第4幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
病室で昏睡状態に陥っているミッチェルの姿を見た敦は、フィッツジェラルドとの取引に応じることを決断した。優しい彼の、彼らしい決断の仕方だった。
フィッツジェラルドは〈神の目〉を使って与謝野の位置を割り出した。どうやら他の社員達と共に黒服の集団に匿われたらしい。まさか探偵社と敵対関係にあるポートマフィアが手を貸してくるとは思わなかった。罠だろうか。それとも、ポートマフィアとの癒着という事実を作り出すためのドストエフスキーの策の一つだろうか。
与謝野の居場所を確定させた後、フィッツジェラルドはミッチェルを乗せる車を手配した。設備の整った車だ、重症者を医療施設外へ連れ出すなど良いことではないが、指名手配犯を社内に招き入れる方がリスクが高いのだ、仕方のない判断だろう。
クリスはその話を敦達本人から説明された。探偵社員を狙う立場である自分が彼らの潜伏場所を知るのはまずいだろうと思っていたのだが、二人はそれを考慮した上で教えてくれたのだから笑ってしまう。
「なぜそれをわたしに? あなた達が取引をした相手はフィーです、わたしは無関係の他人。わざわざそれを伝える必要はないんですよ」
笑うクリスに、敦も鏡花を見遣りつつ苦笑した。久し振りに見る敦の表情だった。
「そうなんですけど……きっとクリスさんも気になっていると思ったので」
「わたしはいわばあなた方の敵です。そういう情けはもう要らないんですよ。……とはいえその通りなんですよね、敦さんと鏡花さんの姿を見て安心してしまった部分もありましたし」
言い、クリスは駐車場の隅の壁へ寄りかかった。敦と鏡花も同じように壁によりかかる。
三人の前では、ミッチェルを車に乗せる作業が行われていた。もう少しすれば、二人は出発できるだろう。ここを行き来しているのはフィッツジェラルドの息がかかった人間ばかりだ。指名手配されている二人が目撃されても問題のない場所だった。
「教えてくださってありがとうございます。……与謝野さん、ご無事で良かったですね」
「とはいえ実際に会うまでは安心できないですけど……でも本当に良かったです」
ね、と敦が鏡花へと同意を求める。鏡花はこくりと頷いた。その目は見慣れた強い光を宿している。見ていて目を逸らしたくなるほどの強い光。
――懐かしい気がした。
「谷崎さんと賢治さんも与謝野さんとご一緒なんですよね。乱歩さんはやはりあの後から行方が知れないと。太宰さんは?」
「太宰さんに関しては全然情報がなくて……社長は逮捕されたらしいです。あと」
何かを言いかけ、しかし敦はなぜか口を噤んだ。和やかな空気が一瞬にして様変わりする。
「敦さん?」
覗き込むように首を傾げれば、敦は逃げるように顔を背けてしまった。鏡花も視線を泳がせている。どうしたのだろう、何か良くない知らせを言いかけて黙ったかのような――話の流れからして福沢のことだろうか。言いたくないことならば仕方はない、後で調べれば良いだろう。そう思って話題を逸らそうとした。
「後は国木田さんですね。与謝野さん達と一緒というわけでもないようでしたし……別行動でしょうか?」
途端、二人のまとう空気が凍り付いた。
それは触れてはいけないものに触れた時の、回答の拒絶を示す反応だった。
今まさに敦達が避けようとしていた話題そのものなのだと気づかざるを得ない沈黙だった。
「……え?」
静まりかえる通路で一人、その冷え込みを肌で知る。
「……クリスさん」
敦は言語を忘れてしまったかのように、ただクリスの名を呼んで黙り込んだ。
――なぜ、答えてくれないのだろう。
違う、答えるのが難しいだけなのだ。きっと説明の難しい事態があって、説明のしきれない場所に国木田はいるのだ。
そう言い聞かせる自分がどこかにいて――ではそれはどこなのだと冷静に問い返す自分もいる。
「……国木田さん、は」
敦がようやく口を開いた。
「……与謝野さん達と一緒に軍警の包囲網を抜けようとして、その最中に……追手を引き離すために、一人、手榴弾を持って……」
自爆したのだと敦は告げた。
「あの洋館に来ていた軍警がそう話していただけで、あの時は生死不明だっていう話だったんです。でも今は状況が変わって、その話がただの噂かもしれなくて、国木田さんが現場を錯乱させるためにそう見せかけたのかもしれなくて、だから」
早口に敦は続けた。その顔は切羽詰まっていた。
自分の発言を自分で信じていない顔だった。
「……だから、その」
そうですか、と誰かが敦へ言った。
「そうでしたか」
誰かの声が、笑みを含んで発されていた。
「国木田さんらしいですね」
誰かが、そう言って、笑っていた。
敦と鏡花がこちらを見る。どうして、と言いたげなその顔を見て、初めて知る。
――今、この場で唯一笑っているのは、わたしだ。
「いつかはそういう時も来るかと思っていたんです。あの人、後先考えず自分を他人の盾にする傾向があったから……やっぱり理解できませんね、探偵社の皆さんはどうしてそう誰かのために何かをすることへ躊躇いがないんでしょうか。自分だけ助かろうと思えばそうできるはずなのに」
困った人です、とクリスは笑った。この顔は本当に困ったような顔を浮かべていただろうか――自分ではわからなかった。
「準備ができた、来い」
遠くからフィッツジェラルドが声をかけてくる。誰よりも先にクリスはそちらへと向かった。後ろから敦と鏡花がついてくる。
トラックのような形の車の荷台へ敦達は乗り込む。この車で直接、与謝野のいる隠れ家へと向かうのだ。
「気をつけて」
荷台の扉が閉まる直前、クリスは二人へ手を振る。二人は戸惑ったような顔をしていた。けれどその表情はすぐに毅然とした、探偵社員のものに変わる。
「クリスさん」
はっきりとした声が名を呼んでくる。
「国木田さんは生きてます。きっと、生きてます。生死不明ってことは生きているかもしれないんです、死んだふりをして軍警から逃げたかもしれないんです。だから、諦めないでください」
「わかってますよ」
クリスはにこやかに笑った。
「……わかってます」
ただ、それしか言えなかった。
荷台の扉が閉められ、車が発進する。駐車場を出て行くその車体を見送った後、クリスは上空へと両腕を上げて伸びをした。
「久し振りに緊張したなあ、まさかホーソーンがフィーを襲撃するとは。人生何があるかわかったものじゃないね。あのまま放置しているでも面白かったかなあ」
先に戻ってるね、とクリスは言い、歩き出そうとする。けれどその足はすぐに止まった。
「クリス」
名を呼んでくる声があった。
「……何?」
くるりと振り返れば、そこには険しい顔をした上司がいる。怒らせるようなことをしただろうか。
あはは、とクリスは迫る何かを押し留めるように両手を胸の前で広げた。
「冗談だよ、今君に死なれたらわたしの居場所がなくなる」
「第五会議室だ」
「うん?」
「鍵もかけられる。他の開放的な会議室と違い、誰も中を見ることができない密会に適した部屋だ。……強情になったものだな」
その身長と身なりに似合う歩き方で歩み寄り、そして何もせずにクリスの横を通り過ぎていく。
「一時間、予約を取っておく。五分後だ」
呆然とその背を見送った。その会議室に来い、ということだろうか。
よくわからないまま、五分後にクリスは指定された通りに第五会議室へと向かった。ホーソーンの襲撃があった第一会議室とは同じ階層の、少し離れた位置にある小さめの部屋だ。プロジェクターやスクリーンがない代わりに休憩室のようなソファとテーブルが備えられ、二人程度でひっそりと話し込むのに適している。
ガラスが一切はまっていない扉には鍵がかかっていなかった。ノックをして中を覗き込んだが、誰もいない。取りあえず壁にかかってたプレートを「在室」に変えて、クリスは部屋の中に入った。
「……うん?」
フィッツジェラルドと取引の末「部下」になった時に、社内の構造を隅々まで調べてある。この部屋にも足を踏み入れたことがあった。けれど、その時にはなかったはずのものがソファの上に乗っている。抱えるほど大きなビーズクッションだ。フィッツジェラルドの会社とは思えない代物だった。誰かの私物だろうか。
それを持ち上げ、揉み、中に何も仕掛けられていないことを確認する。よくわからないままとりあえず抱き込んだ。そしてようやく、テーブルの上にも見慣れないものがあることに気が付く。
ティーセットだ。確かこれは、オルコットの私物。
ぼんやりとそれを見つめた。そして、脱力するようにソファへと座り込んだ。片手でクッションを抱えながらもう片手でウエストポーチを探り、取り出す。
桃色の、クマの防犯ブザー。
それを見つめ、そしてそれを持ったままクッションを抱く腕に力を入れた。クッションが形を変える。
胸に押しつけるようにそれを抱き締めた。顎を乗せて、そして。
「……う」
顔を伏せて、強く、強く、抱き締めた。
「……どうして」
何度も問いかけてきた。何度も訴えてきた。その言葉をまた、繰り返す。
「どうして」
答えてくれる人は、もういないのに。
「どうして……そうやって、行っちゃうんですか」
嘘だと叫べたらどんなに良いだろう。嘘だと叫ぶだけで全てが嘘になってくれたのなら、どれほど良いだろう。全てひっくり返って、全部自分の元に戻ってきてくれたのなら。
そんなことはあり得ない、わかっている。
わかっているのだ。
けれど願わずにはいられない。
あの人がいないとわかっているからこそ、願わずにはいられない。
――仲間を守るために自爆しただなんて、信じない方がおかしいではないか。
国木田はそういう人だ。そういうことができる人だ。だから敦の話が嘘ではないことは直感的にわかった。敦もきっと、国木田の人となりを知っているからこそ、その噂話を疑わなかった。
わかっている。
わかって、いる。
息を詰めて、クッションをこれでもかと強く抱きしめる。そうしないと全身の震えが消えてくれない。嗚咽が漏れてしまう。それが怖い。この感情が何かわからなくて、わかっていて、けれどこれと同じものを体験したのは擂鉢街から戻ってきた時くらいなもので。
あの時縋り付いた人はもういない。
そんな時はどうすれば良いのか、”普通”を教えてくれる人はもういない。
わからない。わかっていることとわからないことで頭がいっぱいだ。あの名前を声に出して呼ぶだけで何かが壊れてしまうような気さえするのはどうしてだろう。
ソファの上でうずくまる。暴れそうになる感情を、クッションを押し潰すことで耐える。
それ以上どうすれば良いのかわからないまま、一人、ただうずくまっていた。