第4幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
別れはいつも突然だ。前触れもなく、唐突にクリスの元に押しかけてくる。そこには常に血の臭いがあった。誰かがクリスの秘匿を暴き、誰かをクリスが殺し、そうして別れという状況が生じる。いつもそうだった。
けれど今回は違った。そしてこれが、きっと最後の「別れ」なのだった。
外套のフードを深く被りつつ、街を歩く。両脇にビルが建ち並ぶ、幅広の道路。人と車が行き交っている。信号が定期的に赤と青を入れ替える。売られているテレビが一斉に同じ番組を映している。
日常が、そこにある。
歩道を歩きながら、クリスはその光景を眺めていた。
港に続く坂道を上った先、そこに建つ赤茶けたレンガ造りの建物が見えてきてようやく、クリスは立ち止まった。
探偵社が入っているビルだ。やはり入り口には警官が立っている。一階の喫茶店と二階の法律事務所は経営しているらしく、窓から照明が点いていることが確認できた。
いつもなら、四階にも電気が点いているはずだった。
日常とは何だろうかと考える。今来た道を、その光景を思えば、ここには確かに日常がある。けれどこの建物の四階には人が出入りしていないのだ。ほぼ毎日誰かしらがいるはずのそこに、人の気配がない。
そうだ、これは日常ではないのだ。
モンゴメリはそれを取り戻すために向かった。彼女が敦達と共にいることは知っている。モンゴメリは行動しているのだ、日常を取り戻すために。
羨ましかった。
探偵社の無実を信じ切ったあの心が、何も惜しまず探偵社のために行動しているその強さが、羨ましかった。わたしがわたしでなかったのなら、そういう方法もあったのかもしれない。この身が世界に追われているのではなかったのなら、彼らのために何かをしていたのかもしれない。
そもそも――彼らを疑うことも、彼らを殺そうとすることも、なかった。
気持ちを隠すこともなかった。
呆然と四階を見つめる。そこにいるはずだった彼らを思う。
この後、探偵社はどうなるのだろうか。やはりこのまま千々に散ってしまうのだろうか。それとも全員捕まってしまうのだろうか。何かの奇跡が起こって、またあの日常が戻ってくるのだとしても――そこにはもう、クリスは戻れない。
「……さよなら」
その一言は、やはり本人達に直接は届けられない。
目を伏せ、クリスはレンガ造りのそれへと背を向けた。そこに誰もいないのはわかっている。誰に会いに来たわけでもない。誰かに会ったところで、何をどう言えば良いのかもわからない。
そうしてその場を去ろうとした、その時だった。
――手が、伸ばされていた。
路地から伸ばされた腕が、真っ直ぐにクリスへと向かってくる。気付き避けようとするも相手の方が早く、簡単に捕まり、瞬発的な強さで引き込まれた。顔を隠していたフードが脱げかける。ぞ、と危機感が背筋を上る。
玄人だ。
隠しナイフへと手を伸ばす。
「静かに」
相手のフードの下から声が聞こえてくる。
――動作の全てが止まった。
聞き覚えのある声だった。陽気さもある、劇場に華やかに響き渡る声、それと同じもの。確かにその生死は確認していない。けれどこんなところで出会うはずもない。
人目に付かない場所まで連れて行かれた後、手はクリスから離れた。
「強引にすみません、クリス・マーロウさん」
言い、彼は顔を隠していたフードを取った。包帯の巻かれた額が目立つ、凜々しい顔立ちの知り合いだった。
「……ヘカテ」
「まさかこんなに堂々と街中を歩いているとは思いませんでしたよ」
少しばかり呆れたような顔をして、彼は軽く顔を横に振った。
「劇場に来なかったのは正解かもしれませんけど……今の武装探偵社の近くに行くのはやめておいた方が良いです。次はどんな話が引き抜かれるかわからないんですから」
「……何のこと?」
「もしかして知らないんですか? 週刊誌の記事」
「記事?」
はい、と頷いてヘカテはふと周囲を見遣った。何かを警戒しているような様子は、やはり劇団の後輩のものではない。
「昨日店頭に並んだ雑誌に、あなたのことが書かれているんですよ」
「リアとしてなら何も問題じゃない。突然ではあるけれど、手順を踏んで退団したはずだ」
「違います、あなたとして――クリス・マーロウとして、載っているんです。それも悪い意味で」
鋭い目つきのまま、異能特務課の一員である男はそれを告げる。
「とある女性探偵社員が見逃されている、という記事なんですよ。今や探偵社員の顔触れは全国民が知ることとなりました。ですが、その中に入っていない社員がいると……劇団所属の女優の警備を担当していた女性社員だけが、指名手配されていない、そういう内容の記事です。外部の人間に探偵社員だと偽ったことは?」
「それは」
考えるまでもなかった。
「……一度だけ、ある」
軍警爆弾盗難事件の際だ。あの時、週刊誌の記者に追われたクリスを庇うために国木田が嘘をついた。確か「舞台女優リアの護衛兼身代わりの同僚社員」という内容のことを話していたはずだ。記事の内容と合致する。あの時会った記者がそれを書いたのだろう。
となると少々厄介だ。あの記者に姓名は告げていないが、その姿は見られている。もしかしたら写真も撮られているかもしれない。今のこの状況を踏まえれば軍警がその記事を見逃すはずもないのだ、そちらの対策もしなくてはならない。
そして、もう一つ。
クリスは目の前に立つ元後輩を見つめた。
「……それで、要求は?」
「要求ですか」
「何か目的があってここにいたんでしょう? 監視か、回収か……そちらの要求をまずは聞きたい」
ここで初めて、ヘカテはクリスから視線を逸らした。何かを言おうとし、けれど躊躇っているようだった。
「……要求、というほどのものではないです。申し出というか。あと、その……ちょっとした、心残りが」
「心残り?」
「どうして殺さなかったんですか」
薄暗い路地で、ヘカテはそう呟くように言って額の包帯に手を当てた。
「殺されると……そう思っていました。あなたも僕を殺すつもりだったはずです。きっとそれが妥当だったんでしょう。なのに僕は生きている……情けではないんですよね。特務課への牽制か、取引か……僕に用があったのはあなたの方なのでは?」
「……そういうつもりで生かしたわけじゃない」
「ではなぜですか」
「殺したくなかったから」
それだけだよ、とクリスは答えた。それが端的な事実だった。確かに情けではない、けれど取引だとかを考えたわけでもない。殺しに意義を見出せなくなっただけだ。
これ以上自分のために知り合いを殺すことに、意味がないと知ったからだ。
そうですか、とヘカテは囁くような声で呟いた。呟いて、そして再び「そうですか」と言った。
「……ありがとうございます」
それは予想だにしない言葉だった。
驚くクリスへと、ヘカテは顔を向ける。そこには笑みがあった。嬉しそうな――劇団の後輩がよく見せてくれていた、照れたような顔だった。
「またこうして会えて、話もできました。あなたに……リアにもう一度会えて良かった」
「……今のわたしはリアじゃない」
「リアですよ。僕にとっては、初めからあなたはリアでありクリス・マーロウでした。租界で出会った僕のことをすぐに僕だと――ヘカテだと見分けてくれたのも、本当は嬉しかった。うまくまとまらなくて申し訳ないんですけど、でも、嬉しかったし嬉しいんです」
だから、と彼はへにゃりと頬を綻ばせた。
「ありがとうございます」
「……それは、わたしが受け取る言葉じゃない」
「受け取ってもらえなくても構いません。僕が言いたいだけですから」
それで、とヘカテは腰から何かを取り出した。それを差し出されるも、その紙が何なのかに気付いたクリスは手を出さないままヘカテを見つめる。
「……どういうこと?」
「逃げてください」
海外行きの搭乗券を差し出しながら、ヘカテはその面持ちを真剣なものに変えて言った。
「この国から、一刻も早く。今、この国は武力行使による探偵社制圧を試みています。武力が求められている段階なんです。今のこの状況で手記の存在が国に知られたら、大きな問題になる。国に手記を知られるよりもあなたを手放す方が損害が少ないという局長補佐のご判断です。今ならまだあなたは探偵社員として軍警に認識されていない、急げば問題なく海外に行けます」
「……それは、特務課としての発言か」
「はい」
「なら受け取れない」
平然と告げたクリスにヘカテは驚きを露わにした。目を丸くし、その半開きになった口から「え?」という緊張感のない声を漏らす。そして「いや、でも、このままじゃ軍警の手があなたにも」とわたわたと両手を振り回した。その様子を見、少し懐かしい心地になりながらクリスは首を横に振る。
「探偵社に開業許可証を出したのは特務課だ。探偵社がテロ集団ということになっている今、特務課の怠慢が疑われてもいるはず。加えてわたしを探偵社員かもしれないと知った上で国外に逃がしたとなったら、異能特務課という部署が取り消されるかもしれない。探偵社がなくなった以上、昼と夜だけは――特務課とポートマフィアだけは保っておかないと何が起こるかわからない」
「けど」
「それに、出ていくわけにはいかないんだ」
脳裏に浮かぶ上司の姿を見、クリスはそっと目を細める。
「決めたことがある。それを、ここで――この国で終わらせたい」
それはずっと覚悟ができていなかったことだった。死ぬなと言われてずっと生き続けてきたクリスには難しいことだった。手記を読んだ直後では決心のつかない、時間の経過が必要なものだった。知らないうちに深く絡まっていた白銀の糸――それを、フィッツジェラルドが切るではなくほどいてくれた。
君が探偵社員というものに少しでも近付きたいというのなら、亡き友らを、探偵社員らを、君の手で救ってやれば良い――と。
「……死なせてしまったのなら、せめて無駄死にはさせたくない。それに、早ければ早いほど探偵社員の皆が背負うものも少なくなる。あの人達はきっと、拷問されてでもわたしのことを言わないから……苦しい思いをさせる前に、終わらせたい」
それが、彼らへの恩返しになると思うのだ。
わたしという異物を愛してくれた人々への報いになると思うのだ。
命を賭して仲間を救った国木田の、その横に並ぶことができると思うのだ。
「……リア」
ヘカテは何も言えないまま立ち竦んでいた。断られるとは思っていなかったのだろう。しばらくそのまま口を開閉しつつ視線を泳がせ、そしてのぼせ上がってきたものを飲み込むように項垂れる。
「……僕達の仕事は犯罪者を残らず狩ることでも世界に真実の全てを晒すことでもありません。国に秩序を与え続けることです」
だから、と彼は顔を上げた。
「もしあなたがそれを揺るがす何かをするというのなら、僕はあなたに銃を向けます。けど、もしそうじゃないというのなら――誰かのために何かをしようというのなら、僕はあなたを信じます」
「……安易にそういうことは言わない方が良い」
「リアだから言っているんです」
ヘカテは笑う。
「リアは優しい人でした。だからきっと、あなたも優しい人なんです」
「わたしはリアじゃない」
「僕にとってはあなたはリアでありクリス・マーロウでもあったんです。この話、さっきもしましたね」
へへ、とヘカテは照れたように頭を掻いた。そして、クリスへと手を差し伸べる。搭乗券はすでにそこにはない。
「ご武運を。この世は舞台だと言います。あなたの物語が良い方向へ向かうことを願っていますね」
驚きに目を見開き、しかしクリスはすぐにそれを緩めた。
「……『お気に召すまま』か」
「リアと一緒に上演した作品ですよ。ずっと覚えています。良い作品というものは人の心に残るものです。リアとの思い出を――物語を、僕はずっと覚えていますから」
そうだったのなら良い。
ヘカテの中に残っているウィリアムの作品のように、この身が演じてきた全てが誰かの心に少しでも残ってくれたのなら――そうでなくても誰かの心を救うのなら、それは何よりも望んだことだから。
差し出されていたヘカテの手へと、クリスは手を触れた。手のひらが合わさり、そして互いに互いの手を握り合う。
「さよなら」
ヘカテがそう言って、笑った。
「いつか、特務課だとか異能だとか、そういうものなしにあなたと一緒に舞台に立ちたいです」
「……うん、そうだね」
もし、そういう世界がどこかにあったのなら。
「……わたしも、そう思うよ」
こんなささやかな願いも、どこかで叶うだろうか。