第4幕
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***
「奇妙なものです」
ドストエフスキーは膝上の本をそっと撫でた。
「彼女はこの世界という『物語』の登場人物です。そう見えました。けれど実際は違った……あれほどの異能の持ち主が、この世界に存在するはずもないのです」
浮かぶ檻房の中で紫眼はゆったりと微笑む。
「物語には制約がある。世界にもまた制約がある。彼女はそれを凌駕している。それもそのはず、彼女はこの世界の外側から与えられた”余興”そのものなのですから」
その口調は語り聞かせるようでもあった。目の前にいる誰かを挑発しているようでもあった。けれどそれを真正面から受けている太宰は、笑みも怒りもせず、ただドストエフスキーを睨み続けている。
「物語は柔軟です。人の頭から生まれ、人の手によって形を得る、それだけに終わらず他者からの改変をも受け入れる……彼女は改変そのものでした。それも、物語に介入し、物語を破綻させるための存在、結末を変えるための存在――破壊者。物語の異物です。その多くは物語に付随するものであるのに対し、彼女は物語そのものを変える役割を与えられた。”既存の物語を壊してみたらどうなるか”という実験、その道具として」
「それに誰よりも早く気付いたのが……彼女の友人だった」
「ええ。元々彼も大きく関与するはずのなかった存在でしたが……おそらく彼女はあなた方の敵として君臨することになっていたのでしょう。この《天人五衰》事件において、我らがボスの片腕として……それよりも前に、英国から焼却の異能者として派遣されて。いえ、もしかしたら十四年前の戦争で敵国の領土を破壊し尽くしていたのかもしれません」
ドストエフスキーの声はどこまでも楽しげだ。
「彼は彼女に”脚本”を与えました。そうすることで彼女を破壊の役割から引き離そうとした……あなた方探偵社の働きもあってそれは今に至るまで成功しています。猟奇殺人を起こしたり英国の戦闘機を向かわせたり亡き友人の手記を読ませたりと、様々な方法で彼女を揺さぶりましたが、手応えはあれど収穫は微々たるもの。彼女はこの世界の転換点にならないまま今日を迎えている。けれど彼は一つ、ミスを犯したのです」
一つ、と人差し指を掲げ、ドストエフスキーは問うように首を傾げた。なるほど、と太宰が神妙な顔のまま呟く。
「〈頁〉か」
「彼は十数年後に〈頁〉が使われる未来が予測できませんでした。予測できないまま、彼女が”何があっても彼女の意思以外では消失しない”ように彼女へ己の異能を仕組みました。結果、彼女は〈頁〉使用後もこうして存在しています。けれど」
「世界からは彼女の存在が消えている……元々存在しないはずだったから、〈本〉の機能が正しく動作していないのか」
「ええ。おそらく〈頁〉へ書き込んだ内容に適合した世界に、彼女が存在しなかったのでしょう。本来ならば人一人の存在の有無、生死や経緯などは調整できるものですが……彼女は存在を完全固定されている。あまりにも特殊すぎる過去と背負いすぎた罪が、彼女を全世界唯一のものにしてしまった。――そう、彼女は〈本〉による改変の対象にできないのです」
ドストエフスキーの話を、太宰は一方的に聞いていた。問いかけることはなかった。ドストエフスキーの物語るような説明を聞くだけで、語られない部分をも脳内に積み重ねていくかのように、太宰は現状を素早く把握していた。
〈頁〉は、それに書き込んだ内容に最も近い平行世界へと現実世界を置き換える。つまり採用先の世界に存在しないものは消失する。「探偵社が現場へ突入し政府要人を救い出した」という事実が、今のこの現実世界に存在しないのと同様に。
「つまり、彼女は〈頁〉が使われた際に一度消されている……消失した彼女を彼女の友人の異能が再定義し、彼女の存在と彼女に関する人々の記憶を〈頁〉による改変後も保持した。今までに彼女の脳が視認した全ての人間を対象に、異能が発動していたんだろう。彼の研究分野は脳だった、なら彼の分身たる異能が得意とする対象も脳だろうからね。――そう、”異能”だ。つまり私の異能無効化に打ち消される」
「故にあなたの中には彼女の記憶はない。記憶にない人間を守ることはあなたとはいえ難しいでしょう、本来通り探偵社救出のためにぼくと対峙するだけでも手一杯のはず」
ふわりとドストエフスキーは笑った。状況を知らない人間が見れば、それは安堵をもたらす天使の微笑みだっただろう。けれど太宰はさらに顔を険しくした。
悪魔を見つめるように、ドストエフスキーを睨み付けていた。
「……ああ、そうだ。君の言うとおりだドストエフスキー。……私にはもう、そのクリス・マーロウという子を守る手段はない。彼女が君の色の駒に成るのを止めることは私にはできない」
「ええ」
太宰の言葉にドストエフスキーは目を細める。その血色の悪い頬が笑みに歪む。
「――これで彼女はぼくのものです」