第4幕
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ヘカテと別れた数分後、クリスは探偵社から幾分か離れた公園のベンチに座っていた。膝元には例の週刊誌が乗っている。先程購入し、問題の記事を読んだのだ。そこには確かにクリスのことが書いてあった。名前こそ出されていないものの、あの記者とクリス、そして国木田とのやり取りについてが記されている。
けれど。
「写ってない……」
そこには写真があった。一人で劇場の近くにいた時の写真や、あの日国木田と共に喫茶にいた時の写真、その他にも数枚。しかしそのどれもが空白を擁していた。
人一人分の、無。
クリスの姿はどの写真にも写っていなかった。記事には「奇妙な現象」として紹介されている。記事によれば、クリスが写っているはずの写真のみならずクリスに関するメモ書きすらも白紙になっていたという。記者の記憶だけを頼りに書き上げたものらしい。
無論、クリスは何もしていない。そしてこの現象、おそらくは初めてのことでもない。
――どの記録も、ここ二、三年のうちに作成されていたのだよ。
太宰の言葉を思い出す。
クリスの記録の一切は数年前に一度完全に消失している。きっとそれも今の現象と同様のものだろう。きっかけはシグマという男を追っていた際に勝手に発動した【マクベス】か。しかし、この事象は三年程前にも起こっている。その時期に【マクベス】が発動した記憶はない。
ならば他に考えられることは。
「……〈本〉」
〈本〉――〈頁〉への書き込みという可能性。
〈頁〉に何が書かれたかという詳細はわかっていない。唯一判明しているのは、探偵社と殺人結社《天人五衰》を同一組織としたことくらいなものだ。そこにクリスのことも書かれていた――否、それはない。〈頁〉とは紙だ、文字数という制約がある。”本来存在していない”人間について書き込めるような余白を”本来”の彼らが残しているわけがない。つまり〈本〉にクリスの消失を書き込まれたという可能性も考えにくいか。であればなぜ。
原因はともあれ、とクリスは記事を睨み付ける。
姿の消失した不詳の女。
これでは軍警の目は掻い潜れない。確実に、接触を試みてくる。
けれど。
「……追ってくるにしてもどうやって……?」
姿も名も不明、ただそこにいたということだけが確かである存在。それを追うとして、軍警はどのような手を使ってくるだろうか。
しばし思考、そして思い至るのはただ一つ。
「……記憶、か」
人の記憶を辿る――であればクリスの追跡はほぼ困難だ。クリスを知り、覚えているのは、ごく少数の人間に限られる。リアとクリスが同一人物だと知る人間はもっと少ないから劇団の筋から辿るのは不可能だ。一番手早いのは探偵社員だろうが、彼らは一切話そうとはしないだろう。
敵は、どのように迫ってくるだろうか。
「……とにかく太宰さんに連絡を取らないと」
クリスに関する記録の一切が消える現象、これについて知っているのは太宰だけだ。今はムルソーに囚われているものの、安吾と繋がっているのならば連絡手段の対策など既に講じてあるだろう。彼は手札なしに孤軍奮闘するような人ではない。
安吾の携帯電話へと連絡を取れば、まさか連絡先を把握されていると思わなかったのか、安吾は電話口の向こうでかなり驚いた声を上げた。
『一応僕は異能特務課の職員なんですけどね』
「その点はご容赦を。なんというか、その、癖なので……」
『政府職員の連絡先の盗難が、ですか。太宰君からはあなたはごく普通の一般市民だと聞いていましたが、澁澤の件の時といい、随分な一般市民殿ですね。……しかし今回ばかりは助かりました。敦さん達はあなたの連絡先をご存じではなかったようなので』
「少人数にしか教えていませんから。……何かわたしに用が?」
ええ、と安吾は言い、そして電話口の向こう側で沈黙した。
『……どうやら、太宰君はあなたのことを覚えていないようなんです』
言葉を失ったまま、クリスは耳元から聞こえてくる声を聞いていた。
『おそらくはドストエフスキーの策でしょう。僕からできる限りの情報は渡しましたが……とはいえ僕もあなたの全てを知っているわけではありません。太宰君は意図的にあなたの情報の多くを隠していましたので』
「……消えたんですか。太宰さんの中から、わたしが」
『そうなります。ですから、気を付けろ、と』
太宰にしては曖昧な警告だった。それが太宰の精一杯だったのだろう。檻の中の鼠が、手を直接下すことなくクリスから太宰を引き離すことに成功した。
この先、何かある。
鼠の手が――眼前に、迫ってきている。
「……善処します。そちらは虫太郎さんを保護されたんですよね」
『ええ、何とか』
「何か新たな情報は」
安吾は虫太郎から聞いたという情報を教えてくれた。《天人五衰》の構成員が五名であり、そのうちの一人が創設者として他の構成員を束ねていること、〈頁〉はまだ裏が白紙であり、そちらへの記入は次の満月に行われること、そして。
彼らの最終目的は不明なものの、その一歩手前の目標が。
「国家の、消滅……?」
呆然とそれを反芻したクリスへ、安吾は深刻さを表す声で答えた。
『最悪な事態が予想されます。彼らが今の第三段階で何をするつもりなのかが不明ですが……太宰君の指示が来次第、敦さん達はその対抗策へと動く予定です』
「……そう、ですか」
『あなたはどうされますか?』
「……少し、考えます。太宰さんにご相談したことがあったんですけど、どうやら難しそうなので」
そうですか、と相槌を打った安吾と短いやり取りをした後、通話は切れる。ツー、ツー、という無機質な音を聞きながら、クリスは宙を見つめていた。
「……国家の、消滅……」
それはどういうことだ。
国家が消える。国が消える。想像ができない。国が消えるということは、秩序がなくなるということだろうか、国境がなくなるということだろうか、人々がいなくなるということだろうか、もしくは。
「……国という区切りがなくなって、世界が一つの機関になるのだとしたら」
だとしたら――それは。
それは。
「戦争が……なくなる?」
十四年前の大戦は国と国による戦いだった。そこで異能が武器として使われた。クリスは兵器として作られた。
もし、国家が本当に消滅するのだとしたら、それは――国同士の争いがなくなるということになるのではないだろうか。
世界がクリスを必要としなくなるのではないだろうか。
――共に世界を創りませんか? 異能のない、利用されることもない、あなたが普通でいられる世界を。
あの言葉が、声が、白い手が。
――その気になったのなら、いつでもお待ちしていますよ。
迫ってきている。
「……フィー」
先程別れを告げた友人の名を呼ぶ。ぱたりと携帯電話を持つ手が膝の横へと落ちる。
「……もしかしたら、助かるかもしれない」
希望が、そこにある。
ずっと前から、あの紫眼が指し示してくれていた希望が。
「もしかしたら……わたしは」
わたしの幸せが、そこにある。
「普通の人間として、生きられるかもしれない……!」