何を犠牲にしてでも、職務は全うしてみせる。