第4幕
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[Act 4, Scene 10]
ホーソーンの襲撃を撃退したクリス達は、部屋を変えて話し合うこととなった。
「なるほどな」
背面の壁に巨大モニターを従えたフィッツジェラルドが、広い机上の隅に肘をつく。
「君達は無実の証明がしたい、そのために事件前に事件のことを知っていたらしい男を仲間に引き入れたい、と」
「虫太郎さんは事件の詳細を知っているはずです。今の僕達には何の手がかりもない。解決の糸口を、虫太郎さんが持っているかもしれないんです」
巨大モニターに向かい合う位置に座った敦が懸命に訴える。それを、モニターの横の壁により掛かりながらクリスは見つめていた。
小栗虫太郎という男についてはクリスも詳しくはない。敦と鏡花によれば、証拠隠滅の異能者なのだという。まさに犯罪のためにあるような異能だ、共喰いの際に乱歩を手惑わせたのも頷ける。《天人五衰》というグループによって振り回されている探偵社には今、逆襲を図れるような手札がない。虫太郎が何を知っているかはわからないが、それでも敦達はその僅かな可能性に縋り付こうとしているのだ。
絶望しただろうに。
打ちのめされているだろうに。
それでも諦めずに。
これが探偵社か。
「それで、そのムシタオルとかいう男を探し出すために〈神の目〉を使いたいと」
「虫太郎です」
敦の突っ込みを気にした風もなく、フィッツジェラルドは普段の高慢な笑みを浮かべて敦を見遣った。
「構わんぞ。無論、タダではないがな」
ふ、とクリスはフィッツジェラルドから視線を外した。彼の隣の席に座っているのは作戦参謀だ。治療を受け頭部に包帯を巻いた彼女は、先程数分ばかり部屋に一人こもっていた。オルコットのその行動は作戦立案を意味する。目の前に策もなく現れた指名手配中の敵がいるのだ、フィッツジェラルドが己の利益に利用しないはずがなかった。
敦達を騙して軍警に売るか、〈本〉を入手するために敦の移籍を強行するか――考えられることは多い。今の敦達にはそれが何であったとしても拒めるほどの余裕はないのだ。
「条件は?」
敦が先を促す。フィッツジェラルドはふと口元から笑みを消した。
「……ミッチェル君を復活させたい。君達との戦いの折、彼女は重傷を負い昏睡状態に陥っている。探偵社に治癒異能の女医がいただろう、それで彼女を治癒しろ。これが〈神の目〉の条件だ」
――予想外だった。
思わず壁から背を離す。「フィー」と名を呼べば、彼はこちらを一瞥してきた。
「彼女にホーソーンを倒させる。奴はミッチェル君のことだけを覚えている、それを利用する」
「待って」
数歩前に出、クリスは悠然と座る上司へと詰め寄った。しかし、彼はクリスを見遣るだけで何も言わない。これは決定事項だと言わんばかりの絶対的君主の顔がそこにある。
状況を掴めていない敦が「でも」と声を上げた。
「確か……芥川と戦って、その時にミッチェルさんはホーソーンさんを庇ったと聞いています」
「そうだが」
「その二人に……殺し合いを、させると?」
フィッツジェラルドは答えなかった。答える必要などないとばかりだった。
ホーソーンはミッチェルのために行動している。それが妄信に近いものだったとしても、その心は確かに彼自身のものだ。彼に唯一残っている彼そのものだ。
ホーソーンは、ミッチェルを重傷にしてしまったことを悔いていた。
「考え直せ、フィー」
「君は黙っていろ、クリス」
「じゃあわたしがやる。わたしならホーソーンを殺せる」
「駄目だ。奴には鼠が絡んでいる。君に手記のことを伝えてきた相手だ、これ以上君を奴に近付けるわけにはいかん」
「鼠が何だと言うんだ」
ミッチェルとホーソーンは、そういう形で再会してはいけないのだ。
「ドストは今海の向こうだ、わたしの行動なんて把握できるわけが」
「その思考すら読んでいるのが奴だぞ」
熱を帯びるクリスとは対照的に、フィッツジェラルドの声はどこまでも平常だ。
「わからんのか、クリス。奴は今探偵社を使って日本国内を混乱に陥れた。奴の狙いがこの極東の島国だけで留まると思うか?」
「……どういう意味?」
「《天人五衰》事件の後もこうして奴の手駒が動いている。あの一件だけがドストエフスキーの策ではないことは確かだ、この後も何かを仕掛けてくる。世界を巻き込むためにな」
世界を。
「極東の小国一つを落とすだけなら奴はもっと静かに事を成せる。……君は自分が何者か、わかっているだろう」
わかっている。
わたしは、世界に捕捉されてはいけない存在だ。
口を噤んだクリスから、フィッツジェラルドは興味を失ったかのように視線を逸らした。その目が捉えたのは白髪の少年、その敵意を宿した眼差しだ。
「……行こう、鏡花ちゃん」
立ち上がり、敦は背を向けた。
「取引相手を間違えた。別の方法で解決策を考えよう」
「敦さん」
部屋を出ようとするその背へ声をかければ、彼は扉へ手をかけた状態で立ち止まった。
「……クリスさんなら、『他人のことより自分達を優先しろ』って言ってくれるんだと思うんです。ミッチェルさんとホーソーンさんのことは、探偵社には関係がないからって。今は他人を気遣っているような優しさを発揮する時じゃないって」
「……そうです」
「でも、駄目なんです。僕は馬鹿だから……こんな取引をしたら、社長も国木田さんも、皆怒ると思うから」
敦の背中は、小さいけれど確かにそこにある。
「僕は探偵社の社員です。その探偵社が犯罪組織だと言われようと……僕は探偵社員でい続けたい」
知っている。
彼らはそういう人達だ。追われようと捕まろうと、きっと最後まで探偵社員としての姿勢だけは崩さない人達なのだ。
だから、いつまでもクリスへと手を差し伸べ続けてくれた。
わかっている、もうわかっている。
この人達がどこまでも愚かであることは、もう、見知っている。
これ以上クリスが正論をぶつけたところで、彼の、彼らの考え方は何一つ変わらないのだろう。
「交渉決裂か、良いだろう」
不意にフィッツジェラルドが席から立ち上がった。
「だが一つ、君達に見せたいものがある」
「……見せたいもの?」
「来い」
言い、フィッツジェラルドは彼らよりも先に部屋を出て行く。罠を疑う顔を一瞬浮かべてから、敦と鏡花はその背へ続こうとした。
「敦さん、鏡花さん」
その二人きりの探偵社員へ、クリスは声をかけていた。振り向いてきた二対の眼差しに、光の絶えないその色に、問う。
「……ホーソーンの襲撃があった時、フィーを見殺しにする選択もあったはずです。わたしを脅して〈神の目〉の使用を強制することもできた……あの時ならわたしを殺すことだってできた。気付いているでしょう?」
最後の言葉は鏡花に向けたものだ。彼女はそれを汲み取って、一つ頷く。
「あなたは私達を殺しに来る。わかっている」
「鏡花ちゃん……?」
「あなたはそういう人だから」
「それがわかっていたのなら、なぜわたしを殺さなかったんですか」
雨が降る部屋に飛び込んできた鏡花を見た時、クリスは自分の過ちに戦慄した。ホーソーンの攻撃に気を取られていたあの一瞬、あの時確かにクリスは無防備だったのだ。飛び込んできた鏡花に首を狙われても避けられなかった。死が、そこにあった。
なのに彼女はそうしなかった。クリスが自分達を殺そうとしていることに思い至っていたというのに、先手を打ってこなかった。
その理由を聞きたかった。
「探偵社員は無駄な殺しをしない」
鏡花の声は淡々としている。
「それに……あなたのことは守ると、皆で決めている」
――予想通りの、愚かな答えだった。
クリスは口を閉ざして俯いた。
「……こんな時まで」
「わたしもおかしな話だと思う。けど、皆がそう決めたのならわたしは従う」
やはり単調な声のまま言い、鏡花は背を向けて歩き出した。毅然とした背だった。
その背に、モンゴメリの背が映る。
――なくならないのよ、居場所は。場所はなくなるけれど、居場所はなくならないの。そこに人がいる限り、居場所は、帰る場所は、ずっとあり続けるの。
あの言葉を思い出す。
ああ、本当だ。
素直に、そう思う。
――わたしが何を決断しようと、あの場所は、あの人達がいる限りまだこの世界に残っている。