第4幕
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敦達は身なりを整えた後、銀行へと向かっていった。
「良かったのか」
地上を見下ろせる部屋の窓から二人を見送ったクリスに、フィッツジェラルドは珈琲カップを机上に置きながら問うてきた。その質問の意味はわかっている。
「……もう、疲れたよ」
クリスはそっと首を振った。
「もう……失うことがわかっているんだ、なら、もうあの人が守ったものを殺す存在にはせめてなりたくない」
「どういうことだ?」
クリスはそっとそちらを見た。見慣れきった上司がそこにいる。先程失いかけた友が、自分の机にふんぞり返って座っている。
奇妙な気分だ。この年上の既婚者を友と呼んでいるとは。あの頃はわからなかったけれど、友というのは同年代の親しい相手に使う関係性の名らしい。フィッツジェラルドも、ウィリアムも、ベンも、友と呼ぶには些か年が離れていた。
けれど、友なのだ。友とは何かと聞かれたら、クリスは明確な答えを返すことはできない。一緒にいる人――言葉にするならばその程度しかわからない。けれど今まで友と呼んできた全員は紛れもなく友だと言える。
どうしてかは、わざわざ言語化する必要もないだろう。
「……フィーは、探偵社を売らなかったんだね」
「その方が良いと思ったからな」
「探偵社が無実だと……本当に信じたの?」
「あの虎の少年を見たら信じずにはいられまい」
どこか楽しげに富と利益の王は言う。
「俺にはなかったものを探偵社は持っている。それだけで十分だ、彼らが強いとそれだけでわかる」
「フィーが彼らの”強さ”を理解する時が来るなんて」
「以前であれば貧乏人の意固地だと笑っていただろうがな」
そうだ、この男には富と利益しかなかった。力といえば暴力を意味し、強さといえば権力を意味した。けれどこの男は一度の転落により別の強さを知り、それを強さだと認識し、評価した。
この男は、確かに何かが変わったのだ。
「……今の君がギルドの長だったのなら、何かが違っていたかもしれないね」
「どうだかな。俺は特に何も変わっておらんぞ。少しばかり貧乏人というものを経験しただけだ」
「それもそうか」
笑う。
きっとフィッツジェラルドがフィッツジェラルドだったからこそ、あのギルドだったのだ。探偵社が探偵社だったからこそ今もそこにあるように、運命と呼ばれる決まり切ったものが世界にはある。
クリスがクリスであるように。
決して変えられないものが、この世界にはある。
――それを変えてしまうのが破壊者なのだ。
手記を読んだ後、クリスは様々なことを思い返し、考えた。ウィリアムは、クリスの存在自体は問題ではないと言っていた。人一人が偶然死んでも偶然生き延びても、戦争の結末のような大きな転換点に比べれば対したことではないのだと。問題なのは、異能を中心に回りつつあるこの世界で、クリスが異常なほどに強い異能を持っていること。であればクリスが大きな転換点になってしまう事態は避けられない。存在しなかったはずのものが戦争の結末に匹敵するほどの重要人物になる――物語の崩壊がそこにはある。
それを防ぐためにウィリアムは策を講じた。そして今、クリスはここにいる。
世界を恐れ、権力を恐れ、ひっそりと生きている。
そして、いつかは――自分がいるというこの丸い舞台に終焉をもたらさなければいけない。
本来存在しなかったものとして、この間違った物語を終わらせ本来の物語に戻さなければいけない。
そうしなければ、策を講じているとはいえ、いつかこの異常な存在が世界に露見してしまう。
そのために何をすべきかはわかっている。探偵社員殺しを諦めたのなら、それをしなければいけない。けれど決断ができなかった。機を逃せばウィリアムが恐れていたことが起こる。だから早く決断しなければいけないのに、死ぬなというあの一言を殺しを行ってでも背負ってきた身でそれを決断するのが怖くて仕方がない。
「……フィー」
言い慣れた略称を言い、クリスは改めて彼へと向き直った。
「……もし、わたしが存在していなかったら、君は何か変わっていた?」
「何だと?」
「もしもの話だ。もしも、わたしが君と出会っていなかったら……君の周囲はどうなっていたかな」
突然のことにフィッツジェラルドは口を噤んだ。なぜそんなことを問うのかと言いたげだった。けれど部下の問いに答えない彼ではない。
「わからんよ」
簡潔に彼は答えた。
「君はここにいるだろう、クリス。それ以外に何がある。ありもしない幻想について考えるほど俺は暇ではないぞ」
ありもしない幻想。
「……そうか」
思わず顔が綻んでしまったのはなぜだろうか。
「そうか……幻想、か」
フィッツジェラルドにとっては、クリスがいるこの世界こそが本当なのだろう。当然だ、彼はそれしか知らないのだから。目の前にいる人間が外部から付け加えられた異物だなんて、言ったところで「新手のSF映画か」と笑われるのだろう。
それがどうしてか、嬉しい。
彼の中に、確かにわたしの居場所はあるのだ。
「……フィー」
クリスはそちらへと歩み寄った。歩み寄りながら、ウエストポーチからそれを取り出した。茶けた表紙の、小さなノートだ。
「君に聞いて欲しい話がある」
取り出したそれを見、フィッツジェラルドの表情は固まった。
「……それは」
「正直、わたしもまだ混乱しているんだ。どこまでが何で、どこからが何なのか、何もかもがわからない。無色の糸が何本も絡まっているみたいだ。……それをほどく手伝いをして欲しい。今の君になら、頼める気がする」
手記を机上に置き、クリスは笑った。
「……助けて欲しいんだ。友達として」
きっとその顔は、困ったような、けれど泣き出しそうな、頼りないものだっただろう。