第4幕
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「あなた……」
モンゴメリの手がクリスから離れる。同様にクリスもまた、モンゴメリから手を離した。沈黙が路地に響いていく。遠くの大通りからざわめきに似た雑踏の音が聞こえてくる。
日常の、平穏の音が、聞こえてくる。
「……何か勘違いしているようだけれど」
襟元を直しながらモンゴメリがため息と共に言った。
「別に、手放すために行くわけじゃなくてよ?」
「それはわかってる」
「いいえ、わかってない。何もね。……心配してくれたことには感謝するわ。けど、あたしは平穏を捨てるつもりで行くわけじゃない」
睨みつけるとは違う強い目で、モンゴメリはクリスを見つめてきた。それを自然と見返す。緑の宝石のような煌めきの中に、自分の像が鏡のように映り込む。
「あたしはね、平穏を取り戻しに行くの」
凛と声が路地に反射していく。
「探偵社の社員がたまに顔を出しに来て、馬鹿みたいなやり取りをしていって、たまに敦が来てくれて……そういう日々が、あたしにとっては平穏だった。それを取り戻しに行くのよ。あの人達がいない毎日なんて平穏とは違うもの。——あなたもそうでしょう? マーロウ」
「……え」
「探偵社員がいない平和な毎日……それにあなたは耐えられるの?」
呆然と目の前の緑色を見つめていた。そこに映る自分の姿を、その奥に輝く真っ直ぐな意志を、見つめていた。
「……耐え、る?」
——探偵社員がいない、毎日を。
そんなもの、耐える耐えないの域ではない。彼らのいるこの街に来たのは最近なのだ、この街以外を渡り歩いていた時の方が時間としてはかなり多い。今更、特定の誰かと一緒にいられない日々が何だというのか。それに、自分はこの世界に本来存在していない。彼らと会うはずもなかった。探偵社員がいない毎日は、クリスに訪れるべき毎日でもあるに違いない。
だからそれは、大したことではない。
だから。
けれど。
——けれど、わたしは。
「……特殊戦闘員って呼ばれていたからにはもっと達観しているのかと思っていたけれど」
モンゴメリはちらとこちらを見遣ってから肩を竦めた。
「あたしと大して変わらないのね。迷ってばかり、目を逸らしてばかり、諦めてばかり」
「迷って……」
「そうでしょう? 救ってくれた恩人を信じ切ることもできないまま、助けに行く決断もできないまま、こんなところをうろうろして。みっともないわね」
そのつもりでここに来たわけじゃない、そう言おうとするも言葉は胸の奥につかえてしまう。黙り込むクリスへとモンゴメリはくるりと背を向けた。
「あたしは行くわ。平穏を取り戻しに行く。あなたはここでじめじめと立ち尽くしてなさい」
「……モンゴメリ」
「何よ」
「……一つ、聞いて良い?」
振り向かないまま、モンゴメリはそれでもクリスを待ってくれる。その背中に、クリスはかつての彼女の背を重ねた。白鯨で顔を合わせた時の背だ。ギルドという場所にしがみついて、居場所を失うことを恐れていた幼い子供の背。けれど今目の前にあるのは、命の危機さえある場所へと自ら飛び込んで行こうとする背だ。探偵社の皆が持っている背だ。
同じ人なのに、違う。
人はこれを成長と呼ぶのだろう。
「……もし、わたしと出会っていなかったら、君はどうしてた?」
「は?」
「もしわたしが存在していなくて、君と会うこともなかったのなら……それでも君は、この街に残ってあの店で働こうとしていたのかな」
訳がわからない、とばかりにモンゴメリは半身振り返った。眉をひそめて探るように睥睨してくる。それへと無言を返せば、辺りは問いかけへの答えを待つ沈黙に浸り始めた。促すようなそれに抗い切れず、しばらくしてからモンゴメリは大きくため息をついて腰に手を当て、呆れ顔をする。
「……そうね、きっとそうしていたわ。あなたがいなくとも、あたしは探偵社の一階で働いていた。けど、そんなのもしもの話でしょう? 今は今よ、今はあたしの目の前にあなたはいる。それが紛れもない事実……いえ、真実よ」
真実。
「誰の目から見ても明らかってこと。今の探偵社が犯罪組織として警察に追われているってことと同じ、ね。……あなたの言いたいこともわかるわ。あたしは今、欲しくて欲しくてたまらなかった、やっと手に入れた居場所を手放そうとしている。けどね、マーロウ。居場所というのは簡単にはなくならないものよ」
モンゴメリの目がクリスを捉える。薄暗い中で、エメラルドに似た眼差しが明るく輝いている。背筋は伸び、天と地を結ぶように凛然としている。
希望を知り、希望を胸に秘める者の姿が、そこにある。
「あたしはギルドを失った。それでも、今、ここにいるの。彼がいたから。彼のおかげで別の場所に居場所を見つけて、生きているの。あなたはギルドを離れてからもギルドに、フィッツジェラルドさんに求められた。ギルドがなくなった後も。……なくならないのよ、居場所は。場所はなくなるけれど、居場所はなくならないの。そこに人がいる限り、居場所は、帰る場所は、ずっとあり続けるの」
だから、とモンゴメリは目を細めて薄く笑った。
「何も怖くないわ。まだ、彼がいる。探偵社がある。なら、あたしは何も失わない」
くるりとモンゴメリは背を向けた。そしてそのまま、路地を出て行く。その背中を見送った。見送ることしか、できなかった。
——場所はなくなるけれど、居場所はなくならない。
また、戻って来れると。
この街に、あの日々に、戻れると。
あの人達が、生きている限り。
平穏の日々が、また、訪れると。
「……君が羨ましいな」
呟く。小さな声は、狭い路地に小さく消えていく。
「……戻りたい」
胸元を掴む。強く、強く、掴む。
「会いたいよ」
両手で、そこにはない何かを掴むように、留めるように、強く。
——探偵社員がいない平和な毎日……それにあなたは耐えられるの?
「耐えられるわけ、ないよ……」
声は細く震える。そのまま雑踏の騒がしさの中へと溶けて、跡形もなく消えていった。