第4幕
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路地から出て、探偵社から離れることにした。ここにいても何もすることはない。むしろ何かに心が囚われてしまって正常な判断ができなくなっている。とにかく、とクリスは人々の中を歩きながらフードを深く被った。
これからのことは探偵社員の場所を割り出してから考えることにしようと思う。殺すか、その他か、それを考えるのは彼らを探し出してからでも遅くはない。
——これが言い訳であることなど、わかりきっている。
店頭に並ぶテレビが、ニュースを報道している。その音声を聞き流しながら歩き続けた。一度でも立ち止まれば、頭の隅に追いやっていた余計な思考が再び脳内を占領してしまう気がする。
何を考えたわけでもなくクリスは一方向に向かっていた。来た道を戻る方角だ。それはきっとこの先にある〈神の目〉を使って探偵社員の居場所を見つけ出そうとしている潜在意識から来た行動なのだろう、と無理矢理理由づける。そうしなければ、どうしてわざわざ抜け出したばかりの上司の手元に戻ろうとしているのかがわからなかった。
わからないことだらけだ。わたしは、わたしのことがわからない。
そうして再びビルの前に辿り着いた時だった。
——懐かしい姿を、見つけた。
二人の少年少女だ。つば付きの帽子を被って顔を隠しているものの、その風貌を見間違えるはずがない。裾と袖が千切れている白髪の男の子と、軍警の服を着た黒髪の女の子。
敦と鏡花だ。無事だったのだ。
「……ッ」
やっと、見つけた。
あの優しい人達を。
——殺さなければならない人達を。
声をかけられないまま立ち竦む。けれど目を逸らすことはできなくて、何かを深刻そうに話している二人を凝視してしまう。その隠しもしない視線に気付かれないはずもなく、敦と鏡花はこちらへと顔を向けてきた。
一秒、把握のための沈黙。
クリスを見つめて固まった敦の顔に、徐々に喜びの色が浮き上がってくる。
「クリスさん……!」
パァッと顔を輝かせた敦が駆け寄ろうとしてくる。しかしその腕を鏡花が引き留めるように掴んだ。敦の足が止まる。クリスと二人の間の距離は、縮まらない。
「鏡花ちゃん?」
敦が不思議そうな様子で鏡花を見遣る。それへ答えず、鏡花はクリスを見据えていた。
つばの下から覗く、鋭い眼光。
——探られている。
両手を握る。じわりと汗が滲む。
まだ駄目だ、と慣れた殺意が心の中から呼びかけてくる。
警戒されている。手を下すにはまだ早い。鏡花の警戒心を解かなければ。でなければ、殺せない。
殺せ、ない。
「……ご無事だったんですね」
ようやく絞り出した声に、やはり鏡花は微動だにしなかった。何も気付いていない敦が「はい」と嬉しそうに答える。
「クリスさんも無事で良かった……どうしてここに?」
「フィーに匿われていたんです。今日は少し、情報収集を。お二人は?」
「フィッツジェラルドに用があって。〈神の目〉で探して欲しい人が」
ぐい、と鏡花が敦の腕を強く引く。それ以上は言うなと言わんばかりの引き止め方だった。敦が戸惑った様子で鏡花へと再び視線を落とす。
「……鏡花、ちゃん?」
「……案内して」
クリスを見つめたまま鏡花は言った。
「フィッツジェラルドに会わせて」
「き、鏡花ちゃん、そんな命令みたいな言い方しなくても」
「わかりました」
困惑する敦をさて置き、クリスは鏡花に答えた。その真っ直ぐな眼差しを見返す。無言のまま、澄んだ瑠璃色と単調な青が交錯する。
「……通報しませんよ」
クリスの言葉に鏡花は反応を示さない。
「……わたしも、軍警と関わりたくありませんから」
それは本心だ。二人を通報する気はない。軍警に捕らえられては困るのだから。
鏡花の視線を受けたまま、クリスは二人の横を素通りしてビルの中へと入った。敦と鏡花が後ろに続く。少しの不審も見逃さないとばかりの目が、背中に食らいついていた。であればまずは彼らの目的を達成させる。フィッツジェラルドに会わせたその後ならば鏡花も気が緩むはず。
そして、その時に。
わたしは。
受付に来客の話をし、フィッツジェラルドとのアポイントを取った。クリスの名を告げたからか、待ち時間なく面会が可能となった。社員の申し出を断り、クリスが先に立って二人を指定の会議室へと案内することにする。
本来なら再会を喜ぶ会話が行われるはずだった三人の間には、足音だけが鳴り響いている。敦だけが何かを言いかけ、けれど何も言えないまま口を閉ざしていた。
しばらく、そういった沈黙が続いていた。
「……あれ?」
敦が声を上げる。突然立ち止まった彼へ、鏡花が「どうしたの」と声をかけた。クリスもまた振り返って敦を見遣る。
敦の顔は呆然としていた。そこにあるはずのないものに気付いたかのような表情だった。それは徐々に緊張を帯び、険しくなっていく。
「……血の臭いだ」
その言葉の意味をクリスが解する前に敦は通路を走り出した。鏡花がその後を追う。
「敦さん! 鏡花さん!」
社内とはいえ人の目がある。変装の有無に関わらず目立つ行動は危険だ。けれど彼の姿はすぐさま通路の奥へと消えていこうとする。
「くッ」
クリスもまた、その背を追うことにした。敦が何を察知したのかは定かではない。しかし、見失うことはできない。
敦はビルの構造がわかっているかのように迷いなく走って行く。その行く先がわかってくるにつれ、クリスは事態を理解していった。
「……まさか」
敦が向かっている方向は、今面会のために準備された第一会議室だ。
「あれは……!」
敦が何かを見つけて声を上げる。
階段の下に何かが倒れていた。人だ。温和な性格を示すような、布地の厚く色味の大人しいスカートの。
「オルコット……!」
オルコットが血まみれになって倒れている。
駆け寄った敦らに彼女は少しばかり顔を上げた。「あなた達は」と言いかけ、そんなことよりと言わんばかりに階段へと指を向ける。
その先にあるのは、第一会議室。今敦達を連れていこうとしていた部屋。
そして今、そこにいるのは。
「私、は、大丈夫……だから」
その先は聞かなかった。
クリスは階段を駆け上がった。後ろで誰かが名を呼んでくる。制止に似たそれを無視し、目的の部屋へと急ぐ。廊下側がガラス張りになっているその部屋は、戸を開けずとも中の様子が見えた。
人が二人いる。一人は見慣れた上司だ。けれど、もう一人は。
丈の長い一枚の布を肩にまとわせた、牧師風の男――ホーソーン。
「――ッ!」
迷わず扉を開けて中へと飛び込んだ。事態は今まさに戦闘の最中、ホーソーンが宙に血弾を数発発生させている。
「【テンペスト】!」
広げた手の動きに合わせて二人の間に氷の壁が広がる。ドドドド、と赤い銃弾がそこへと食い込んでいく。突然現れた防御壁にフィッツジェラルドは目を見開いた。
「クリス……!」
その声に答えずクリスはホーソーンへと突っ込む。腰から拳銃を引き抜き安全装置を解除、一通りの動作を一瞬で終わらせた銃口をその顔面に突きつける。
発砲。
それは詩句の壁に阻まれた。けれどそれで良い。相手の意識がクリスに向いた時点で、クリスは彼の後頭部に銀色の鎌鼬を向かわせている。
いくつもの斬撃がその頭部を狙う。銃弾に気を取られていたホーソーンはそれを異能で防げず、上体をかがめて回避行動を取った。しかしそれは予測済み。
重心を落としたホーソーンのこめかみを蹴り飛ばす。寸前で腕を掲げてガードし、ホーソーンは足を床に滑らせながら後退した。
対峙。
「……ホーソーン」
名を呼ぶ。けれどやはり反応はない。
「俺だけでなく彼女のことも覚えていないか、重症だな、牧師殿」
クリスの背後でフィッツジェラルドが笑う。けれどその声に余裕はない。
「あれほど可愛がっていただろうに」
「我が愛し姫君のため、標的に死を」
愛し姫君。
誰のことだ。
戸惑うクリスに対し、フィッツジェラルドは鼻で笑う。
「ミッチェル君のことか」
ミッチェル。彼女は今ポートマフィアとの戦いの傷のせいで動けなかったはず。彼女のこととフィッツジェラルド殺しは何の関係がある。
――関係などないのだ。
そうだ、とクリスは思い出す。
――”あなたには力がある”。
彼はクリスにあの伝言を伝えてきた。白い道化師と同じ――ドストエフスキーからの伝言を。
彼はドストエフスキーの手駒なのだ。あの紫眼の操り人形としてフィッツジェラルドを殺しにきただけなのだ。彼のミッチェルへの罪悪感を利用されて。
あの鼠は、そういう奴だ。
「愛故の蛮行……随分なことだ。誰が何をしようが構わん、好きにしろ。……そう言いたいところだが、生憎一つ許せんことがある」
クリスの背後で熱気が立ち上る。フィッツジェラルドの異能だ。
「この俺の顔を忘れる愚行、それだけは許せん!」
クリスは上司を振り返ることもないまま重心を沈め、横に退けた。同時にフィッツジェラルドが手にした何かをホーソーンへと投げつける気配。
人間の投擲とは思えない勢いで万年筆が滑空、思わず顔を庇ったホーソーンの手を貫通する。鮮血が散る。
「くッ」
ホーソーンの顔に動揺が走る。その一瞬を見逃さず、クリスは駆けだしていた。接近、近距離から突きつけるようにその胸元へ銃口を向ける。弾丸が防がれるのは既にわかっていた。
引き金を引くと同時に足を振り上げ顎下を蹴り上げる。脳震盪を狙った一撃。しかし仰け反って避けられてしまう。
ホーソーンはそのまま床を蹴って大きく後退した。背後はガラス壁、その向こうは地面からかなり離れた空中だ。けれど躊躇わず彼は己の背中をそれへと打ち付ける。
ガラスが割れる涼やかな破壊音。
すぐさま窓辺へ駆け寄り、ガラス片と共に地へと落ちていったその黒い姿を見下ろす。この程度の高度では彼は死なない。逃げられたのだ。
追わなければ。
「【テンペスト】……!」
「やめろクリス」
薄氷の足場を作り飛び降りようとしたクリスへ、冷静な声がかかる。振り返った先で、フィッツジェラルドは血の滲む肩を押さえつつも落ち着いた様子でクリスを見据えてきた。
「奴は以前の奴ではない」
「わかってる。彼はドストエフスキーの手駒だ。だから追わなきゃ」
「そこまでわかっているのなら、この状況も罠だとわかるだろう」
廊下のガラス壁から様子を見ていた敦が部屋に入ってくる。それを横目で見、クリスは己の上司を睥睨した。その威圧に屈するわけもなく、フィッツジェラルドは割れたガラスの向こうへと視線を向ける。
「宙を跳ぶ奴を追えるのは君くらいなものだ。君を誘い出す罠にしか思えんな」
「でも」
「策もなしに追うな。ホーソーンと今の君は互角だ、向こうが鼠の手下なら、正面からぶつかっても策に足を取られて首が飛ぶぞ」
言い返す言葉もなく、黙り込む。フィッツジェラルドの言う通りだった。
「それで」
何事もなかったかのようにフィッツジェラルドは部屋の中に入ってきた敦を見遣る。
「指名手配犯がなぜここにいる?」
「頼みがあって来ました」
敦が簡潔に答えた。その声にも目にも、意思の強さが表れている。相対する者の強さを知り、それに負けぬようにとしている顔つき。
おそらくそれは、探偵社救出に関することだ。何か案があるのだろう。でなければ――この状況下で、これほど強い心を保っていられるわけがない。
「ふむ、なかなか面白い冗談だ」
「冗談じゃない。僕は本気です」
「気を悪くするな、オールドスポート。指名手配犯自らがこうして敵の本拠地に姿を現すとは思わなくてな」
言い、フィッツジェラルドは会議室のソファへと腰掛ける。数分前まで暗殺者と対峙していたとは思えないほど悠然とした態度だった。肩の怪我を治療するだとかホーソーンの行方を追うだとか、他にすることがあるのではなかろうか。そう思いつつも口に出すようなことはせず、クリスは通路側のガラス壁の上部に備えられていた遮光布を下げる。部屋が一段と暗くなる。
「かけたまえ。話を聞こうじゃないか」
「……聞いてくれるんですか」
「何、興味があるだけだ。敵対する者の本拠地に身一つで乗り込んできた、その理由がな」
言い、彼はクリスを一瞥した。
「君も座れ」
「……どうして」
「気になるんだろう」
「そんなことは」
「嘘が下手になったな」
「ぐ……」
どうしてかすぐに言いくるめられてしまう。疲れているのかもしれない、と思いつつため息をつき、クリスは「じゃあお茶でも持って来るよ」と言った。敦は一応来客だ、茶の一つも出さないのでは申し訳がない。
一人部屋を出る。
――気になるんだろう。
フィッツジェラルドのあの指摘が、耳から離れない。
どうして殺さなかった、とあの目は言っていた。わかっている、クリスは探偵社員が国に捕まる前に排除しなければいけない。わかっている。十分に、わかっている。
けれど。
ぐ、と手を握り締める。
――逆手に持った包丁の感触が、そこにある。
この戸惑いに似た躊躇いの理由だけは、理解したくない気がした。